思考のお裾分け

動画や本でインプットした情報を自分なりにアウトプットしておく。腑に落ちたものの記録。

 

 

「死んじゃダメ」じゃなくて「生きていて欲しい」

死にたいと思ったときに、「こんなふうに思ってはいけないのに」とか、死にたいと思ってしまう自分にさえ嫌気がさす、って人がいるけれど(そういう道徳的な教育だったり、育ちだったりでそう思ってしまうのは致し方ない部分はあると思う)、死にたいと思ってはいけないということはないんだなぁと。死ぬことが悪いことなんじゃなくて、ただ「生きていて欲しい」だけなんだろうな。知りもしない人、それこそ会ったことも見たこともない人が自殺したニュースを見たとしても心を痛めたりはするかもしれないけど、「死んじゃダメでしょ!」とはならないと思う。ニュースになるような自殺ってなると理由が明らかな場合ーーいじめだったり虐待だったりーーも多いからなのかな、とも感じるけれど。私は全世界の人間が死んではいけない、全員が全員生きていなければいけないとは思わない。私と関わってきた人、とりわけ私の支えになってくれた人や陽性の感情を抱いた人、好きとか尊敬とか憧れとか、単純に一緒にいたいとか、話してて楽しいとか。そういう人には、生きていて欲しいと思う。生きていて欲しいというか、死んで欲しくないというか。死ぬことは悪い事じゃない、死んでしまいたいほど辛いのもわかる、それもわかるけれど、それでも生きていて欲しい、そんな気持ち。死んだら地獄行きだよとかそういう胡散臭いのじゃなくて、本能というか、なんていえばいいのか分からないけれど、ただ「生きていて欲しい」だけ。エゴです。相手のことを考えず、自分がただその人がいなくなることに耐えられないから、って気持ちを優先しただけの自己中心的な考え。それでも、私は生きていて欲しい、と思う。

だからこそ私は、死ぬことが悪いことだとか生きていればいいことがある、生きてさえいればいいって気持ちはわからないけれどとにかく 死ぬのだけは辞めて欲しい って言うのはものすごく分かる。わかるからこそ、それを周りから言われるのが苦しい。自分だけはダメ、それ以外はよし、みたいな感じ。相手に関しては落とし込めるのに自分になるとめっぽうダメ。それは死にたい以外でも、自分以外が休むことはいいと思うしゆっくり休んでって思うけれど自分だけはそれが許されないとか、そういうところもなんだろうなぁ。むしろ自分を許すことが出来ている人なんて居るんだろうか、わからないけれど。

頭の中では理解している、周りの人の心情もわかる、なのに死にたい自分がいる、その両価性が余計に自分の首を締めているのかなと感じる。これもまた知りすぎた、学びすぎたの弊害なんだろうな、若干余裕が出てくると一気に苦しくなってしまう。今なら、中学養護教諭が卒業間際に言っていた、「死なないで欲しいよ、それは私のエゴでしかないけれど」って言葉がすごくよくわかる。そう、エゴでしかない。エゴでしかないけれど、生きていて欲しい。わかる、それがわかるから。だからこそ、わかっているのにどうしようもなく死にたい自分が許せない、けれど死にたいが悪いことじゃないと頭では理解していて、またアンビバレントで苦しくなってしまうのかな、と。考え始めると不毛でしかないし、意味もないんだけれど思考を止めるのは難しい。ずっと考えて、悩んで、ぐるぐる堂々巡りを繰り返す。そうなることを理解しているのに、また考えてしまって…の繰り返しで疲れる。常に頭が働いていて、自分でもどうしたらいいのかわからないような気持ち悪い感覚は何度経験しても慣れない。

 

「自立は、依存先を増やすこと、希望は、絶望を分かち合うこと」

上記は新生児仮死の後遺症により脳性まひの障害を持つ熊谷晋一郎さんの言葉。

自分の中で何となく「もう高校生なんだから」「もう子どものままではいられない」って気持ちがずっとあって(中学のときはそれはそれで、義務教育も今年で終わるんだから頼りすぎは良くないとか、結局いつも自分に縛りをつけてしまっている感じは否めないんだけれど)。そもそも私にとって大人ってどういうものなんだろうなと思って、考えていて。(広義でいう自立ではなくて、自分の中だけの意味としての)「自立している人」なのかな、と。でもその私の思う 自立 は人に頼らず、たった1人で生きていくもはや綱渡りみたいな言葉。調べてみたけれど、「自立ー自分以外のものの助けなしで、または支配を受けずに、自分の力で物事をやって行くこと。」と、ある意味間違っては無いのかな?と思うところはあるけれど自分以外の助けなしで って言うのが情動的なつながりも無しとしてなのか、最終的には自分で選択していくこと(そこまでのプロセスでは人に頼り、悩むこと)なのかで違うのかなーと思った。支配を受けずにと言う部分を見ると、頼りはするし、悩むーーその作業は1人であれ他の人と共にであれーーということもアリで、それでも最後は自分自身で選択すること、自分の行動に責任を持つこと。そこまでが自立なのかな。

1人に頼るだけでは(または頼らず1人きりで生きていくだけでは)必ずどこかでボロが出ると思う。その1人が24時間フル稼働なんて無理な話だろうし、頼る人さえいない状況では結局自分の中での固定観念でしか物事を考えることは出来ない、視野狭窄になりやすい状態であるだろうし(自分の中での固定観念って自分ではわかっていないけれど結構根強かったりするし、それを自分だけで軌道修正というか、こだわりとしての固定観念やこうでなければいけないという感情を変えていくのは難しいと思う)。細くたくさんの繋がりを持つこと、そしてそれを続けていくこと。それが何よりも大切なのかもしれない。どんなに細くても、継続していく。その頼みの綱がたくさんあればあるほど、ある意味自立に近付いているのかなと思う。それこそ自立は依存先を増やしていくことという言葉の真理なのかな。

 

 

“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。

実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。

 

これはまた違う熊谷晋一郎さんのネット記事からの引用。

身体障害者だけでなく精神障害者であったり、障害と区分されなかったとしても「AC(アダルトチルドレン)」だったり「機能不全家族育ち」だったり「愛着に問題がある人」にも当てはまることなのかな、と。そういう人は顕著に頼れない、依存ができない。または偏りが激しく、1人に依存しすぎてしまったり依存する先が適切でなかったり(繋がりを求めるための援助交際など)、そもそも安心して依存できないからこそ「行為」に依存してしまったり(アディクションとしての自傷行為、飲酒、過量服薬などはここの部類に入るのかな)。そもそも「依存すること」に関して人一倍敏感で、また人一倍鈍感なんだろうなと思う。育ちの過程で適切な(自立としての)依存をする経験がなかったのかなと安易に想像できるし、本当に基盤としての愛着やそういう(頼ったりとかの)経験は大切なんだなと感じる。

 

「自立」と「依存」という言葉の関係によく似ていますが、「希望」の反対語は「絶望」ではないと思います。絶望を分かち合うことができた先に、希望があるんです。話や思いを共有できたからといって、実際には問題は何も解決していないのだけど、それで得られる心の変化はとても大きいんです。

絶望が、深ければ深いほど、それを共有できたときに生まれる希望は力強いんですよ。

この方の言葉を頭の中に入れてみると対義語こそ真理というか、形容しがたいような感情を抱く。けれど、本当にそうだなと納得する。自助グループとかもこの類なのかなと。絶望を理解して貰えた、またはその絶望を共有できたときに感じる希望や前を向く原動力になるような、生きていく糧になるような、そんな気持ちは絶望が大きければ大きいほど(いい意味でも悪い意味でも)自分の中での大切な何かになっていくと思う。カウンセリングとかもそうで、結局はあれは話をしていく中で自分の中で理解出来ていなかったものを理解していく、言葉にすることでインプットしていく作業なんだろうな。逆にそれ(絶望を分かち合うこと)がないからこそ生きていくのが辛い人も多いのかもしれない。「居場所がない」だったり、「誰も私を理解してくれない」と悲観している人はそういう経験がない、または乏しい、またはその共有の経験以上に根深く、深い絶望があったりーーなのかなと。色々と考えさせられたというか、本当に言葉を紡ぐのが上手い人の文章を読むとたくさんのことを吸収することが出来てとにかく楽しい。内容が内容だけにこの言い方だとちょっと不謹慎だけれど、楽しい。

 

最近は色々なものを読み漁ってはインプットして、アウトプット(自分の言葉で言語化してそれを文章にしたり、自分のものとして落とし込んだり)するのに熱中しているのでまたこんな感じの雑多なものも書きたいなーと思う。