言葉に生かされ言葉に殺され

ふとしたときに普通では想像できないほどに頭を働かせ色々なことを考えるときがある。脳内多動と言うわけではないけれど、常に色々なことが頭を駆け巡っていてそれはだいたい悩みだったりいいことではないことが殆どで、締め付けられるような痛みに耐えながら必死に思考を凝らす。考え始めてしまうと底なし沼というか、どうしようもないことをどうにかしようとして結局何も出来ない自分へ感じる無力感だとかに襲われてしまう。そう考えると本当に不毛な作業でしかないけれど、それでも辞められないんだから無意識って怖いなぁと思う。

必死に1つのことを考えることが好きだった。それ以外のことは何も考えなくて済むし、アイデアを練ることも好きだから。いい案だね!と言われると嬉しくなるし、発想力はないほうではないと思う。けれど、それがどうも自分の悩みになるとポンコツになってしまう。それは多分常に頭の端にいる「死にたい」という感情だとか、自己肯定感の低さとか、そういうもののせいなんだとは思うけれどそいつらは下手に手を出すと余計に引き摺り込んでくるので何も出来ない。ただ漠然と「いるなぁ」って感じ。手出しは出来ないし、逆にそちらから近付いてくることもあって厄介な他ない。

考えることが苦痛になったのはいつからだろうか。多分、それは「考えても無駄なこと」が増えた現実を知った頃からなんだろうな。どうしようもないことは世の中に溢れていて、それに身体を蝕まれながら生活していることをひしひしと感じるときがある。それは頭の中のたくさんの考えていることが全て意味がなくて、どうしようもないことだと気付かせるには十分で毎日増えていく整理整頓ができない感情に圧力をかけて蓋をかけてしまう。「どうしようもない」と気付いたときから考えることは億劫になるし、それを放棄する。放棄してとりあえず蓋をしておけば気持ちは楽だ。それでも、いつかそれが溢れたとき、蓋が外れてしまったときにはとにかく辛くて仕方がなくなる。涙を流そうと、現実は変わらないから。結局は自分でどうにかするしかないし、その不快感は底知れぬものがある。

 

けれど、そんな密封された何かに蛇口をつけて、少しずつ少しずつそこから感情を流してくれるのが精神科医やカウンセラーがしていることなのかなぁと思う。自分は専門家でもなんでもないから蛇口をつけることは出来ないけれど、それを熟知した人に話をすることで糸口が見つかる。本当にすごいなぁと思う、自分は蛇口をつける側になれるかはわからないけど、なれるのであればそんな大人になりたいと思っている。

考えを巡らせているとき、1人だとだいたい気分が落ちてどうしようもなくなる。考えるときは一緒になって考えてくれる人が近くにいるのが1番いい。それは病院だったし保健室だったり相談室だったり職員室だったりするんだろう。行き詰まったときに「ああだめだ」と止まってしまうことがあるけれど、誰か理解者が近くにいるとまた違った視点を見つけられることがある。というか、周りに信用できる人がいると必死に考える。見捨てられたくない、何も考えていないと思われたくない、褒められたい…きっと、色々な感情があるんだろうけれど、それがまた原動力になったりする。辛い気持ちはどうしようもないけれど、そうして先延ばしして先延ばししてを繰り返していけば、気付けば気持ちは薄れてるかもしれないしもしかしたら消えているかもしれない。それが無意識のうちに起きているかもしれないから、期待して先延ばししていこうと思っている。死にたいも消えたいも全て先延ばしで、とりあえず今を生きている。

 

「生きている意味がない」と嘆く人がいる。私もどちらかと言うとそちら側の人間だと思う。むしろ生きている意味が無いから生きているというか、生きている意味を探すのが生きている理由というか、なんていえばいいのか難しいけれどある意味生きている理由を見付けてしまったらもうそれで終わりな気もするのだ。全てがいっぱいいっぱいになるまで頭を働かせることはいいことではないけれど、何も考えずに過ごしていくのはある意味不健康な気もする。少しでもなにかぼーっと考えられるものがあるというのは幸せな事だと思う。それをなくしてしまうのは、いいこととは思えない。

そもそも一生大切にしていくべき生きている意味がこんな早くにわかって溜まるものか。どれほど大人ぶっていようが自分はまだだいたい16年間しかこの世を生きていないのな。そんな人間が生きている意味を模索し見つけ出すことなんて不可能だと思う。死なないでいる理由はたくさんあるけれど、それは生きている意味とは同義ではない。他人のためにただ生きているだけだ。

 

「あなたが死んだら私は悲しい」

「一緒に生きていこう」

 

という周りの言葉に生かされているだけ。自分に意思があるわけじゃなく、ただ漠然としたままとりあえずで生きているだけ。人を傷付けてしまうのが怖いから死ねない。自分が死ぬ事で悲しむ人がいて、その人が私が死にたいと思っていることを知っているから死ねないだけ。でもその効力はなかなかに強いものみたいで、中学から高校でそうやって言葉をかけてくれるたくさんの人に出会えたけれど、苦しいものは消えないものの生きていようと思えてはいるのだ。急にくる希死念慮に耐えられるかと言われるとそうでもなくて、「先延ばし」のために腕を切って凌ぐ毎日だけれど、それでもいいのかなと思えている。汚い腕で狭まった道はたくさんある、それでもこうして生きているからこそ得られたものもたくさんあって、それは今の自分の生きる糧になっているんだろうなと思う。

 

母親やいじめっ子。加害者からの言葉には何度も殴られるような感覚を覚えたし死のうと決意するには十分すぎるほどだった。だけど、例えば先生や主治医やカウンセラー。支援者からの言葉は何度も今死ぬべきではないのかもしれない、自分は生きていてもいいのかもしれないと思わせてくれた。自分に価値がないと嘆くことは、頼れる人がいるのに頼らないことは独り善がりで自己満足であって、裏切りな気もする。上手に人に頼ることはとにかく大切なことだしそれで楽になるなら万々歳なのかもなぁ。ある意味頼ることの出来なかったときの自分は頼らないことで頼らない自分に酔いしれていたのかもしれない。単純に頼ってこなかったから頼り方を知らなかったって言うのもあるかもしれないけど。

 

急に始まる脳内会議はすぐには辞められそうにない。きっとこれが原因で苦しむことも沢山あるだろうし、現に今はこれのせいで集中なんて出来たもんじゃない。だけど、こうして文章にまとめることで落ち着いたり頭の整理がつくのはいいことなのかもな。今の自分の目標は可視化でないと認められなかったものを言語化で理解していくこと。

腕を切ることでしか自分の心の痛みがわからない今を、少しずつ言葉にすることでどうして、どれくらい痛いのかを理解していけたら。死のうとするまでしんどいのを溜め込み実際に行動しようとしていたことを、これからはそれまでに言葉にして伝えられるようになれたら。そう簡単な事じゃないけれどいつかはそれをマスターして自分を乗り越え誰かを助けられる側になれたらな、と思う。自分が支援者になるならば、自分の逆境を乗り越える他ないと思うから。特に自分の場合はだけれど、自分が乗り越えられてないのに支援者になるとクライエントに対して感情移入してしっかりとした意思が通せなくなりそうだし、どうにか克服したいところ。

今日も1歩ずつ少しずつ頑張ってみる。