被害者の役割を降りるとき

ずっとずっと、私は被害者だった。

いじめ、虐待。いつもされる側で、それはまさに艱難辛苦。私に深いトラウマを植え付けた。根っこで燻り続けるその傷が、いつまでも私を苦しめた。助けて欲しいという言葉さえ言えず、傷はどんどんと深くなっていく。早いうちから処置しておけば、縫い付けてあげれば、薬を塗っていれば、もっと浅く済んだ傷は、無視をしてきた代償で、広く、深く、残っていった。

 

幼少期の被虐待体験がある成人を対象にしたf-MRI(ファンクショナルMRI、機能性磁気共鳴機能画像法)による検査によって、被虐待体験が脳に及ぼす影響に関する知見が得られるようになってきている。
これまでに、性的虐待の大脳視覚野への影響、暴言虐待の聴覚野や脳梁(左右の大脳半球をつないでいる部分)への影響、厳格体罰前頭葉前野や脳内報酬系への影響、DV の目撃の視覚野への影響などが指摘されている。(ワンストップ支援における留意点 ―複雑・困難な背景を有する人々を支援するための手引き)

 

私の脳は、もう戻らない。過去の出来事をなかったことには出来ないし、それを受け止めることしか、今の私に出来ることはない。わかっているけれど、それでも苦しいのだ。さっさと受け止めて前を向くのが1番いいことだとわかっていようと、体が、心が、それに順応してくれるとは限らない。むしろ、思考と実際が剥離していけばいくほどに、またその傷は深くなっていく。

受け止めるとは、どういうことなんだろうか。赦すこと?受容し、未来志向になること? それとも、気付くこと?事実を知ること?私はずっと疑問に思っていた。簡単に受け止めるなんて言うけれど、それが出来たら苦労していないし、そもそも受け止めるのはなんなのかがわからないのだ。そこで、私は、ふと、受け止めるということは被害者の立場を降りることなのではないかと思った。

被害者の立場を降りるというのは自分自身が被害者であることを認めるだけでなく、加害者がいることを理解すること、そのときはただ虐げられていた心を再度見つめて認めてあげる、育て直してあげるということだと思う。傷を癒すというのは、その傷がどのようについてしまったのかを、よく思い出す作業。それで、記憶に落とし所をつけて、何とか過ごしていく。依存性患者が毎日回復し続ける(物質を使用しない日を更新していく)ことと同じように、私たちトラウマに囚われた人々も、日々それを忘れ続けるーーすなわち、受け止め続ける。それが、被害者の立場を降りるということなのかもしれない。いや、もしかしたら忘れ続けるというよりは、それを意識しなくても大丈夫なくらいになる、という言葉のほうが正しいのかもしれないが。

 

自分を愛することには、被害者の役割をやめることも含まれます。被害者の役割を担うことには、注目と承認が得られるという恩恵もあります。私たちは、他人からの関心や哀れみを愛と誤解し、それを得ることが私たちが愛を感じる唯一の方法になり始めます。(2016,ティール・スワン)

 

自分を愛するのは、辛い。それはトラウマ経験のある人に共通した意識だろう。自分自身を加害者だと思っている面と、被害者だと思っている面があるから、自分を愛することで自分を”赦した”気がしてしまうのだ。自罰し続けなければいけないと洗脳された人に、自分を赦して、そして愛してあげようと言ってもそれは難しい。そもそも自分を愛した経験なんてないし、基本的には自分自身を責め続けているからだ。しかし、だからこそ、自責の部分は変わらないとしても、被害者の立場を降りるためには、加害者と被害者の関係を明らかにしなければいけない。

加害者から与えられるのは、無意識下での「自分は存在していてはならない」という否定的なメッセージだ。それに慣れて、麻痺していくと、それがさも自分の考えのように洗脳されていく。本当はその言葉は加害者からの受け売りなのに、実際に自分がそうであるかのように、感じていってしまうのだ。「死ねばいいのに」「産まなきゃ良かった」と言われてきた子は自分の命に疑問を持つ。「ブサイク」「出来の悪い子」と言われてきた子は自分自身に見えない才能があったとしても、自分はこの世でいちばん価値のない存在であるように思うようになる。

DVを受けた女性が似たように暴力を振るう男性と付き合うというのはこれと似たような例だと思う。なるほど、それを愛と思っている人からすれば(それが無意識であれ、意識的であれ)、暴力は愛に必須なのだ。被害者であり続けるということには、決まった人間関係パターンが構築されやすかったり、慈愛の目で見てもらえるというよいところがある。自分自身もそれに縋っていれば気持ちは楽だ。けれど、それはまたそういった関係性(加害ー被害)を繰り返してしまうことに繋がる。人生で、トラウマの再演が続いていくのだ。だからこそ、私たちは、被害者をいつかは辞めなければいけない。つらく、悲しい事実だが、実際は被害者のまま、幸せになることは難しいのだと思う。幸せに見えるそれは幻想であって、真の幸せではないのだ。幸せの形は多彩で難しい。

 

私は、急にやってくる意味のない希死念慮は、死にたい気持ちのフラッシュバックだと解釈している。過去に辛い出来事のあった人は、解離やフラッシュバックの頻度が多い。その解離やフラッシュバックは、どうやら体だけの問題ではないようだ。感情の麻痺という意味での解離、映像ではなく感情のフラッシュバック。私は、それが確かにあると思っている。なんとなく不快な感じだったり、むしろ辛い状況なのに感情が押し込められたり。それは、無意識に追いやった記憶が、表面に出てこないようにする術なのだ。

被害者を辞めたとしても、これは繰り返し起こるだろう。そう簡単に記憶とはさよならできないし、記憶の整理をしていく過程では、逆に解離やフラッシュバックが頻発することもある。トラウマ治療は曝露療法だ。記憶を正しく処理していくというのが目的。だからこそ、それをするのは険しい道のりだと思う。固く閉ざされた記憶を開く作業は、それほどに難しいことなのだ。

想像している以上に加害者を加害者として理解していくことは辛いし、自分がその被害にあったと言葉に出すのは難しい。凝り固まった思考を前向きに変えていくことなんて至難の業だ。それを、私ができるのだろうか。何度も悩んだし、確かに私はトラウマの恩恵を感じていた。だからこそ、きっと、トラウマを手放すのが怖かった。トラウマを手放すのが怖い、そんな発言をしてしまえば、私を応援してくれている人達に呆れられてしまうかもしれないけれど、とにかくそれ以外の言葉が見つからない。私は、怖かったんだ。トラウマを手放してしまえば、人生のほとんどが失われ、ぽっかり穴が空いてしまう気がした。そもそも、トラウマを抱えずに生きていく自分の姿が想像できなかった。そんな自分は私じゃないとさえ思っていた。本を読んだり、色々な人の文章、論文を見漁る中で、「これはこうするべきだ」とか「これはこういうことが理由で、こういう症状である」とか、そういう知識はついても、なんだかそれを自分に照らし合わせると乖離していくような気がした。沢山本を読めば、文章を読んで理解することは容易になる。けれど、それを自分のこととして受け止めて、活かしていけるかというのは別物の話なのだ。知ることと実行することは違うし、そもそも知識を実際に照らし合わせていくのはとても難しいと思う。他者を想うように自分を愛することはできないし、そもそもどんな事象も「私以外は適応される」と思う。私じゃなければこう声をかけるとか、こういう風に寄り添うとか、そういう考え方はできるのに、それが自分のことになるとてんでダメになる。それは、自罰意識の現れだ。それを自分で理解するのも、とても苦しいこと。人生の基盤を揺らがされたのは事実とはいえ、そういう思考パターンで決まった人間関係を築いてしまっているのは自分だと、気付かされてしまうから。私はそれが何よりも怖かったのかもしれない。例え、私にトラウマを与えた加害者が悪かったとて、そう私が思えるようになるか、認知の歪みを直せるかどうかはわからないのだ。

 

何度思ったかしれない。

殺してくれたらよかったのに、という気持ちがまたふつふつと頭に浮かんでくる。助けを求められなかった小さい頃の私を見ては、「なんでこのとき助けを求めなかったんだ」と大きくなった私が責めている。

認知の歪みでいちばん辛いのは、全てを抱え込んで自分のせいだと思い込んでしまうことだと思う。私も長年それに苦しめられた。全て自分が悪いと思えばトラウマは楽になる…と、そう信じてきたものも、脆弱だった。

 

トラウマについて考えるとき、私に浮かんできたことがあった。それは以下の通りである。

"例えば、同じような境遇で育ってきた子どもがふたりいたとする。家の中で、母親から殴られ、暴言を吐かれ、居場所はなく、そんな日々で、ひとりは母親を恨み、嫌い、思春期に入る頃には反抗し、母親に暴力を振るい、母親と同じように言葉を荒らげ、罵倒するようになる。そして、金銭的な余裕が出ればすぐに一人暮らしを始める。またひとりは、母親をそれでも愛し、健気に愛を渇望し、永遠に「いい子」を演じ続ける。実家暮らしを続け、不安定な母親のカウンセラーとなり、ある種共依存のような状態となる。それぞれは同じ扱いを受けたのにも関わらず、全く正反対の道へ進んだ。一体何が違ったのだろうか。"

本当にふと、疑問に思った。というのも、Twitterには(もちろん家庭環境の差はあるし、この例のように全てがそっくり同じようにと言うのは難しいし、ここまで顕著に母親へ反抗している人はあまりいないけれど)"母親からの愛情を渇望している人"と、"母親を憎んでいる人"がいて。私はどちらかといえば前者で、何をされても大好きで、愛して欲しくて、愛して貰えるならなんでもいいと思っていたから、不思議で仕方なかった。それと同時に、自分の中にある気持ちーー「母親に愛してもらいたい」「母親からの愛は諦めるしかない」「母親はちゃんと愛してくれているのに、その愛情を受け取れていないのは私だ」ーーは、どれも母親への憎悪と言うよりは諦めだったり、自責の念であったり。SCから「"自分のせい"だって自分を責めてるほうが落ち着くのかな」と言われてそれだぁと思った。その気持ちがあまりに根強いから、こういう思考になるのかもしれない。他人のせいはどうしようもない。だけど、自分のせいなら自分を変えればいいから(この場合、自分に原因がないのに自分のせいだと思っているわけで、変えようがなく余計にアンビバレントな感情に苦しめられるのだが)そう思う方が楽なのだ。

人は変えられない、変えられるのは自分だけ。

それを理解しているから、他人へ意見しない。いや、それよりは他人へ意見することが怖い。どんな反応をするのか、何よりも恐れている。もし傷付いたらどうしようと、後込んでしまう。

 

信じるとは、そのことを本当だと思う。疑わずに、そうだと思い込む。信用する。信頼する。信仰すること。

 

信じるとは。気になり調べて出てきた文章。ああ、わたしはある意味、人を信じている。自分のこと以上に。そして、信じない相手は自分だけだから、疑えるのは自分しかいない。私の信じる行為は少し盲目的。信仰、あるいは錯覚。自分自身を信じられないからこそ、他者を信じてしまうのか、はたまた、他者を信じてしまうから、自分自身を信じられないのか…。

 

「信じてしまう人」がトラウマを持ちやすいのか、「信じない人」がトラウマを持ちにくいのか。そのような比較はできないけれど、なんだか考えさせられる。私にはこうして思考を練って練って考えることしか出来ないから、今日も考える。トラウマとは何か。どう対処すればいいのか。考え続ける。被害者の立場を下りられる日を待ち望みながら、考える。

縄を握って金木犀へ、

上手くいかない。何も上手くいかない。想定外だらけの毎日だ。そんな毎日終わらせてしまおうと思った。辛い気持ちを無視して、視野狭窄に陥ってる自分を殺して、私はベルトを片手に家を出た。200錠飲んだ薬はまだ回る前で、拒食で少しふらついた足を動かしながら、公園をめぐりめぐった。どこなら首を吊れるんだろう。

私は金木犀の香る木の下で死ねたら、と思っていた。でも、そんなの甘かったんだ。たまたま運がいいのか悪いのか、細い木しかなかった。しかもそれは金木犀ではなかった。雨上がりで金木犀の香りはほとんどなかったし、金木犀を探す手だてもなかった。何しろ薬が回る前に、この夜中に、なんて…そう簡単に上手くいくはずがなかったのだ。

……ふらつく。薬が回ってきた。搬送だけは避けたい。だから、細い木で首を吊ってみたりしたけど、上手くいかなくて…首を吊るのを諦めて、家へ帰った。

同居人のいない夜は酷く長かった。薬が効いて、1日中眠り、目覚めたのは2日後の朝頃だった。体内時計は狂っていて、感覚は月曜日だった(薬は日曜日に飲んだ)。吐かなかったし、普段飲んでいる薬の規定量が多いのもあるのだろう、大きな副作用もなかった。少しの吐き気と、丸一日眠ったことくらい。

なんだ、こんなもんか、と思った。いつも死にきれない。いつも上手くいかない。笑ってしまって、会う約束をしていた先生たちに連絡をとった。

「すみません。薬を飲んで首を吊ろうとして、上手くいかなくて入院になりました。会えません。退院したら会いましょう」

先生の反応は様々だった。「何やってんだよお前〜!」みたいな人もいれば「本気で心配した」と言ってくれる人もいた。「退院したらうちにおいで、子どもと遊ぼう」だとか、「脱獄(退院)したらSCを受けに、遊びに高校へ来てください」と言われたりした。今までたくさん愛されてきたし、今も愛されていることを思い出した。なんで忘れてたんだろう。心理的視野狭窄は恐ろしい。私は誰からも必要とされていないし消えてしまえばいいと思っていた。だから、先生たちからの言葉は涙が出るほど嬉しかった。かまってほしくてやったわけじゃない。やれるなら完遂したかった。だけど、死のうとしたことで、改めて気づけたことだってある。いいんだ、これで。のらりくらり生きていくのがいつもの私だ。ふわり、ふらりと生きていく。それが私だったじゃないか。

 

「あのね、そのお薬の量は本来だったら搬送されて胃洗浄とか点滴を受けるべき量で、今までしたことがなかった首吊りをしようとした時点で、入院は待てないと思ってます」

 

主治医にそう言われて、4回目の入院が決まった。急性期の精神科閉鎖病棟。いつもの病棟。もう逃げてしまいたい気持ちもあったから、少し安心したりもした。言語化ができるようになってきたと思っていたけど、まだまだだったんだ。やっと口に出してSOSを出せるようになったけど、それだけじゃまだダメなんだ。私にはまだ、待つ力がなかった。24時間対応の訪問看護に連絡する勇気はなかった。でも、担当のPSWさんには連絡した。寂しくなって、LINE相談を開こうともしてみた。対応時間外だった。私はこの「対応時間外」に随分と弱いのだ。そういう時間に調子を崩しやすい。自覚している。これを克服していかなきゃいけない。いつだって助けてもらえるわけじゃない。いつだって、誰かに縋ればいいわけじゃない。わかってる。大学在学中に克服しなければいけない課題だ。

1回目の入院の退院日から約1年。そして、3回目の入院の退院日から約3ヶ月半。入院するようになってからはまともに半年外で過ごせたことはない。今回もそうだし、次回も多分そうだ。次回は計画的に2月に入院をする予定なので、また3ヶ月で入院する。ああ、弱くなったなあ…なんて、そんなふうに思った。

私は強かった。確かに、強かったはず。中学生の頃は、今よりも辛かったかもしれないけれど、毎日をなんとか生きていたし、入院費を気にして入院もしなかった。何度も入院の話が出ては流れてを繰り返していた。頑張れていたのに。今の私はもう頑張れない。休む方法を知ってしまったら、もうそれ以上に頑張ることは出来ないのだ。それが現実なのだから、つらい。つらいけど、生きていくしかない。と、思う。いつもこの繰り返しだ。死ななければ、いや、生きなければ。消えなければ、いや、進まなければ。頑張らなければ…もう、頑張りたくない。アンビバレントな気持ちと向き合う、必死になって。

 

「助けて」さえ言えない時期があった。今は違う。ちゃんと、「助けて」と言えるし、「つらい」とも言える。その成長は素晴らしいことだろう。けれど、言語化できるようになるほどに、自分の言語化できる範囲と、言葉にできる範囲の差に苦しめられた。

 

「もっとねぇ、気楽に生きていいんですよ。気楽に。琥珀さんは全てを受け止めて溜め込んで頑張ろうとするから、辛いんだと思いますよ」

 

大好きなOTさんからの言葉は、色々なことを思い出させた。

ここ数日、というか、ここ数週間、しんどい時間が長かった。けれど、それを無視して、無理して、頑張っていたから、また私はパンクしてしまったんだと思う。

本当は先生たちに会いに行って甘えたかった。でも、後期の授業が始まったのでそれどころじゃなくて、なかなかそれもできなかった。LINEで話していると嬉しいし楽しいけど、やっぱり寂しさも強くなった。退院してまずは高校へ行くことを決めた。大学の知り合いはうつが酷くなり少し休むことにしたらしい。その子だけに「実は、私もうつ病なんだ。今入院してる。お互いゆっくりできるといいね、帰ってくるの待ってるよ」と連絡した。うつ病を公言してはいないけれど、公言している彼女の気持ちが少しわかったような気がした。

気楽に生きるってなんだろう。ぼんやりと浮かぶのは、高1の2月、死のうとして失敗したときに先生たちから言われた「抱え込みすぎだよ、人生イージーモードよ」という言葉。ああ、そうだったな、ずっと言われてきてたんだ。私が見て見ぬふりをして、いつまでも辛い気持ちに浸っていただけ。ずっとずっと前から、先生たちは言っていたじゃないか。そう思うと笑ってしまった。

 

入院してから数日はひたすら寝込んでいた。鬱が酷くて、起きていると死にたい気持ちが強くなり、死なないためには意識を落とすことしか方法がなかった。眠れないくせに、必死に目を瞑った。担当医が来ても、OTさんが来ても、Nsが来ても、PSWが来ても、ずっと私は横になっていた。

気付けば点滴をされ、ぼーっとしながら流れていく点滴を見ていた。意識を保っているのが辛くて食べるのも面倒で、入院前は5日ほど食事をとらなかったりみたいな生活をしていたので、最初は食事が酷くストレスだった。でも経鼻栄養はもっとストレスだから、頑張って食べた。担当医に抗議の手紙を送ったりもしてみた。飲水量や食べる量より、私を見てくださいと。死にたくて入院してきたわけで、私は食べたくて飲みたくて入院してきたわけではないと。色々なNsと相談して、渡した手紙はそれなりに効果があった。泣きながら訴える力さえ私には残ってなかったけど、ちゃんと人に気持ちを伝えることは大切なことにまた気付くことができた。それに気付けた入院だから、よかったんだと思う。

大学は休んでいる。そろそろ3週間になる頃だろうか。約1ヶ月入院で出席を溶かして、欠席を重ねた。けれど、5回まで休める大学のおかげでなんとか保っている。あとは退院後1度も休まず11月、12月と冬休みを挟んで1月を頑張ればいいだけだ。そうしたら、また2月に入院して…またそんな日常が、始まるから。

のらりくらり生きていく能力には長けている。ずっとそうだ。紆余曲折経てなんだかんだなんとかなっている。大学もそうだ。前期も入院したけどフル単だったし、後期も入院したけどきっと全部単位は取れるはず。GPAはそれほど高くないかもしれないけれど、とにかく大学を通いきって国試に受かればいいのだから、それでいいのだ。少し成績への執着心の消えた自分に驚きつつも、これが成長なんだと考える。死にものぐるいで勉強をしてテストを受けて100点に近い点数をとって、成績はオール5で、そんな煌びやかな生活は長くは続かない。代わりに蝕まれたわたしの心はもう戻らない。それでも、今も、過去も、それでよかったんだ。そうして学ぶことが出来たのだから、よかった。過去を生きる私も未来を生きる私も、私なのだ。

 

疲れたなあ、と自覚できたこと。調子が悪くなる前触れがわかったこと。それが今回の入院で得たものだ。いつかは入院しないで進んでいく日々が求められる。仕事をしたいのだから、当たり前だ。実習もあるのだから、病院に依存したり、入院をし続けることはできない。私にとってここは通過点であって、ずっといる場所ではないのだ。いつか、いつか…きっと、巣立つ日がくる。それがいつになるかはわからない。数年では無理な話だろう。でも、10年、20年と進むうちに、なにかひとつでも変わるものがあればいいなと思う。そして、変わらないものもあればいいと思う。変わらなさに安心しながら、変わるものに適応していく、そんな生活がいちばんしっくりくる。

「生きていてよかった」とたくさんの人たちから言われたとき、安心した。私はまだ自分は死ななければいけないと思っているけれど、それに「こんなに優しくて賢い琥珀さんが自分のことを嫌いなのが不思議です」と言ってくれた先生。「なにやってんの!みんなの琥珀なんだからもっと自分大切にして」と言ってくれた先生。今は他力本願でいい。生きていて、得られるものはこれから得ていけばいいのだ。何かを得るために生きるのではなくて、得られるものがあるかもしれないから生きる。得るものはついで。おまけ。そんな考え方で、いい。

 

「死にたい気持ちが少しでも薄れて自殺未遂を起こすような状態じゃなくなる、それを退院の目安にしたいと思っています」

そんな私の言葉に頷いてくれた担当医と、今日、退院の話をした。今月中に退院したいからとわがままを言って、少し早いが10月31日を退院日とした。辛いけれど前に進んでいく。それが私だ。きっと、それは、これからもそう。また進んでいく。進むしかないから、進む。時には立ち止まりながら、大切な場所に立ち戻りながら。

 

変わらない日常なんてない。毎日毎日、変わらないようで、変わっている。OTを受けて自信をつけたり、完成を喜ぶ自分がいたり、回診があったり、Nsと何度も話をしたり。話しかけたり話しかけられたり退院したりして話す人が変わったり、自分が退院する番になったり。死にたい気持ちも消えはしないけれど少しは楽になったりもするのだ。

大丈夫、私ならきっと大丈夫。ほんの少しの勇気を得られた入院生活だった。また2月までさよなら病棟。

短いけれど備忘録。

 

「もう、お母さんと死のうか」

包丁を片手に、母は私に呟いた。力のこもった手に握られたその包丁の刃は私に向いていて、母は静かに震えていた。私はただ怖くて、涙を流すけれど、それを見て母はまた、「お前は自分が可哀想だから泣くんだ」と酷く歪んだ顔で言うのだ。あのとき、自分はなんと言ったのか、思い出せない。いま、安全な場所でぼんやりと考えても、わからない。「ごめんなさい、許してください」と泣いて請うたかもしれない。それとも逃げ出したかもしれない。泣きながら自分から家を出ていっていたかもしれない。解離して抜け落ちた記憶は戻ることはない。

 

死にたくてたまらなかった中学時代、私は誰か殺してくれたらいいのにと不謹慎なことを思っていた。小学生のときーー「もう、お母さんと死のうか」と言われたときーーは、確かに生きたかったはずなのに。中学の頃の私には居場所がなかった。家で虐げられ、学校でも虐められる。そんな毎日だった。毎日、誰かに殺されたり、自死をする姿を想像しては、それに救われていた。死だけが私の救いだと思っていた。死に囚われた生活は、長くは続かなかった。継続的な希死念慮はこれから長らく続く自傷地獄への入口だったし、何より周りが気付いてしまった。死にたい気持ちの先にある、母との関係性に。

自傷について問い詰められたとき、泣きながら母の話をした。そして「お願いだからお母さんには言わないでください、お母さんは悪くないから」と零した。それを聞いた先生たちはなんとも言えない表情をしていて、ああ、「可哀想」とでも思われてるのかな、と私は感じた。それでも、よかったんだ。その日から、過去を、今を、話す日々が始まった。

カウンセリングは苦痛だった。カウンセラーさんが苦手だったというのもあるけれど、とにかく自分の話をすることに慣れていないし、自分を労る言葉に酷く警戒心を持ってしまうから。2年生のクラスが立ち並ぶ棟の1番奥、暗くこじんまりとした相談室に私は週に1回通うことになった。何度もかけられる「あなたは悪くない」という言葉が、すごく辛かった。私が悪くないなら、誰が悪いの?母親が悪いの?それは違う、許されない。そう考えることは許されない。悪いのは私。それで全てが丸く収まっていたのに…ぐるぐる、そう考えてはへらへら笑ってカウンセリングをやり過ごした。カウンセリングが何度目かもわからなくなった頃、相談室のソファに置かれたクッションを握りしめる私に、カウンセラーさんは「病院に行ってみない?」と提案した。

慢性的な希死念慮に、身体症状(毎日の頭痛、腰痛、過眠)。光のない目と、時々作ってくる傷痕。自暴自棄で今にも人生を投げ出してしまいそうだった私に、一瞬、光が灯った。病院?病院ってどこ?いつも行ってる小児科?それとも頭痛専門外来?……精神科?私、精神科へ、行くの?。ぼんやりしていた目に焦点が合い、カウンセラーさんをじっと見つめた。「…私はそんなに変ですか」。その時に出せる私の精一杯の言葉が、それだった。カウンセラーさんは慌てたように「違うよ、琥珀さんが変だから、可笑しいから病院へ行くわけじゃない。今の症状を少しでも楽にして貰えたら、って思ったのよ。今の琥珀さんは病院に通院してもいいような状態だと思うの」と、フォローを入れた。

紆余曲折あり、診察の日を迎えた。変わらずに母は怒鳴ってくるし、怒りが頂点に達すれば暴力をふるった。けれど、このときも私は「自分が悪い」と思っていた。ああ、またカウンセラーさんのように気を遣う相手が通院で増えるのか、とさえ思っていた。けれど、それは違った。

主治医は、凛としていて、まっすぐとした目で私を見つめてくる人だった。私がカウンセラーさんに苦手意識を持っていたのは何かを探るような、そんな視線が辛かったから、なので、主治医はそうではないと思って少し安心した。椅子を立ち上がり、私の目を見たまま、私の前にしゃがんだ主治医は、「これからよろしくね。学校で先生たちと話してるように話してくれたらいいから。無理に話さなくていいし、話したいことは話してくれたらいい。一緒に、生きていこうね」とニコッと笑った。涼し気な雰囲気の先生から醸し出される優しさに、少し力が籠った、「はい」という返事しか、そのときの私にはできなかった。

…いつだろう、主治医に母との話をできるようになったのは。何度も、何度も中学で中学2年生になり新しく変わったカウンセラーさん(高校までお世話になった)と、養護教諭と、生徒指導の理科の先生と話をするようになって、少し、「自分は悪くないのかもしれない」と思えるようになってからだろうか。心臓のバクバクを抑えながら、主治医に、母の話をした。いつものようにパチパチとパソコンの電子カルテに文字を打ち込む先生の手が止まった。私を見ながら、驚いた顔で、先生は何かを言おうとして、口を開けて、だけど、また口を噤んで…そうして、また口を開いた。「辛かったでしょう」。それはどれに対しての言葉なのか、わからなかった。今までされてきたことなのか、これを口に出して先生に伝えたことなのか。はたまた別のことか。何もわからなかったけど、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。そうだ、私は、辛かったんだ。何かが崩れたかのように、涙は止まらなくて、先生が無言で差し出したティッシュで涙をふいては、「ううぅ」と声を出した。気付いたら先生は隣に来ていて、私の肩をぽんぽんと叩いた。ぽん、ぽんぽん、ぽんぽん…と、一定のリズムで肩を叩かれると、少し落ち着いて、少しして、私は冷静さを取り戻した。この頃から通院は月に2回になった。

家は変わらずに地獄だけれど、学校と病院、2つの居場所ができた私の目は、少し輝きを取り戻したかのように思う。本音で喋れる場所があるということは、否定され続けてきた自分の人生では不思議な感覚だった。もう殺して欲しい、生きているのが辛い…そんな気持ちが、ほんの少しでも自分の中で薄れたことに、驚いた。

私…生きてていいんだ、生きても許されるんだ…。

初めて、そう思えた中学2年生の秋の終わりごろだった。

 

生きることは苦行だ。とても辛い。生きてるだけで私たちは傷ついていく。予測誤差に苦しめられる。そしてそれが時にはトラウマになる。予測誤差の頻度とその耐性で、トラウマは生まれると私は考えている。同じ出来事でも、予測誤差がなければ物事は円滑に進む。けれど、少しでも「あれ?」と思うことがあれば、気付けば傷口はパックリと開いてしまっていたりするのだ。私は、幾度となくそんな予測誤差に傷ついてきた。

愛する、愛されるという感覚が分からないのも、きっとそのせいなんだと思う。予測誤差に耐えるために、感情を殺した。そのほうが楽だったから。それが今は自分の弊害になってるのだから、厄介な話だ。

 

__

 

そんなことを考えていたとき、降り出したのは雨だ。音が聞こえる。薄れゆく記憶のなかでも、その音は鮮明に聞こえていた。ザーッと勢いよく降った雨。前回の入院のときはカラッと乾いた冬だったので、雨の日の病棟がなんだか特別に思える。ただ気圧はしんどい。ガンガン痛む頭を押さえながら、目を瞑る。そんな3回目の入院だった。

全てのことは、入院中に考えていたことだった。

 

6月。私はいつもの病棟に入院していた。端的に言うと、無事に大学へ入学し、毎日生活していたところ、緊張の糸が途切れてしまったのだ。入院前は「入院したくないよぅ」なんて高校で久しぶりに会った先生たちにぼやいてたりしたが、やっぱり入院して守られた場所にいると落ち着くな、とも感じる。複雑な気持ち。ここは長居する場所じゃない、それは1回目の入院からの共通認識だ。それでも、変わらずに暖かい病棟に居場所を感じるのも、仕方のないことのように思う。1回目の入院のときは1ヶ月半かかったホールに出るという任務は、今回はたったの1日で遂行できた。そして3日もすれば話のできる同年代を見つけて、昼から夜まで何度も話をした。慣れって怖いなぁ、なんて思いつつ、コミュ障だと疑わなかった自分自身のことを、もしかしたらそんなことはないのかもしれないと思ったりもする(いや、それでもやっぱり初めは声が震えるし、裏返ってしまうけれど)。入院って結局は人間関係なんだと思う。医師や看護師との関係性はもちろん、患者同士の交流も精神科の醍醐味だろう。私は何度もこの関係性に、助けられてきた。

今回は担当医は新しい男の先生だった。慣れ親しんだ元担当医は別棟へ異動になったらしい。病棟入口の担当医師の欄に、先生はもういなかった。3月、4月の異動をここでも噛み締める。高校で慣れたはずなのに、案外寂しかった。元担当医は私にトラウマ治療をする決意を促してくれた人だったから。先生らしく、新天地でも頑張っていてほしいなと思った。患者の私に言われる筋合いはないだろうけれど。

看護師はほとんど変わらなかった。新しい人が何人か入ってきていて、また何人かの看護師が別棟へ異動した。1回目の入院のときお世話になった人も1人異動してしまった。あの大きな背中を見ることは、別棟に入院しない限りないのか…なんて思うと、少し寂しくなる。だけど変化を求めないことは惰性で、いいことではない。変化していくからこそ得られるものもある。そう信じて、本当は寂しい気持ちをぐっと堪えた。変わらずに病棟はまわっている。当たり前だけれど、そういうものなのだ。

 

エンジョイゼリー。もうこうやって言葉にするだけでヒヤッとする言葉。あの高カロリーババロア(じゃないですゼリーです)。あれ。また食べることになるとは思ってなかった。入院時診察のときに「追加料金のかかることは一切しないでください」ときっぱり担当医言い放ったので、エンジョイゼリー(栄養補助食品)が食事についてくるなんて想像もしてなかった。後日担当医に控えめに「これは食事のオプションなのでお金はかかりません」と言われた。金のかかることはしないでくれなんて、とんだ迷惑な患者だったな、と過去の自分の発言に少し後悔しつつ、お金は(追加では)かからないのか、と安心した。いや、入院しに、休みに来たんだからお金なんか気にせず休めよ。と思うところでもあるが、実際に入院費を払うのは私(と重度障害者医療費助成制度を担う地元)なので、ここは抜かりなく確認した。担当医は「お金のこと、気になりますよね。できるだけお金かからないようにしますから」と言ってくれた。その言葉に救われた。あまつさえ面倒な患者であることは間違いないのに(食べない飲まない問題児)、担当医は神か仏か何かかと思った。それが仕事なんですけどね。

 

明日天気になあれ。靴を投げるやつ。靴が倒れたら雨で、ちゃんと立ってたら(横にならずに、はける状態になっていたら)、明日は晴れるよ、みたいな古風な遊び。私は散歩のたびに1人でこれをやっていた(そして時々他の患者さんや看護師さんに見られ、恥ずかしい思いをしたりもした)。というのも、梅雨の入院は不慣れだったので、薄手の上着と半袖ばかりで、雨が降ったらつらいなあと思っていたのが理由だったりする。まぁ横に倒れたらまたそこまでケンケンしてまたひと蹴りして、靴が立つまで繰り返すのみだが。こういうところが変にずる賢いんだと思う。病棟ではてるてる坊主を作っている人もいた。そんな非科学的なものに頼るくらい、入院という日常は散歩がなくなってしまえば寂しくつらいものなのだ。少なくとも私の病棟は、午後2時間のお散歩の時間が救いだった。よく1回目の入院のときは(点滴されてたからとはいえ)2ヶ月近くも数10分の同伴散歩で耐えたなぁ、と思う。それくらいに散歩は私には大切だった。

私はとにかく歩いた。散歩の時間、売店に寄って、何かを買って、それからはとにかくずっと歩いていた。1回目の入院のときは、一緒に歩くお兄さんたちがいたけれど、今回は1人だ。1人だと、なんだか時間の流れがゆっくりに感じる。あえてイヤホンはつけずに、自然の音を楽しんだ。鳥のさえずりが、他の散歩している患者の会話が、川の音が、木々が風に揺られる音が、ダイレクトに耳に入る。休めているなあ、と思った。入院するまでの私は周りの音を気にして生活することなんて困難だったからだ。とにかく必死で、死にものぐるいで、ただ生きていた。入院すると時間の流れが遅く感じるけれど、その遅さを楽しむことも治療の一環なのかもしれないなと思う。

担当医とは色々な話をした。不安について、語り合った日もある。不安は不安であるからこそ大切なのであって、不安なくして人生はないと。難しい話だけれど、折り合いをつけて不安と向き合ったり、不安の正体を探して行けたらいいね、という話。あとは、「信頼と信用は、経験でしか得られない」という話をした。私はその経験が著しく乏しかった。初めて信用、信頼を感じられたのは高校へ入ってからだ。私は大人(成人)になるまでに、環境の悪さもあり、色々な欠片を拾い忘れたままだった。そしてその隙間が、私のトラウマだった。今は3度目の入院を経て、トラウマ治療が始まって、どこかへ行ってしまった心の欠片を拾う作業をしている。

どこか過去なんてどうでもいいと思う自分と、過去のしがらみに傷つけられている自分がいる。両価性があっても、私は私なのに。わかっているのに、自分の考えに悩まされることも多くある。日によってポジティブで、日によってネガティブで。夢を叶えたいと思う瞬間もあれば、もう消えてしまいたいと思うこともある。こういう自分と向き合うのがトラウマ治療なので、仕方がないのだが、明らかに自分に一貫性がなくて、どれほど他人の言葉で、他人の行動で自分を変容させてきたのかが伝わってくる。私が生きるための術だったのかもしれないが、悲しいことだ。

今更自分の人生を生きていいと言われてもどう生きればいいのかなんてわからなかった。「あなたはあなたの人生を生きていいんだよ」という言葉は、私にとって呪いの言葉でもあった。今までの過去が否定されるような、これからの自分に期待されているような、そんななんともいえない気持ち。誰も悪意があってそう言ってる訳では無いけれど、なんだかすごく辛かった。

でも、ある先生はこの話に付け足しをした。数Ⅱを担当していた仲の良い先生は、「自分の人生を歩んでいいんだよ、でも、琥珀がそれができないと思うなら、そうするのが辛いなら、誰かのために生きたっていいと思う。それは逃げじゃないと俺は思うよ」と。何気ないその言葉に、私は救われた。誰かのために生きることも自分のために生きることに繋がるのだと気付くことができたから。

 

トラウマ治療のあと、目を瞑り、心地いいときを思い出す。自分の中であったかくて、落ち着く所へ記憶を戻す。そうすると、「あなたはあなたの人生を生きていいんだよ」と私に言ってくれた先生たちの顔が浮かぶ。今、私は、自分の人生を全うしている。今までは誰かの人生を生きていた。母親の2周目、弟の1周目の補助ーー私の人生は、どこか他人事だった。だけど、他人事のなかに、少しの希望が見えた。やっと自分の人生、なんだ。きっと今までの私も、自分を生きてはいなかったけど、他人を支えるという立場の元、なんとか生きていたんだ。それは否定しなくていい。そう思えるだけで、どれだけ楽になったか。先生たちの何気ない一言にいつも救われている。死にたい気持ちが強いときに、ふと先生たちを思い出して心を落ち着ける。これが私のルーティンだ。

 

昔の私は無力だった。静かに泣いていた。

声を出して泣けば、「近所迷惑だ」「お前は自分が可哀想だから泣くんだ」と、余計に叩かれるから、大人しく、静かに、消え入りそうな声で、泣いている。このまま消えてしまえればいいのにと何度も思った。殺してくれたらいいのにと。真冬に裸足で家から追い出されると、とにかく寒くていてもたってもいられない。カチコチになった足に器用に息を吹きかける。そうしてるうちに手が冷えるので、今度は手を温める。そんな繰り返し。そうしてるうちに、いつか家の鍵が開く。それが私の日常だった。

時は変わって2022年、9月。現在。あの頃の私はもういない。今は、社会福祉士になるため、夢を叶えるために、大学へ通い、忙しい毎日を送っている。いや、あの頃の私はもういないわけではない。連続した点として、私の中には残っている。言語化できなかった拙い傷として、静かに過去の私は、まだ心の中で泣いている。

色々なことがあった。暴力と暴言に怯えた幼稚園から小学生時代を乗り越えて、中学に入り、卒業し、高校へ入り、紆余曲折を経て、卒業した。何度泣いただろうか。声を殺して泣いた日も、声を上げて泣いた日も、今でも鮮明に思い出せるのだ。涙の記憶は根強い。

 

「ごめんなさい」

「何がごめんなさいなんだか言ってみろ」

「食事を食べきれませんでした」

 

些細なことで、殴られて、蹴られて、罵詈雑言を浴びせられる日々。私の涙は枯れていた。小学生にして、「泣かなければ、長くは殴られない」ことを悟った。そうして泣けない私ができあがった。感情と行動がちぐはぐで、心の中の私は泣いているのに、怒られているときの私は涙も流せない。それでも、「お前の顔はムカつく」と、わけも分からない理由でまた殴られる。そうしたら、目を閉じる。聞こえないふりをする。流れに身を任せて、ただ時間が経つのを待つ。そういうときの私は痛みを感じなくて、ただ悲惨な音だけが耳に響く。解離して身を守る。ふわふわな雲に乗って、あたたかい場所で、イマジナリーフレンドと楽しくおしゃべりする夢を見る。身を守る防衛反応は、未来の私を困らせたけれど、それでも確かにこの頃の私には、それが必要だったと思うのだ。

中学に入り、いじめに遭った。学校でも家でも危険に曝される日々は、私の心を蝕んだ。あるときから、涙が止まらなくなった。テレビを観ているとき、学校で授業を受けているとき、寝る前、お風呂に入っているとき。自分の感情を無視して、涙は流れる。それを見た母は、私を気持ち悪いと罵った。私は泣くことが怖かった。怖いのに、涙はボロボロ、止まらなかった。

このとき私の心は凍ってしまったんだと思う。

 

私の死んでしまった心を蘇生してくれたのは学校だった。学校の先生たちだった。自暴自棄な私を救ってくれたのは、「琥珀さんの成長を見守っていますよ」と言ってくれた高1担任だったし、「私が悲しいから、辛いから、死なないで。何したっていい、死ぬのだけはやめて」と自殺を止めてくれたのは高2担任だった。「お前はいっつももう!目が離せねぇな」と笑ったのは高3担任だった。「琥珀のいいところたくさん知ってる」「琥珀が自分のこと好きになれないなら、私が好きになる」「愛されたことがないならこの高校でたくさん愛してもらえればいい。」…大好きな先生たちの言葉。私の宝物。

今も思い出す。高校で愛された日々のことを。それが私の欠片を拾う作業を円滑にする。トラウマ治療のたびに学校を思い出して、前を向く。進んでいく。これからも治療は続けていく。大人になるために必要だった欠片を拾い集めるために。消えない恐怖は愛された記憶で上書き保存する。

 

「私たちと一緒に生きよう」

そう伝えてくれた先生たちに、感謝している。それは、「もう、お母さんと死のうか」の対義語だと思う。殺されかけて、それでもなお生きたくて、少ししたら死にたくなって、死にたくて、死にたくて、仕方なかった私に溢れんばかりの愛情をくれた先生たちが、私は大好きだ。だから、私も誓う。

 

「先生たちとなら、生きていける気がします」

8/31の夜に

学校へ行きたくない時期が、私にもあった。あれだけ、たくさんの人に助けられて、元気をもらった場所に、行くことが怖い時期が、あった。

小学生のときと、中学生のとき、私はいじめられていた。いじめられるようになった理由は、小学生のときは「いじめやすそうだったから」、中学生のときは「いじめ首謀者と仲いい子が被ったから」。そんな、しょうもない理由で、私はいじめられていた。小中共に、家に居場所がなかったので、学校でもいじめられていた私は、身の置き場がなかった。死んでしまいたいと何度も思ったし、このまま学校に行かずに死んでしまえたらどれほど楽かと思った(実際は、親に怒鳴られて学校に行くしか選択肢はなかったけれど)。小学生の頃のいじめは生々しくて、「死ね」と書かれた紙が机の中に入っていたり、階段から落とされたりした。そのたびに私は、死にたい気持ちを募らせていった。

今、幸せな日々を過ごしている私は、何に脅かされることなく、誰に脅されることなく、毎日を生きている。あの頃からは考えられないほどに、平和な日々。死ななくてよかったと、思う。私にとって、学校は居場所だった。けれど、そう思うほど大切な場所にさえ、行きたくなくなってしまうのが、いじめの本質だと思う。

 

8/31の夜にと言ってももう学校が始まっているところが多いだろうし、何を今更、と思われると思うので、いつものように長文を書くのは避けたいと思う。けれど、それでも、しんどくて学校へ行かない選択肢をしたあなたは偉いし、しんどくても学校へ行くあなたも偉い。みんなが幸せであるように願うことしかできないけれど、偽善者のように見えるかもしれないけれど、私はみんなが幸せであれますようにと願っている。

 

いじめだけが、学校へ行きたくなくなる要因ではない。私たちは特に、心身の不調が原因で行きたいのに行けない、行きたいはずなのに行きたくない人も多くいると思う。私も、調子を崩しているときは学校へ行くのが億劫だったし、高校に入ってからは身体症状が出ては遅刻を繰り返していた。家は居場所じゃないし、学校は居場所だけれども、その居場所に行くためにも気力を使わなければいけないのが辛かった。もちろん入院しているときは行きたくても学校には行けなかったし、学校が恋しくて泣く日もあった。けれど、集団で生活することがしんどくなるときは、決まって学校に行くまでの足取りが重くなったりしていた。

私は高校をスレスレで通いきることが出来た。何度、通信へ行く話が出たかわからないほど、危機に直面した。私は、そうだったけれど、もちろん通信へ行った人も、高校を中退した人も、今不登校な人も、全員が全員、頑張っているし、しんどいなか生きていることが伝わってくる。学校へ行けないことは悪いことじゃない。たまたまその集団が自分に適応しなかっただけ。ただ、それだけなのだ。

適応できない場所に居続けることはとても辛い。気持ちが持っていかれるし、何より自分で自分を認められなくなる。だから、私は、そこから離れる決断をした人も、そこに残る決断をした人も、強いと思うし、尊敬している。

8/31の夜に。ぼんやりと考える。

しんどいなら学校へ行かなくていいよ、なんて無責任なことは言えない。だけど、死ぬくらいなら、休んだって、やめたって、いいと思う。あなたの辛いという気持ちを何より大切にして欲しい。あなたが生きる最前の道を選択して欲しい。私は、そう願ってやまないのだ。

踏み出す勇気を

今年中学・高校・大学・専門学校を卒業したフォロワーさんへ。

 

いつもよりも文量は少ないけれど、Twitterに投稿するには長文だったので、私と同じく節目を迎えたフォロワーさんに向けてブログを書くことにしました。一般人が烏滸がましいかもしれませんが、それでもおめでとうとありがとうとお疲れ様を伝えたかったので、これを私のお祝いの言葉とさせていただこうと思います。

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少しだけ、昔話をしてみる。

 

「3月は別れの季節 4月は出会いの季節」

 

3月に別れを嘆いた私が書いた日記に、担任が付け足してくれた言葉。あの時は確かに中学が私の全てだった。学校がなくなってしまったら、私には何もなくなってしまうと、確かにそう思っていた。というか実際あの時の私には学校しか居場所がなかった。その学校でさえ、私のことをいじめていた人がいて、居心地が悪くて、息がしにくい瞬間も確かにあったけれど。それでも、どれだけ辛くても、卒業する日は来る。義務教育だから、どう足掻こうが卒業は卒業だ。あの時の私はどうしたかと言うと、別れを恐れて自分から距離を置いた。そうして身を守った。切った腕が、少し寂しかった。保健室に行くたびに養護教諭がいつもリストカットの手当をしてくれていたから。「切ったら保健室においで、手当しよう」と言われても、自分から切っただけで保健室に行くのはなんだか行きにくくて、いつもいつも体調不良で保健室に行ったついでに消毒をしてもらっていたけれど、あの時間が、あの行為が、私にはとても大切だった。カウンセラーから見せて欲しいと言われても首を振った自傷痕を、養護教諭にだけは見せられた。養護教諭とのお別れももちろんだけど、担任や、ほかの先生たちとのお別れも悲しくて、寂しくて、怖かった。居場所を、根強く、中学校にだけに築いていた私は、それを全て失う恐怖に耐えられなかった。依存が一点集中だったから。

本当ならもっと話す時間があったのに、それから逃げた。だけど逃げたからこそ、怖かった卒業を乗り越えることが出来た。卒業式は弟の喘息の悪化で、すぐに帰らなければ行けなくて、写真さえ1枚しか撮れなかった。

唯一卒業式当日に小学校の保健室に行き、ずっとお世話になっていた先生からの「卒業おめでとう」が聞けたのは、本当に本当に嬉しかったけれど、中学とのお別れはあやふやになってしまった。少ししてからの離退任式でステージの上に立つ担任や大好きだった先生たちを見ながら、走馬灯のように思い出が頭に浮かんだ。毎日のように話をしてきた先生たちと「成長して、またいつか会いましょう」とお別れをして3年が経った。どうしようもなく不安だった別れにも、適応する他なかった。

少し酸っぱい思い出を頭に浮かべながら、思いを馳せる。気付けば、3月になっていて、私は高校を卒業していた。中学と同じくらい、いや、もしかしたらもっともっと強く、不安に思っていた、高校卒業。

私はこんな日が来るとは思っていなかった。今でさえ、実感がわかないくらいに。なぜなら、自分自身で「私は、卒業するまでに死ぬんだろうな」と思っていたからだ。思い出を胸に、大切な人からもらった言葉を忘れないように、現在が過去になる前に、日常が思い出になる前に、死ぬことが、自分にとっての救済だと思っていた。Twitterを見ていると同じように考えている子も多かったと記憶している。

学校を卒業したら、頼れる人がいなくなったら、死んでしまおう。

私はある意味、保険をかけていたんだと思う。怖かったのだ。自分の記憶力は頼りにならないし、そんな私が、大人になってしまうことが、毎日の記憶が思い出になってしまうことが、怖かった。同じように卒業を恐れていた人達は、私に近い考えだったと思う。

私たちは怖かったんだ。ひたすらに、怖かった。難しいことを考えていたわけじゃなくて、ただそれだけだったんだと思う。

 

当たり前に時間は過ぎて、私たちは卒業する/した(中学だと、まだ卒業してない子もいるのかな、高校はだいたいもう卒業式を終えたような気がする)。

けれど、それですべてが終わる訳ではない。人生は点ではなくて線だ。卒業したからと言って人生が終わる訳ではないし、全てに終止符が打たれる訳でもない。もちろん自分で終わらせてしまえばそこまでだが、私たちの人生はここで勝手に終わることはない。今まで頼ってきた人達が死んでしまう、いなくなってしまうこともない。少し離れた場所にはなるけれど、ずっとあなたを想っている。あなたを忘れることはない。そんな簡単に、記憶は消えない。薄くなることはあろうと、たくさんの出会いが、思い出が、人生の基盤になる。そう、今の私は考えている。

 

私が中学校の頃大好きで頼り続けていた養護教諭は、公認心理師の資格を取るために今勉強をしている。その原点は、私や色々な困難を抱える生徒との対話だったそうだ。私たちが、人の人生に影響を与えることもある。生きている限り、誰とも関わらず、頼らず、生きていくことなんてできない。そして、人間は相互的に作用しあって生きていく。中学を卒業して、高校を卒業して、大学や専門学校を卒業して。それでも、きっと何かしらに頼りながら私たちは生きていく。それは人ではないかもしれないし、もしかしたら過去の記憶や、思い出になるかもしれない。でもそれに縋って過去に足を突っ込み生ぬるい生き方をしているなんていうことはなくて、それが、その記憶が、あなたにとってあまりに大切な人生のスパイスだったというだけだ。ただ、それだけ。

 

私はここまで生きてくれたあなたに、感謝を伝えたい。辛いのに、苦しいのに、ここまで生きていてくれて、ありがとう。一緒にこの節目を迎えることが出来たことが、本当に嬉しい。

きっと一筋縄ではいかない人生は、この節目でもう終わりなんてことはない。これからもしんどい思いをすることもあると思う。けれど、それでも、今を生きているあなたを、あなたが頼り続けてきた人達は、きっと誇りに思っている。きっと、きっとそうだ。誰かの大切な人になれるような人達だ、考え方はきっと似ている。私はたくさんの優しさに触れながら、その優しさを体に染み込ませていったから、これだけは信用して欲しい。あなたを生かし続けたことを、先生たちは後悔していない。ここまで努力し、生きてきたあなたたちが、これからも生き続けてくれることを、望んでいる。

死にたくなっていい。消えたくてもいい。それを口に出したって、時には行動してしまったって、いい。それでも、生きていてくれればいい。生き延びてくれれば、それでいい。それだけでまるもうけだ。力を抜いて、今は時の流れに身を任せて。時々目を瞑って、思い出の温もりを感じて。そうして生きていければ、いいんだと思う。

 

私と一緒に卒業してくれて、ありがとう。

私と一緒に生き続けてくれてありがとう。

 

これからの新生活を応援しています。

大人になるしかなかったあなたへ

「今から、点滴をします。あなたは今、いつ倒れても可笑しくない状態です。せめて、水だけは入れさせてください」

 

死にたいと嘆いた先に、最終的に行き着いた精神科閉鎖病棟の中で、私は貧血や脱水、栄養失調の治療を受けていた。なぜ私はここにいるんだろう。こんな内科的治療を受けるために、私はここへ入ったんだろうか。頭の中が色々な考えで渋滞していた午後2時半。点滴のルート確保のために私の部屋へ来たNsは、何度か針を指しては抜いてを繰り返したあとに、難しそうな顔をして私の顔を覗いた。

 

「血に元気がないなぁ、血管には(針が)入ってるはずなのに、逆血が来ない」

「……すみません」

「どうして謝るの、何も悪くないよ。飲めないのもきっと理由があるんやろうし」

「…理由が、あったとしても。迷惑をかけてることには変わりがありません。本当にすみません。水くらい自分で飲めよって話ですよね」

「ーーあなたは大人になるしかなかったんやな」

 

なんの脈略もなく言われた言葉。そしてその言葉を言ったあと、どう返そうか私が悩んでいるうちに、また間を持たずにNsはじゃあチクッとするよ、いきますと言って、私の腕に針を指した。ルート確保が出来て、テキパキと点滴を流し込み準備を終え、「じゃあ、また様子見に来るけん」「今はゆっくりしときな」と言って、部屋を出ていくNs。その間、私はずっと黙っていた。どう言葉を発すればいいのか、わからなかった。

夜まで長引かないようにと滴下速度は今まで内科で受けてきたよりもずっと早くしてもらっていて、腕から冷たいものが入っていく感覚が、確かにあった。Nsの言葉に心を鷲掴みされた私は、その感覚だけを感じて、静かに目を瞑った。

 

あなたは大人になるしかなかったんやな。

なんだか聞き覚えのあるその言葉は、どこか懐かしかった。そう、確か中学生のとき。養護教諭や、生徒指導の先生に言われた言葉と重なったんだと思う。私と向き合って、「あなたのされていることは虐待です。児童相談所へ通告をしたいと思っています。○○さんが嫌がるならしないけれど、僕達は○○さんに楽になって欲しい」と言った先生に私は、「他の家族に迷惑がかからないなら。被害を被るのは、私だけでいいんです。お母さんは弱い人だから、これ以上追い詰めないで欲しい」と答えた。そのときに、先生はとてもとても悲しそうな顔をして、Nsと同じように「あなたは、大人になるしかなかったんだね。優しすぎるよ、13歳なんて、もっと、もっと自分勝手なことを言っていい年齢なのに」と言っていたんだ。凍りついた私の目を、先生たちはじっと見つめていた。あたたかい記憶がぼんやりと私の中に蘇ってきて、幸せな気持ちを感じて、私は目を開いた。病室の天井と、ぶらさがった点滴。何も状況は変わっていなかったけれど、忘れたくなかったはずの記憶を忘れかけていた自分への情けなさを感じると同時に、私は、愛されていたんだなと、そう感じた。

 

数週間は、24時間点滴をしていた。それから少しして、夜に点滴をロックして、留置針はガーゼで包み、また朝になったら点滴を入れるという風に変わった。数日に1回留置針は交換しなければいけなかったし、点滴ロックも生食を流し込んでロックをする医療行為だったので、私は1日数回はNsと2人きりで話をする機会があった。

最初に点滴を成功させたNsはよく私を気にかけてくれていて、部屋引きこもる私にエンシュア(栄養剤)やお茶を持って、顔を出した。「話をしていると、大人びてるけど。それでも、17なんやね。ほんと、そんな感じしないけどさ」と、私のベッド柵に取り付けられた年齢の書いてあるネームプレートを見ては、ベッドに座る私と目線を合わせるために、ベッド際にしゃがんだ。

 

大人になるしかなかった。それはきっと、私の身を置いている環境が私をそうさせてしまったのだろう。それでも、私はずっと、環境のせいであれ、自分自身のせいだと認知を歪めて物事を捉えていた。私が全て悪いんだからと思っていれば楽なように見えたけれど、それは本当は大切にされるべき心を軽視して傷をえぐる行為でしかなかったのかもしれないと思う。

私は、私を好きになりたくなかった。私にとって、私を忘れてしまうことが、1番私を守れるように感じていたから。そんなこと、有り得ないのに。本当は、誰よりも私が私自身を大切にしてあげなければいけなかったのに。それが、私にはできなかった。怖かった。自分を認めてしまうことで、自分がいなくなってしまうような気がしていたのだ。それにやっと気付いた頃には、ボロボロの腕に点滴が繋がり、精神科病棟のベッドの上でぼんやりと天井を見つめていた。…ふと、虚しくなった。でも、やっとやっと、気づいてあげられたんだ。私は私を殺さずに済んだ。ずっと私の心があやふやだったのは、私が私の心を軽視していたからだったのだ。

 

「私は、私が嫌いでした。」

「あなた自身が嫌いっていうよりは、”弱い自分”が嫌いな気がしたよ」

「…そうだと思います、私は、強い自分でいたかった」

「そうだね。そうだと思う。」

「強い私なら、生きられると思っていたんです。でも、違った」

「でも、ここに来てまで生きているあなたは、とても誇らしいし、強いと思うよ」

 

点滴準備をしながらNsと小さい頃を振り返った。誰かに傷つけられるときの私はいつも弱かった。弱い私は私を苦しめたのだ。

大人になる。それは、弱さを見せずに、強くなること。いや、強くなるように”見せる”ことだと思う。大人になるしかなかったあなたは、弱さに幾度となく傷つけられてきたんだろう。弱さは武器になることにも、あなたは気付いている。繊細さは、強さだ。言葉はいつだって両価性がある。弱さの裏には強さがある。それでも、本当は、弱さ自体を認めてくれる人がいることが1番大切なのだ。弱さを強みに見せて、頑張る前に、あなたは弱いままでいいのだと、全てを引っ括めて受け止めてくれる人に、弱いままの自分を見せること。傷付いた心を、愛してあげること。自分自身を認めてあげるのはもちろん自分だけれど、自分が立ち直るためには、他者の力が必要だと思う。他者との触れ合いで人は本当の強さを得ていく。セラピーは内容よりも、その関係性が、安心して自分の話をして、その話を受容してくれる人がいるという安心感が、大切なのだ。愛の疑似体験。セラピーは愛ではないけれど、お金でそれに似たものを切り売りしている。いつかその関係性を育む中で、本当の愛に出会うために。セラピストとクライアントの関係は、それまでの延命処置でしかない。

あなたはあなたのままでいい。弱くてもいい。強がらなくていいし、自分を認めてあげて欲しい。それを、私は伝え続けたい。それが、私から軽視されてきた私自身を、救うことでもあると思うから。投影だと言われるかもしれない。けれど、それでもいい。自分が救われなければ、他者は救えない。自分が幸せにならなければ、人を幸せにすることは出来ない。だから、これからも、私は私を認めてあげられるよう、自分と向き合う。そして、あなたが自分自身と向き合う手助けを、していきたいと思う。あなたを労い、あなたの努力を認める存在でいたい。弱いままでいいと、伝えたい。

 

「生きているだけでいい」。

高校のSCと、この言葉について議論したことがある。生きているだけでいいなんて、そんなことないんじゃないかと。都合のいい言葉なんじゃないかと。だって、生きているだけでいいなんて、実際はそうもいかないのだ。生きてくためには勉強をしなければいけないし、お金を稼がなければいけないし、息をして、毎日を生きなければいけない。何もせずに生きているだけでいいなんて言葉は、まやかしでしかないのだ。「生きているだけでいい」と言うのは「(今は)生きてるだけでいい」と言う意味であって、結局そのまま生きていくとなると何もせずにただ生きているだけなんて言うのは難しい。人間だから。ちゃんと動かなければ困るから。そもそも生きているだけでいいって言うのも難しくて、その”生きること”が人によってはめちゃくちゃに難題だったりする。

「病院勤務だった頃は確かにそうだったんだよ。生きていればそれでよかった。でもSCを始めて、生きているだけではダメなことを知った。生き続けるためには、問題を解決して前に進まないといけないし、日常生活を送っていくためには、生きているだけでいい、なんてことはない」というSCの言葉に、胸を掴まれた。そうだと思う。ただ、生きてるだけでいいなんて、そんな無責任な言葉はない。

それでも、私は、あなたに生きていて欲しいから、そう伝える。その言葉のしんどさを知っていながらも、私にはかける言葉が見つからないから。あなたが消えてしまえば私が悲しいから、生きていて欲しい、ただ生きているだけでいいからと、伝える。

閉鎖病棟から

蝉の声が聞こえる。空調の効いた病室のベッドの上で、ぼんやりと天井を見つめていると、ホールのテレビから聞こえる「夏日」「オリンピック」「コロナウイルス」なんていう言葉が、なんだか違う世界の話なような気がする。

高校3年の夏、受験に青春に忙しいはずのこの時期に、私は精神科急性期の閉鎖病棟に居る。外から断絶された病棟は居心地がいい。苦しい毎日から少し距離を置いたこの場所では、私は「普通」だ。マジョリティが居るからこそマイノリティが存在するのだと強く実感させられる。

7月下旬から10月初旬までの約2ヶ月半。たくさんのものを得ては失った大切な毎日。まだ記憶が新しいうちに、記録しておこうと思う。

 

2月から3月。私の気分は高揚していた。児相との話し合いも経過観察になり、晴れて自分のやりたかったことを目の前にして(受験、子ども食堂のボランティア、3年からの保育科の授業など)、期待だらけの毎日。4月。新しく仲良くなった数人の友達。慣れない環境と新生活。ぼんやりと考えていた未来は、まだ確かにそこにあった。若干の疲れを感じながら、欠席もせずに毎日学校へ通った。5月から6月。若干の違和感。止まらない涙に、朝体が重くて起き上がれない日々。世界の全てから拒絶されているような感覚に、心そこに在らずというような感覚。自分が自分なのかわからなかった。ただ能動的に生きていた毎日が、いつしか受動的になっていった。いや、受動でさえなかった。わたしは世界の誰からも嫌われていて、もう救いようがないと思っていたし、全てのことが自分のせいなように感じて悲しかった。とにかく悲しかった。死ぬしかないと、そう思った。

私は9月に受験をするつもりだった。学費免除入試。それさえ成功すれば、私の未来は明るかった。一人暮らしできるし、大学生になれる。たくさんの先生たちから言われた「あなたには大学が向いてる」「大学に行かないのはもったいない」という言葉から見えた進学への期待。大丈夫、やれる…無意識の自分へのプレッシャー。それが、私を潰してしまった。

 考えてもいなかった高校3年。わたしが、高校3年生になれるなんて。義務教育を終えて高校へ上がることをあんなに不安がっていた自分が、もうその高校さえ卒業を意識する学年になった。いや、嘘だ。入学したときからずっと卒業は意識していた。ただそれが現実味を帯びてきたのが、最近なんだと思う。なにか行事ごとがあるたびに聞こえる”最後の”という言葉。中学卒業間際のあの感覚を思い出して、なんとも言えない不快感に襲われる。変わらない自分に嫌気がさしつつも、なんだかんだこれが私だしなぁと楽観視している部分もある。入院生活でいい意味でも悪い意味でも様々なことに対して鈍感になった気がする。それは生きるための術で、仕方の無いことなのかもしれないけれど。

 

忙しさで自分の苦しさをかき消そうとするのはいつもの私のクセだ。中学のときもそうだった。役職を掛け持ち忙しなく過ごしている間は、未来の不安や過去のしがらみから抜けて、とにかく今を見ていればよかったから。きっとその感覚が今も抜けていないのだ。必死になって勉強をした甲斐もあり、一学期の成績は、体育以外は全て最高評価で、A+に溢れていた。その成績表を見たときの私はもう既に入院が決まっていて、成績に喜ぶよりも安堵の気持ちが大きかった。「いい成績だ、嬉しい」だとか、そんな気持ちじゃなく、「ああ、よかった…」という気持ち。鬱で起き上がれない日も泣きながら勉強した日も、報われた…そう思った。

入院中に仲良くなったお兄さんが読んでいた本に、”嬉しいと楽しい、前者ばかり優先する人は鬱病になりやすい”というフレーズがあった。なるほど、前者は他者がいることでなり得るものであり、後者は自身で完結することだ。つまり、他者承認を前提とした努力と自分自身をセルフケアできる能力というのは、似て非なるものである、ということだ。

 

入院生活で、覚えておきたいもの。忘れたくないもの。特に印象に残っているのは、入院中に仲良くなったお兄さん。私にとって、とてもとても大切な人。色褪せた毎日の彩りを取り戻してくれたのは、病棟で出会った彼だった。彼は、明るくて、優しくて、面倒見がよくて、運動神経がよくて、ヒーローみたいな人だった。いや、あの人はヒーローだった。確かに、ヒーローだったのだ。ヒーローは孤独。そう言って笑う彼は、とてもとても、悲しい目をしていた。いつも笑顔なのに、ふとしたときに見せるその目に、私は引き込まれた。上手く言葉が出なくて、何度も自殺未遂を繰り返した彼の話を聞くたびに、わたしは「死なせてくれないですよ、神様は。ヒーローに死なれたら、困りますもん」と静かに微笑んだ。夜19時から20時半。1時間半、歩きながら毎日話をした。多岐に渡る議論のなかで、初めて、”同じ経験をして、同じ目線で、似たような思考の人と言葉を重ねる”という経験は、私にとって回復の糸口となった。

母親からの連絡。学校との面談。外泊前や、退院前。不安で不安で堪らなくて、泣きそうになりながら頓服をもらうためにナースステーションの前で待っている私に、「大丈夫?歩くか」と声をかけてくれて、ぽつりぽつりと歩きながら話をする。少しの変化も見逃さない彼の優しさの根本は、きっと自分自身が何度も何度も何度も苦しんできたからなんだと思う。病棟で優しい人に出会うたびに、なんて優しくて、素直で、暖かい人達なんだろうと、ああどうしてみんな幸せになれないんだろう、幸せになって欲しい、もっともっと、幸せになってくれたらいいのに…と、思った。

「頑張る人は、痛いんだよ。本人も、見てる側も痛い。痛くなるほど、頑張らなくていいんだよ」。お兄さんから言われた言葉。私には崇高すぎるその言葉の意味は、すぐにはわからなかった。痛い?私は必死なのに。どういうこと?私は思考をめぐらせた。そして、また彼と話をするたびに、やっと気付いた。頑張る人は痛い。頑張りすぎていて、だんだんと尖っていく。それは無意識だし、他の人も尖っていると感じる訳では無いんだけれど、どこかで他者に痛みを感じさせる。そして、それに痛む他者。頑張りを止める苦しさを知っているから、上手く頑張らなくていいという言葉をかけるのもはばかれる。頑張らなくていい、あなたのままでいい、頑張りすぎなくても、あなたはあなたなんだよ。あの言葉は、そういう意味だったんだと思う。今でも申し訳なく思う。そんな言葉をかけてもらうほどに、わたしはできた人間ではない。逃げて、甘えて、恵まれた環境に身を置いて、流されて、流されて、生きてきた。わたしには、もったいない言葉。それでも、私は嬉しかった。私を、私として見てくれた彼と、同じ目線で会話をすることで、生きている意味を見いだせた気がする。

彼がアルコール依存症として入院してきたという話を聞いたときは、酔うと暴力を振るう兄を思い出して自然に体に力が入ったけれど、話をするたびに、兄とは全然違うじゃないかという気持ちと、兄も同じように、苦しんだ故にお酒を選択してしまったのではないか…私は、内側に向いて自傷をしていたけれど、それがたまたま兄は外側に向いただけなんじゃないか…そう、思った。

なんだか少し前に読んだ本を思い出した。人は人を浴びて人になる。私の大好きな言葉であり、大好きな本の題名。児童精神科医で、自身も精神疾患の当事者であり、ヤングケアラーだった夏苅先生。たくさんの出会いで、前を向き、少しずつ歩み始めるという本(よければ読んでみてください)。この入院生活で、あああの言葉の意味はそういうことだったのか、としみじみ思うようになった。

 

そして、覚えているのは、うまく食事がとれずに、点滴をする毎日のこと。点滴のルートを採れる血管さえなくて、足に刺した留置針が取れないようにベッドの上で過ごす日々。食事がこのまま摂れないなら、経鼻栄養を…と担当医に言われたとき、「まだ頑張るから、待って欲しい」と伝えた。そのときの担当医との会話は、今も覚えている。

 

「あなたは、もうたくさん頑張ってきました。もう頑張らなくていいんです。ただベッドの上で横になってるだけでいいんですよ、僕はそう思ってます。何をそんなに頑張り続けようとするんだろう。〇〇さんの言葉で、教えて欲しい」

「…やればできるはずなんです。それに、……それに…、栄養入れたら、また頭の中がぐちゃぐちゃになる」

「食べると、頭が回って嫌なことが浮かぶ?」

「そう、なら食べないほうが楽だった」

「〇〇さんのなかで、治りたい気持ちと治りたくない気持ちがあるのかな」

「治りたくない……またそれは違うけど、ええと、なんて言えばいいんだろう。頑張りたくないけど、頑張らなきゃいけないんです」

「これはね、あくまで提案なんだけど。入院、もう少し期間延ばそうよ。1ヶ月の予定だったけど、今の〇〇さんが外の世界で頑張ったら、すぐにまた再入院になる。任意とはいえ今の状態でハイ退院していいですよ!とは言えない。3ヶ月すればまたここ(の病棟)に戻ってこれるから、3ヶ月分のエネルギーを今貯めておこうよ」

「……いいんでしょうか」

「少し延ばしたって短いくらいだよ。あなたの傷ついてきた心が、たった1ヶ月で完璧に治るなんてことはないです。それでも、マイナスをゼロにするくらいまでは…まだ、治療を続けてもいいんじゃないかなあと思うんです、僕は」

 

「僕は、強制はしたくありません。だから、〇〇さんが嫌だということはしません。経鼻栄養も。だけどね、〇〇さんに元気になって欲しいと、思ってるんです」

「じゃあ、ゼリーを出して欲しいです。エンシュア(経口栄養剤)も。自分で、頑張りたいから。」

「わかりました。〇〇さんは頑張り屋さんだね。頑張れなくなったらいつでも教えてください。経鼻栄養の準備はしておきます」

「経鼻栄養は怖いです、無理です笑」

「痛そうで?」

「そうです、気持ち悪くなりそう」

「1番上手い人にやってもらいますよ、なんなら僕がやります笑 だから、安心してください。頑張れなくなったら、そういう手もあるから。頑張りすぎずに頑張ってくださいね」

 

エンジョイゼリー。ふざけた名前だなあなんて思いながらも、退院前最後にゼリーを食べたときには泣いてしまいそうだった。1本(紙パックに入っているので、数え方は1本で合ってると思う)300kcalのゼリー。プレーン、レモン、ストロベリー。3種類しか病院の在庫にないのか、味はいつも決まった味。豆腐みたいにデカくて、見た目が悪くて。きっと高齢者や食が細くなった人に向けた、栄養補助食品だったんだと思う。もう退院した今は食べることはないし、食べたいとも思わない。だけど、今もふと思い出すのは、ゼリーを紙パックから出してくれる看護師さんと交わす言葉の優しさだ。

飲水量の少なさから、10時と15時に看護師がお茶を持って部屋へやって来る。こんなんじゃいつ退院できるか分からないな…そう思いながらも、暖かい淹れたてのお茶に溶け込んだ愛情を感じた。

 

点滴を打ちながらの生活は、普通の入院生活よりもずっとずっと看護師さんが費やしてくれる時間が長かった。わたしは針を20回刺してやっと1回成功するかどうかだったので、代わるがわるやってくる看護師さんと、色々な話をした。そんな日常会話も、はっきりと思い出せるのだ。2ヶ月半の入院生活で、病棟の作業療法士さんや、Nsたちや、看護助手。担当医に、外来のスタッフに、主治医に、担当の精神保健福祉士。気付けばたくさんの支援者がいた。いつの間にか日常になった非日常は、わたしにしなやかに生きる力を、与えてくれた。

「17歳には、見えないね」。色々な人から言われた言葉。「世を儚んでる」「大人っぽい」「まだ未成年だったんだね」「20代かと思った」、入院当初はそう言われ続けていたけれど、退院する頃には「明るくなったね、表情が柔らかくなった」「(制服姿を見て)ああ、高校生だね…ちゃんと、高校生だ」と声をかけられることが増えて、とても嬉しかった。闇の中に確かに光が灯って、私に希望が見えた。2ヶ月半はあっという間で、そして、私にとってかけがえのない日々だった。

入院中に担当医と話をしにやってきた学校の担任と養護教諭。オンライン授業を病室で受ける毎日。夜は仲のいい患者さんたちと話をしながら、勉強をした。空き時間には、入院前には趣味をする気力もなかったなんて考えられないほどに、たくさん絵を描いて、折り紙をして、制作物を作った。それを見るたびに褒めてくれる人たち。わたしは、こういうことが好きだったんだ。何かものをつくることがすき。そうだった。入院したことで、思い出せた自分の楽しいという感覚。忘れないように、大切に大切に自分の中に留めておきたいと思う。

叫び声や怒鳴り声、火災報知器が鳴り響く病棟。そんな場所で、私は人間の本質が見られたような気がした。あまりに純粋な患者さんたちに、驚かされる日々。毎日のおはように、みんなで薬を飲んでおやすみなさいと部屋へ戻っていくルーティン。少し不思議な、修学旅行のような夜。オセロをしたり、将棋をしたり、トランプをしたり、UNOをしたり。遊びを知らなかった私は、いつしか遊びの達人になっていた。遊ぶことは楽しいことなんだと感じられるようになった。麻痺していた五感が、全身に染み出して、嬉しい、楽しい、そういうプラスな気持ちに満たされた生活。そんな充電期間を経て、また学校へ通う日々が始まった。卒業が全てじゃない。でも、卒業をひとつの目標として、今は頑張っていこうと思う。私を見守ってくれているひとはたくさんいるから、安心して安全基地から1歩踏み出して、探索行動を始めよう。愛着基盤の歪んだ幼少期の穴を埋めるように、何度も何度も、振り返り、時には思い出に浸りながら。