変わっていく、適応する。

ついに高校生1年目が終わったと同時に誕生日を迎えた。3月31日、私はこの日が大嫌いだった。大切な人との別れを感じながらの誕生日はいつもどこか苦しかったし、弟と誕生日が近いので家で特段祝われるわけでもないただの1日。

去年はこの日を超えるのが、怖くて怖くて堪らなかった。中学生、義務教育が終わるということが嫌で仕方なかったし、とにかく先生たちとのお別れをしたくなくて泣き続けた。当時の自分には中学校しかなかった、中学校だけが居場所だった、その居場所から、守ってくれる場所から、私を認めてくれる人達の近くから意に反して巣立たなければいけない苦痛は計り知れなかった。3月に入った辺りから不安定は続いて、養護教諭に自殺企図の是非を問われ正直に答えてしまうくらいには、担任が土日に死んでないか家に電話をしてくるくらいには、落ち着きがなかった。いつ死ぬか、それだけが頭の中にあった感情。当時の自分の目標は「卒業までに死ぬこと」だったし、去年のこの日、生きているつもりなんてなかった。

それでも今、私はこうして生きている。中学以上にたくさんの場所から、たくさんの支援を受けながら。そして、また死のうとした自分を必死に止めてくれた大切な新しい居場所 高校に通い続けている。私にとってそれ以上にないと思っていた居場所を、恋しく思いながら涙で枕を濡らす夜は少しずつ減って行った。今でも日記や先生から貰ったメモ、手紙を読むと苦しくなる部分はあるけれど、思い描いていたような地獄絵図なんかじゃなくて。高校は、中学とはまた違った大切な場所になった。

「頼ることは悪いことだ」と頭の中に刷り込まれた私に何度も何度も「頼ることは悪いことじゃない」と伝えてくれ、週に1度は必ず話す機会を作ってくれたSCや生徒指導、養護教諭のお陰で。「3月は別れの季節だけど4月は出会いの季節だから お前なら平気だよ」と言ってくれた担任のお陰で。「あなたはあなたのままでいい」と毎朝早く登校してくる私のいる教室に顔を出しては、優しく抱きしめてくれた学年主任のお陰で、私は、高校に入り人に頼ることが出来た。自分から、通院のことについてや長袖交渉をすることが出来た。頼ることを何度も何度も練習させてくれたあの場所があったからこそ今の居場所である高校がある。中学校でのあの経験がなければ、きっと今ももがき苦しんでいたと思う。

 

成長することがずっと怖かった。子どもでいないと護られないと、助けて貰えないと、今までのように過ごせないと思っていた。それと同時に、ずっと大人になりたかった。大人になって、自由になって、夢を叶えて、自分のしたいことが出来るようになりたかった。双極する感情に葛藤しながら、ここまで成長した。どんなに嫌でも苦しくても時は進んでいくし、幾度となく別れはある。それはどうしようもないことだし、頼れていただけ別れは苦しい。それでも私は、成人式でまた先生たちに会うことが本当に楽しみで生きがいだ。きっとそれまでに「あのときはありがとうございました」と言えるくらいに成長出来るから。胸を張って、お礼を言える日が来て欲しいと思う。

別れを経験したとき、辛くて仕方がなくてそれしか考えられなくなる。何度繰り返しても、別れには慣れない。だけど、新しい環境もきっといい場所であると信じて。そして、自分から行動していくしかない。時は進んでいくし、過去を見ていても何も変わらないから。そこまでに頼ってきた人達は、ここで私が立ち止まり過去ばかり見て立ち止まることは望んでいないから。

中学のとき担任が離任式で「この学校での毎日は本当に楽しかったです。次の中学ではもっと楽しい思い出を作ります。過去は振り返りません、思い出に負けません」と言っていたのを、やっと理解することが出来た。綺麗事に聞こえるかもしれないけれど、進むしかない。時間は止まってくれないし、死ぬ事で先生たちの出来事が思い出になってしまうことを防ごうとしていた自分だったけれど思い出になったからと言って今までの出来事が全て消えてしまう訳では無い。むしろ、ずっと頭の中に残っている先生たちからの言葉は生きていく上での大きな財産になっていると思う。

 

今年は運良く、大きなお別れもなかった。いや、年度末になかっただけで主治医が変わったりはあったけれど。そこでも何度も悩んだ。主治医が原因で涙を流したり腕を切った夜もあった。時が進むのが嫌で怖くて、それでも適応しようと努力した。今、新しい主治医は前の主治医に負けないくらい頼れる存在で、最初は恐れていたけれどそんなに怖がる必要は無いと気付くことが出来た。今の自分を育んでいるのは先生たちがインナーチャイルドをある程度のところまで育ててくれたからだし、いつかその恩返しがしたい。恩返しをするために必要なのは、立ち止まることでも振り返ることでもなく今までの思い出を糧に努力を続けることだと、私は思う。いつまで経っても別れは怖い。それでも、別れがあるから出会いがある。また巡り会える誰かとの出会いのために、別れを惜しんではいけないと思う。私が私であるために、そして私が今まで以上に大きくなっていくためにこれからも善処していく。

「自分だけ取り残された感覚」がずっとあった。周りはどんどん進んでいくのに、自分だけは進めずにその場で足踏みをしているような感じ。とにかく辛くて、自分はどうして周りのように出来ないんだろうかと思った。でも、自分を取り残していたのは紛れもなく自分だった。ある種、不幸に慣れたというか、不幸であることでやっと自分を保てていた部分があったからなんだろうなと思う。無意識ながらに「取り残された自分」に酔いしれていたのかもしれない。前を向くことの意味が全然わからなかったし、現在が過去になることが、日常が非日常になっていくことが怖くてそれだけを恐れていた。自分が自分を止めているんだと気付けたのはしばらく後だったけれど、その間の悩みも今の自分を育てたのかもしれない。陽性の感情も、陰性の感情も、経験しないとわかることは出来ないから。あのときの、苦しみ、憎しみ、悲しみ、怒り、拒絶もきっとどこかで私の役に立っているんだろうな。

 

誕生日と同時に学年末を迎えて、1年を振り返った。4月から、たくさんのことがあった。数え切れないほどの困難を乗り越えられたのはきっと周りの人の力があるからで、周りの支えてくれている人が口を揃えて言う「あなただから私はあなたのそばに居る」と言う言葉は、私に頑張ろうという気持ちを与えるには十分で。4月から、留年危機で通院日数を減らしたり新しいSCに会ったり市のカウンセリングルームに通い始めたり、テストに向けて何時間も勉強して結果を残したり、体育祭で倒れて救急搬送されて入院したり死のうとして先生たちと夜まで過ごしたり母親との関係に葛藤したり。父が単身赴任したり主治医が産休に入り変わったり、姉を心配したり弟の発達障害について必死に勉強したり、自分から人に助けを求めたり。たくさんの人と笑いあったり悩みを共有したり、涙を流したり。多くの経験は、きっとあのとき私の全てだった中学校以上に濃かったと思う。そして、これからの1年もまたそれ以上に濃くなっていくんだと思う。

慌ただしい毎日は気付けば終わっていて、不思議な感覚がするけれどそれでもそれほどに充実していたんだと思う。ふと振り返ると思い出すのは支援者がくれた言葉や、友達からのあたたかい優しさ。もう死んでしまおうと何度も思ったし、実行しようとした。そんな1年で私の周りにはたくさんの優しさが溢れていたし、その優しさに触れながら自分も少し変われた気がした。4月、肋間神経痛に苦しみながらも気付けば痛みは消えていて、周りには友達がいて、話を聞いてくれる先生がいて、保健室という居場所があった。来年もきっと変わらない、何かが変わって普通じゃなくなったとしても、日常じゃなくなったとしても、また何かが変わってそれが普通になり、日常になっていく。適応しなければと思っているうちに気付けば適応しているから、今はまだ思い出に浸りながら過ごしていようと思う。進むからと言って、忘れる必要は無い。ずっと心の中に思い出として留めておけばいいし、思い出になることを恐れてはいけない。その思い出をバネにもっと頑張れる日がきっと来るから、その日まではこうしてしたためておこう。