生き延びる

経験しなくてもいいようなことをたくさん経験してきた。それは良いことであったり悪いことであったり。思い返してみれば悪いことのほうが圧倒的に多かった気がする。それでも、その経験は今の私を作っているんだと思うとなんだか皮肉めいていて笑ってしまうけれど。

幼少期、幾度となく繰り返される母親からの暴力や暴言はどこの家にもあるものだと思っていた。私が外に追い出されたタイミングで誰が帰ってこようと、関わったら自分もそうなるから と思うのか、父親も姉も兄も、私が居ないかのようにドアを閉めて鍵をする。それは私もそうだった。毎日のように誰かを見殺しにするような日々を送っていた。殴られるたびに自分が悪いからとじっと我慢した(というか、泣き止まないと殴るの辞めない と怒鳴られながらだったので自分でも必死だった

今思い返すと離人感も酷く、されている感覚はほとんどなかった)。回し蹴りくらいのときは楽だった、あれは殴られるよりも叩かれるよりも痛くないから。ただ少し痛いふりをして、必死に謝っていればよかった。髪を掴んで窓から外に投げられたときは1階とはいえ少し傷んだ。身体が痛んだのか、心が傷んだのか当時の私にはわからなかったけどきっとあのときはとても心が痛かった。食べられないもの(苦手なもの)を食べさせられ吐いてしまったらそのまま狂ったように怒鳴られ続け、1人リビングから部屋を移動させられその吐瀉物を食べさせられたこともある。親が部屋に来るたびに、全く手が進まず減らないそれに怒鳴られる、殺されると身構えて必死で飲んでは吐いてを繰り返した。

またある時は、鼻血が出るまで殴られた。そのときに母親が笑いながら言った「ブッサイクな顔」という言葉は今も私の脳裏にこべりついて離れそうにない。確か、殴られたときに身構えたから。そんな理由で、何度も何度も殴られたのだ。「汚いな。血で床汚さないでくれる?」と言われ、泣きながら血を拭いた。泣けば泣くほどに「あんたは自分が可哀想だから泣くんだ」と、母親の行動はエスカレートした。私が当時泣いていたのは勢いよく怒る母親の気迫と、空気が怖くて仕方なかったから。そして、殴られた頬がじわりと熱かったから。自分を可哀想だと思い泣いたことなんて1度もなかった。どれだけ理不尽なことを言われようと、どれだけ殴られ続けようと「私が悪いことをしたから」と思い続けていた。

外にいる時間は楽だった。怒鳴られることはあるものの、手が出ることはほとんどなかったから。外にさえいれば安全だと思っていた。外では人が変わったように"優しいお母さん"になる母親に、当時は喜んでいた。今は嫌悪感しかないけれど、とにかくそのときは嬉しかった。愛されている、やっぱり私は愛されている。私のことを愛しているからああして躾をしているんだーーと思い続けていた。そうして小学4年までを過ごした。

 

「明日、ママがいない」

 

当時見たドラマの中で1番衝撃的で、それこそ私の人生を変えたものの1つだった。そのときから、児童虐待や児童福祉について小学生とは思えないほどに調べるようになった。それにのめり込むことで全てを忘れられた気がした。そのときから少しひねくれ始めた私は殴られながら「本当は母親は私のことが好きじゃないのかもしれない」「こんな娘いらないから殴るのかもしれない」と思っていた。当時の自分は虐待という言葉を使いたくなくて目を背けていたけれど、そんなものだったと思う。毎日の理不尽な暴力と暴言に耐える日々は辛かった。だけど、痣が出来るのはいつも洋服で見えない部分で、外面のいいお母さんを見た先生たちはみんな「いいお母さんだね、優しいお母さんだね」と言う。もう、期待なんてしていなかった。

母親にとってのこだわりなのか、中学に入ると格段に暴力が減る。兄や姉がそうだったから、私はとにかく早く中学生になりたかった。小学校高学年に入り、だんだんと「お母さんの期待通りの子」になっていれば殴られる回数は減ることを覚えた。弟の面倒を見たり、部屋の掃除をしたり、買い物へ行ったり。必死にいい子になろう努力をし続けた。

今思い返すと小学校でもかなりのことをされていたけれど(親に怒鳴られ家を追い出された日はお風呂に入れないまま学校へ行ったりしていて、汚いと思われたのが初めの原因だったと思う)、家でのことに比べたら全然辛くなかった。上履きがなくなれば上辺でみんな一緒に探してくれたし階段から落とされても保健室という居場所があった。机の中に死ねと書いてある紙が入っていれば別室で先生が話を聞いてくれた。どんなに悪口を言われても家で言われていることと比にならないほど易しいものだったし、自分の手提げの中に身に覚えのないもの(同じクラスの男子の持ち物)が入っていて、「泥棒だ!」と言われたときは困惑したあまり泣いてしまったが、先生が助けてくれた。遠回しに色々なことをされたなぁと思うけれど、それはまぁもう忘れたくらいのことだ。小学生って残酷だなぁ、くらい。こんなことをされていようと、私にとって学校は居場所だったから。保健室は暖かくて休みに行けばいっしょに絵を描いてくれたし、その絵は今も保管されているらしい。保健室があったからこそ毎日通えていたのかもしれないな。

 

そんなこんなで中学へ入学し、平凡な日々を過ごしていた。けれど、楽しい毎日は半年もしないうちに崩れた。仲間割れというか、いわゆる標的にされてしまい部活内でのいじめが始まった。全員からいじめられているわけでもなく、仲のいい子もいたしもちろん私は部活動(ソフトテニス)がとにかく好きだった。女子だけという殺伐とした独特な雰囲気はあったけれど、しばらくはそのまま続けていた。大会の時間や待ち合わせの場所を委員会でミーティングに参加出来なかったときに全く違うように教えられたり、LINEで悪口を言われたりステータスメッセージに色々と書き込まれたり、色々なことがあったけれど耐えていた。でも、どこかでぷつんと糸が切れてしまった。多分その最後の追い打ちをかけたのは、私をいじめていた本人ではなく私の家族だったと思う。

兄と姉はバスケ部に所属していて、どちらも優秀な成績を収めていた。兄はバスケをしなかった私を嫌っていたし、だからこそ部活に時々行けない私に「お前が妹で恥ずかしい 部活くらい行け」と度々文句を言った。それに乗るように姉は「テニス部は朝練行かなくていいんだね 羨ましい」と、そして母親は「せっかく高い金払ってユニフォームもラケット買ったのに」と言った。そこから本格的に部活動に行けなくなったが、家にいるわけにも行かず毎朝部活動の時間に学校へ登校しては教室であかりも付けず、カーテンを締め切って過ごす日々が始まった。不運なことに、私の教室は窓を挟んですぐ隣にテニスコートがあり、ソフトテニスのボールを打返すときの独特なあの音や、メンバーの声が聞こえた。もちろんそれは、私への悪口もそうで、全てが筒抜けだった。とにかく苦しかったし、死ねたらいいなと思った。

部活動の時間が近付くと、特定の人が近くにいると、頭痛や吐き気が出るようになった。そうして、自傷行為をするようになった。ただ腕を優しくカッターでなぞるだけ。血も出ない、ただ蚯蚓脹れだらけになった腕を見るだけで最初は満足だった。けれど段々とエスカレートして、ひょんなことで担任(当時の顧問)にバレてしまった。そこからはトントン拍子で物事は進んでいき、毎週のSCとの面談の中で精神科への通院を薦められた。今通っているのがその紹介された病院だ。

 

大人なんて誰も信じていなかったし、不信感のあるまま連れてこられた初めての児童精神科。穏やかな雰囲気の待合室は私を緊張させるには十分だった。主治医は若い女の先生で、白衣を着ているのを見て「ああ、医者なんだなぁ」とぼんやり思っていた。通院回数もたいして多くなく、処方されるのは漢方のみで。変わらない毎日が苦しくて仕方がなかった。ドクターストップの勢いで辞めた部活動のおかげで家に居る時間が増え、今度は家でのトラブルが増えていった。

当時兄は家から遠い高校へ毎日通っていた。そのストレスを私や母親にぶつけ、母親のそのストレスを私にぶつけた。死にたいと思う回数が増え、何度も腕を切りTwitterで言葉を発しているうちにそのアカウントが学校に知られた。当時の生徒指導と養護教諭からその話をされ、泣きながら家の現状を話すと次の日呼び出され、児相へ連絡が行くことになった。私が早退したときに「うちの車はあんた専用のタクシーじゃないんだよ サボってんな、調子乗るな」と熱がある私に言っていた母親のことを少し気にかけていた先生たちはすぐに行動をしてくれた。ここから、人に頼ることを覚えて言ったと思う。毎日話す時間を作ってくれた先生たち。母親が荒れているときには学校の携帯電話を生徒指導が常備していてくれて、もし何かあったら連絡してね と電話番号を教えてくれた。それがどれだけ心強かったか。

その話をして、通院回数も増え、また他の先生と話をする機会も増え、だんだんと居場所が増えた。学校は楽しかったけれど、私をいじめていた人が平然と過ごしているのを見るだけで嘔吐を繰り返し、なかなかに苦しい日々だった。学年集会や球技大会、体育祭や合唱祭。嫌でも目を合わせる機会はあって、そのたびに倒れそうになりながらも耐え続けた。

中3になり、母親からの言葉の暴力に耐えきれなくなった私は食事が出来なくなった。2週間で6kg落ちた私を見て先生たちは焦り、担任はゼリーを買ってきて毎昼食私に与えるようになった。卒業アルバムには「働いたらゼリーを高い肉にして返すこと!」と書かれたけれど、あのとき先生からのゼリーがなかったら本当に生き延びることは出来なかったと思う。束の間、性被害にあったことで一時期は担任でさえも怖かった。服を脱がされ、下着を剥ぎ取られた感覚がずっと残っていたし大きな男性の手はみんな同じに見えて、とにかく自分は汚いと思っていた。いくら洗っても落ちない感覚は気持ち悪くて仕方がなくて、狭い空間や異性が怖くなった。触れられるだけで涙が出そうになり、まともに話せないときもあった。それでも根気強く接してくれる先生たちに、だんだんと頼れる人は近くにいても大丈夫になった。相談室や保健室に通いながら卒業を迎え、たくさんの先生に見守られながら無事に高校に入ることが出来た。

 

高校は中学とはまるで違っていた。欠時数が原因で通院の回数を減らさざるを得なかったし、誰なら頼れるのか最初はわからなかった。だけど、たくさんの人と関わり頼れる人は着実に増えていった。中学の養護教諭が産休に入ったり、主治医が産休に入ったり、父親が単身赴任になったり。はたまた私が熱中症で倒れ1日入院することになったり、自殺企図を立て先生と別室で丸1日過ごすことになったり、とにかく色々なことがあった。色々と濃い1年になったと思う。勉強面でも努力を覚え、成績には5が並びテストでも物によっては90点を超えた。その中で、数字に固執する自分というのも見つけることが出来た。気付けば広がっていた支援の輪に甘えながら、1年を過ごした。過去の自分では考えられないほどに未来を思ったり、これからどうするのかについて思いを馳せた。

何度もあったお別れ。特に主治医とのお別れは強烈なものだったと思う。自分にとって1番弱い部分を見せていた人が1人居なくなる、しかも急に。全くついていけないまま、「おめでとうございます」と言いつつも帰りの電車では涙が止まらなかったし裏切られたという感覚さえ覚えた。それでも、最後はこの人に診てもらえてよかったと思いながら「お互い頑張りましょう」とお別れすることが出来た。いい別れだったと思う。

新しい主治医も本当にいい人で、性被害から男性は苦手だったけれどそれを誰かに言うこともなかったのでとにかく会うまでは不安だったけれど穏やかで優しそうで物腰の柔らかい先生で、とても落ち着いた。主治医が変わるまでの間頭の中では「前みたいに先生が喜びそうなことばかりを言うのは辞めよう。辛いときは辛いと言えるようになろう」と思っていたので、新しい主治医にはいい話も悪い話もたくさんした。その結果で今とても過ごしやすくなっているから、良かったと思うし別れは辛い事ばかりではないんだなと実感した。

 

今、ここまで私が生き延びてきた記録。たくさんの人がいて、支えられて過ごしてきた記憶。全部全部大切にしていかなければいけないと思う。苦しい毎日を過ごしたことをどれほど悔やんでも進めることは無いけれど、それを糧にして努力して前に進むことは出来るから。

すぐに全てを成し遂げようとせず、残りの2年間で少しずつ成長し、大きくなっていけたらいいなと思う。