「もう、お母さんと死のうか」

包丁を片手に、母は私に呟いた。力のこもった手に握られたその包丁の刃は私に向いていて、母は静かに震えていた。私はただ怖くて、涙を流すけれど、それを見て母はまた、「お前は自分が可哀想だから泣くんだ」と酷く歪んだ顔で言うのだ。あのとき、自分はなんと言ったのか、思い出せない。いま、安全な場所でぼんやりと考えても、わからない。「ごめんなさい、許してください」と泣いて請うたかもしれない。それとも逃げ出したかもしれない。泣きながら自分から家を出ていっていたかもしれない。解離して抜け落ちた記憶は戻ることはない。

 

死にたくてたまらなかった中学時代、私は誰か殺してくれたらいいのにと不謹慎なことを思っていた。小学生のときーー「もう、お母さんと死のうか」と言われたときーーは、確かに生きたかったはずなのに。中学の頃の私には居場所がなかった。家で虐げられ、学校でも虐められる。そんな毎日だった。毎日、誰かに殺されたり、自死をする姿を想像しては、それに救われていた。死だけが私の救いだと思っていた。死に囚われた生活は、長くは続かなかった。継続的な希死念慮はこれから長らく続く自傷地獄への入口だったし、何より周りが気付いてしまった。死にたい気持ちの先にある、母との関係性に。

自傷について問い詰められたとき、泣きながら母の話をした。そして「お願いだからお母さんには言わないでください、お母さんは悪くないから」と零した。それを聞いた先生たちはなんとも言えない表情をしていて、ああ、「可哀想」とでも思われてるのかな、と私は感じた。それでも、よかったんだ。その日から、過去を、今を、話す日々が始まった。

カウンセリングは苦痛だった。カウンセラーさんが苦手だったというのもあるけれど、とにかく自分の話をすることに慣れていないし、自分を労る言葉に酷く警戒心を持ってしまうから。2年生のクラスが立ち並ぶ棟の1番奥、暗くこじんまりとした相談室に私は週に1回通うことになった。何度もかけられる「あなたは悪くない」という言葉が、すごく辛かった。私が悪くないなら、誰が悪いの?母親が悪いの?それは違う、許されない。そう考えることは許されない。悪いのは私。それで全てが丸く収まっていたのに…ぐるぐる、そう考えてはへらへら笑ってカウンセリングをやり過ごした。カウンセリングが何度目かもわからなくなった頃、相談室のソファに置かれたクッションを握りしめる私に、カウンセラーさんは「病院に行ってみない?」と提案した。

慢性的な希死念慮に、身体症状(毎日の頭痛、腰痛、過眠)。光のない目と、時々作ってくる傷痕。自暴自棄で今にも人生を投げ出してしまいそうだった私に、一瞬、光が灯った。病院?病院ってどこ?いつも行ってる小児科?それとも頭痛専門外来?……精神科?私、精神科へ、行くの?。ぼんやりしていた目に焦点が合い、カウンセラーさんをじっと見つめた。「…私はそんなに変ですか」。その時に出せる私の精一杯の言葉が、それだった。カウンセラーさんは慌てたように「違うよ、琥珀さんが変だから、可笑しいから病院へ行くわけじゃない。今の症状を少しでも楽にして貰えたら、って思ったのよ。今の琥珀さんは病院に通院してもいいような状態だと思うの」と、フォローを入れた。

紆余曲折あり、診察の日を迎えた。変わらずに母は怒鳴ってくるし、怒りが頂点に達すれば暴力をふるった。けれど、このときも私は「自分が悪い」と思っていた。ああ、またカウンセラーさんのように気を遣う相手が通院で増えるのか、とさえ思っていた。けれど、それは違った。

主治医は、凛としていて、まっすぐとした目で私を見つめてくる人だった。私がカウンセラーさんに苦手意識を持っていたのは何かを探るような、そんな視線が辛かったから、なので、主治医はそうではないと思って少し安心した。椅子を立ち上がり、私の目を見たまま、私の前にしゃがんだ主治医は、「これからよろしくね。学校で先生たちと話してるように話してくれたらいいから。無理に話さなくていいし、話したいことは話してくれたらいい。一緒に、生きていこうね」とニコッと笑った。涼し気な雰囲気の先生から醸し出される優しさに、少し力が籠った、「はい」という返事しか、そのときの私にはできなかった。

…いつだろう、主治医に母との話をできるようになったのは。何度も、何度も中学で中学2年生になり新しく変わったカウンセラーさん(高校までお世話になった)と、養護教諭と、生徒指導の理科の先生と話をするようになって、少し、「自分は悪くないのかもしれない」と思えるようになってからだろうか。心臓のバクバクを抑えながら、主治医に、母の話をした。いつものようにパチパチとパソコンの電子カルテに文字を打ち込む先生の手が止まった。私を見ながら、驚いた顔で、先生は何かを言おうとして、口を開けて、だけど、また口を噤んで…そうして、また口を開いた。「辛かったでしょう」。それはどれに対しての言葉なのか、わからなかった。今までされてきたことなのか、これを口に出して先生に伝えたことなのか。はたまた別のことか。何もわからなかったけど、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。そうだ、私は、辛かったんだ。何かが崩れたかのように、涙は止まらなくて、先生が無言で差し出したティッシュで涙をふいては、「ううぅ」と声を出した。気付いたら先生は隣に来ていて、私の肩をぽんぽんと叩いた。ぽん、ぽんぽん、ぽんぽん…と、一定のリズムで肩を叩かれると、少し落ち着いて、少しして、私は冷静さを取り戻した。この頃から通院は月に2回になった。

家は変わらずに地獄だけれど、学校と病院、2つの居場所ができた私の目は、少し輝きを取り戻したかのように思う。本音で喋れる場所があるということは、否定され続けてきた自分の人生では不思議な感覚だった。もう殺して欲しい、生きているのが辛い…そんな気持ちが、ほんの少しでも自分の中で薄れたことに、驚いた。

私…生きてていいんだ、生きても許されるんだ…。

初めて、そう思えた中学2年生の秋の終わりごろだった。

 

生きることは苦行だ。とても辛い。生きてるだけで私たちは傷ついていく。予測誤差に苦しめられる。そしてそれが時にはトラウマになる。予測誤差の頻度とその耐性で、トラウマは生まれると私は考えている。同じ出来事でも、予測誤差がなければ物事は円滑に進む。けれど、少しでも「あれ?」と思うことがあれば、気付けば傷口はパックリと開いてしまっていたりするのだ。私は、幾度となくそんな予測誤差に傷ついてきた。

愛する、愛されるという感覚が分からないのも、きっとそのせいなんだと思う。予測誤差に耐えるために、感情を殺した。そのほうが楽だったから。それが今は自分の弊害になってるのだから、厄介な話だ。

 

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そんなことを考えていたとき、降り出したのは雨だ。音が聞こえる。薄れゆく記憶のなかでも、その音は鮮明に聞こえていた。ザーッと勢いよく降った雨。前回の入院のときはカラッと乾いた冬だったので、雨の日の病棟がなんだか特別に思える。ただ気圧はしんどい。ガンガン痛む頭を押さえながら、目を瞑る。そんな3回目の入院だった。

全てのことは、入院中に考えていたことだった。

 

6月。私はいつもの病棟に入院していた。端的に言うと、無事に大学へ入学し、毎日生活していたところ、緊張の糸が途切れてしまったのだ。入院前は「入院したくないよぅ」なんて高校で久しぶりに会った先生たちにぼやいてたりしたが、やっぱり入院して守られた場所にいると落ち着くな、とも感じる。複雑な気持ち。ここは長居する場所じゃない、それは1回目の入院からの共通認識だ。それでも、変わらずに暖かい病棟に居場所を感じるのも、仕方のないことのように思う。1回目の入院のときは1ヶ月半かかったホールに出るという任務は、今回はたったの1日で遂行できた。そして3日もすれば話のできる同年代を見つけて、昼から夜まで何度も話をした。慣れって怖いなぁ、なんて思いつつ、コミュ障だと疑わなかった自分自身のことを、もしかしたらそんなことはないのかもしれないと思ったりもする(いや、それでもやっぱり初めは声が震えるし、裏返ってしまうけれど)。入院って結局は人間関係なんだと思う。医師や看護師との関係性はもちろん、患者同士の交流も精神科の醍醐味だろう。私は何度もこの関係性に、助けられてきた。

今回は担当医は新しい男の先生だった。慣れ親しんだ元担当医は別棟へ異動になったらしい。病棟入口の担当医師の欄に、先生はもういなかった。3月、4月の異動をここでも噛み締める。高校で慣れたはずなのに、案外寂しかった。元担当医は私にトラウマ治療をする決意を促してくれた人だったから。先生らしく、新天地でも頑張っていてほしいなと思った。患者の私に言われる筋合いはないだろうけれど。

看護師はほとんど変わらなかった。新しい人が何人か入ってきていて、また何人かの看護師が別棟へ異動した。1回目の入院のときお世話になった人も1人異動してしまった。あの大きな背中を見ることは、別棟に入院しない限りないのか…なんて思うと、少し寂しくなる。だけど変化を求めないことは惰性で、いいことではない。変化していくからこそ得られるものもある。そう信じて、本当は寂しい気持ちをぐっと堪えた。変わらずに病棟はまわっている。当たり前だけれど、そういうものなのだ。

 

エンジョイゼリー。もうこうやって言葉にするだけでヒヤッとする言葉。あの高カロリーババロア(じゃないですゼリーです)。あれ。また食べることになるとは思ってなかった。入院時診察のときに「追加料金のかかることは一切しないでください」ときっぱり担当医言い放ったので、エンジョイゼリー(栄養補助食品)が食事についてくるなんて想像もしてなかった。後日担当医に控えめに「これは食事のオプションなのでお金はかかりません」と言われた。金のかかることはしないでくれなんて、とんだ迷惑な患者だったな、と過去の自分の発言に少し後悔しつつ、お金は(追加では)かからないのか、と安心した。いや、入院しに、休みに来たんだからお金なんか気にせず休めよ。と思うところでもあるが、実際に入院費を払うのは私(と重度障害者医療費助成制度を担う地元)なので、ここは抜かりなく確認した。担当医は「お金のこと、気になりますよね。できるだけお金かからないようにしますから」と言ってくれた。その言葉に救われた。あまつさえ面倒な患者であることは間違いないのに(食べない飲まない問題児)、担当医は神か仏か何かかと思った。それが仕事なんですけどね。

 

明日天気になあれ。靴を投げるやつ。靴が倒れたら雨で、ちゃんと立ってたら(横にならずに、はける状態になっていたら)、明日は晴れるよ、みたいな古風な遊び。私は散歩のたびに1人でこれをやっていた(そして時々他の患者さんや看護師さんに見られ、恥ずかしい思いをしたりもした)。というのも、梅雨の入院は不慣れだったので、薄手の上着と半袖ばかりで、雨が降ったらつらいなあと思っていたのが理由だったりする。まぁ横に倒れたらまたそこまでケンケンしてまたひと蹴りして、靴が立つまで繰り返すのみだが。こういうところが変にずる賢いんだと思う。病棟ではてるてる坊主を作っている人もいた。そんな非科学的なものに頼るくらい、入院という日常は散歩がなくなってしまえば寂しくつらいものなのだ。少なくとも私の病棟は、午後2時間のお散歩の時間が救いだった。よく1回目の入院のときは(点滴されてたからとはいえ)2ヶ月近くも数10分の同伴散歩で耐えたなぁ、と思う。それくらいに散歩は私には大切だった。

私はとにかく歩いた。散歩の時間、売店に寄って、何かを買って、それからはとにかくずっと歩いていた。1回目の入院のときは、一緒に歩くお兄さんたちがいたけれど、今回は1人だ。1人だと、なんだか時間の流れがゆっくりに感じる。あえてイヤホンはつけずに、自然の音を楽しんだ。鳥のさえずりが、他の散歩している患者の会話が、川の音が、木々が風に揺られる音が、ダイレクトに耳に入る。休めているなあ、と思った。入院するまでの私は周りの音を気にして生活することなんて困難だったからだ。とにかく必死で、死にものぐるいで、ただ生きていた。入院すると時間の流れが遅く感じるけれど、その遅さを楽しむことも治療の一環なのかもしれないなと思う。

担当医とは色々な話をした。不安について、語り合った日もある。不安は不安であるからこそ大切なのであって、不安なくして人生はないと。難しい話だけれど、折り合いをつけて不安と向き合ったり、不安の正体を探して行けたらいいね、という話。あとは、「信頼と信用は、経験でしか得られない」という話をした。私はその経験が著しく乏しかった。初めて信用、信頼を感じられたのは高校へ入ってからだ。私は大人(成人)になるまでに、環境の悪さもあり、色々な欠片を拾い忘れたままだった。そしてその隙間が、私のトラウマだった。今は3度目の入院を経て、トラウマ治療が始まって、どこかへ行ってしまった心の欠片を拾う作業をしている。

どこか過去なんてどうでもいいと思う自分と、過去のしがらみに傷つけられている自分がいる。両価性があっても、私は私なのに。わかっているのに、自分の考えに悩まされることも多くある。日によってポジティブで、日によってネガティブで。夢を叶えたいと思う瞬間もあれば、もう消えてしまいたいと思うこともある。こういう自分と向き合うのがトラウマ治療なので、仕方がないのだが、明らかに自分に一貫性がなくて、どれほど他人の言葉で、他人の行動で自分を変容させてきたのかが伝わってくる。私が生きるための術だったのかもしれないが、悲しいことだ。

今更自分の人生を生きていいと言われてもどう生きればいいのかなんてわからなかった。「あなたはあなたの人生を生きていいんだよ」という言葉は、私にとって呪いの言葉でもあった。今までの過去が否定されるような、これからの自分に期待されているような、そんななんともいえない気持ち。誰も悪意があってそう言ってる訳では無いけれど、なんだかすごく辛かった。

でも、ある先生はこの話に付け足しをした。数Ⅱを担当していた仲の良い先生は、「自分の人生を歩んでいいんだよ、でも、琥珀がそれができないと思うなら、そうするのが辛いなら、誰かのために生きたっていいと思う。それは逃げじゃないと俺は思うよ」と。何気ないその言葉に、私は救われた。誰かのために生きることも自分のために生きることに繋がるのだと気付くことができたから。

 

トラウマ治療のあと、目を瞑り、心地いいときを思い出す。自分の中であったかくて、落ち着く所へ記憶を戻す。そうすると、「あなたはあなたの人生を生きていいんだよ」と私に言ってくれた先生たちの顔が浮かぶ。今、私は、自分の人生を全うしている。今までは誰かの人生を生きていた。母親の2周目、弟の1周目の補助ーー私の人生は、どこか他人事だった。だけど、他人事のなかに、少しの希望が見えた。やっと自分の人生、なんだ。きっと今までの私も、自分を生きてはいなかったけど、他人を支えるという立場の元、なんとか生きていたんだ。それは否定しなくていい。そう思えるだけで、どれだけ楽になったか。先生たちの何気ない一言にいつも救われている。死にたい気持ちが強いときに、ふと先生たちを思い出して心を落ち着ける。これが私のルーティンだ。

 

昔の私は無力だった。静かに泣いていた。

声を出して泣けば、「近所迷惑だ」「お前は自分が可哀想だから泣くんだ」と、余計に叩かれるから、大人しく、静かに、消え入りそうな声で、泣いている。このまま消えてしまえればいいのにと何度も思った。殺してくれたらいいのにと。真冬に裸足で家から追い出されると、とにかく寒くていてもたってもいられない。カチコチになった足に器用に息を吹きかける。そうしてるうちに手が冷えるので、今度は手を温める。そんな繰り返し。そうしてるうちに、いつか家の鍵が開く。それが私の日常だった。

時は変わって2022年、9月。現在。あの頃の私はもういない。今は、社会福祉士になるため、夢を叶えるために、大学へ通い、忙しい毎日を送っている。いや、あの頃の私はもういないわけではない。連続した点として、私の中には残っている。言語化できなかった拙い傷として、静かに過去の私は、まだ心の中で泣いている。

色々なことがあった。暴力と暴言に怯えた幼稚園から小学生時代を乗り越えて、中学に入り、卒業し、高校へ入り、紆余曲折を経て、卒業した。何度泣いただろうか。声を殺して泣いた日も、声を上げて泣いた日も、今でも鮮明に思い出せるのだ。涙の記憶は根強い。

 

「ごめんなさい」

「何がごめんなさいなんだか言ってみろ」

「食事を食べきれませんでした」

 

些細なことで、殴られて、蹴られて、罵詈雑言を浴びせられる日々。私の涙は枯れていた。小学生にして、「泣かなければ、長くは殴られない」ことを悟った。そうして泣けない私ができあがった。感情と行動がちぐはぐで、心の中の私は泣いているのに、怒られているときの私は涙も流せない。それでも、「お前の顔はムカつく」と、わけも分からない理由でまた殴られる。そうしたら、目を閉じる。聞こえないふりをする。流れに身を任せて、ただ時間が経つのを待つ。そういうときの私は痛みを感じなくて、ただ悲惨な音だけが耳に響く。解離して身を守る。ふわふわな雲に乗って、あたたかい場所で、イマジナリーフレンドと楽しくおしゃべりする夢を見る。身を守る防衛反応は、未来の私を困らせたけれど、それでも確かにこの頃の私には、それが必要だったと思うのだ。

中学に入り、いじめに遭った。学校でも家でも危険に曝される日々は、私の心を蝕んだ。あるときから、涙が止まらなくなった。テレビを観ているとき、学校で授業を受けているとき、寝る前、お風呂に入っているとき。自分の感情を無視して、涙は流れる。それを見た母は、私を気持ち悪いと罵った。私は泣くことが怖かった。怖いのに、涙はボロボロ、止まらなかった。

このとき私の心は凍ってしまったんだと思う。

 

私の死んでしまった心を蘇生してくれたのは学校だった。学校の先生たちだった。自暴自棄な私を救ってくれたのは、「琥珀さんの成長を見守っていますよ」と言ってくれた高1担任だったし、「私が悲しいから、辛いから、死なないで。何したっていい、死ぬのだけはやめて」と自殺を止めてくれたのは高2担任だった。「お前はいっつももう!目が離せねぇな」と笑ったのは高3担任だった。「琥珀のいいところたくさん知ってる」「琥珀が自分のこと好きになれないなら、私が好きになる」「愛されたことがないならこの高校でたくさん愛してもらえればいい。」…大好きな先生たちの言葉。私の宝物。

今も思い出す。高校で愛された日々のことを。それが私の欠片を拾う作業を円滑にする。トラウマ治療のたびに学校を思い出して、前を向く。進んでいく。これからも治療は続けていく。大人になるために必要だった欠片を拾い集めるために。消えない恐怖は愛された記憶で上書き保存する。

 

「私たちと一緒に生きよう」

そう伝えてくれた先生たちに、感謝している。それは、「もう、お母さんと死のうか」の対義語だと思う。殺されかけて、それでもなお生きたくて、少ししたら死にたくなって、死にたくて、死にたくて、仕方なかった私に溢れんばかりの愛情をくれた先生たちが、私は大好きだ。だから、私も誓う。

 

「先生たちとなら、生きていける気がします」