自分を保つ手立てを見つける

自分で生きやすい道を模索して過ごすのが無難で幸せになれる一番の近道なのかもしれないなぁと最近思う。自分が置かれている状況を理解し、それをどう切り抜けていくのか考えていく作業はやっぱりしんどい。でもそれをすることで楽になれることもあるから、どうにかそんなしんどい作業からも逃げずに立ち向かって行けたらいいなぁと思うのだ。自分と向き合うこと 別にする必要がある訳ではない。一生それをせずに、楽しく生きていける人もいるだろうし向き合えば向き合うほどいい所がポロポロ出てくるような人もいるんだろう。自分を知ることは何よりも苦しいけれど、「やらなくてもいいことを必死にやって、生きようと頑張っているあなたは本当にすごいんだよ。」と言ってくれたSCの言葉を受け止めて毎日を生きている。

 

コロナで唐突に休みに入る少し前、本当に死ぬつもりだったけれど学校で先生たちに止められ夜まで話をしていた日。あの日以来、死にたいとは思うもののどうにか行動はしないように生活をしてきた。その中で衝動的になったり辛いなと思ったときどうにか腕を切ること以外での対処法が見つけられないかと考え続けた。同時に自分の「人に褒められたい」という気持ちもなんとか処理出来たらなぁと思った結果、お菓子作りと料理が趣味になった。分量まで細かく見たお菓子作りは時間を忘れて無心になれるし友達からも好評。料理は親も作る手間が省けて機嫌が良くなることに気が付いた。

ピアノを弾くことや絵を描くこと、写真を撮ることもそうだ。この1年間で、少しずつやれること(気が紛れること)を増やしていけたと思う。中学のときは自傷行為以外のストレス発散を探そうだとか腕を切る前になにか出来ないかと考える余裕なんてなかった、あのときはただ生きるのに必死で生きてるなら別に何をしたっていいと思っていた。だから毎日のように腕を切り、涙を流し、死にたいと思いながら過ごしていた。毎日が地獄でしかなかった。頼れる人はいるのに拒絶して、自分から離れていっていたのを振り返ると、ある意味あれも自傷行為というか、自滅的な部分もあったのかもしれない。幸せになることが怖かった、自分は不幸で居なければいけないと思っていた。それは、幸せの後に必ずやってくる気分の沈みやそれ以上の不幸、苦しみに耐えきれる自信が当時の自分にはなかったから。

変わることが怖かったし、変わらずにいて欲しかった。それでも、変わらずに毎日が過ぎていくなんて無理な話で、やっと慣れたと思えばその場が変わっていき、また苦しみを繰り返していた。少しの変化で精神的に参ってしまい、熱を出したり吐き気が出たり、はたまた肋間神経痛が酷くなったり。保健室を避けた一時期を除いて、中2の半ばはほぼ毎日のように保健室に行っていたかもしれない。平熱が36.2℃くらいなのに、心因性発熱が続き37.0℃で「今日はまだマシだね」なんて言われるくらいになっていた。修学旅行も後半は体調を崩し嘔吐したり発熱したり、食べれずにフラフラで先生たちに支えられながら自宅へ帰宅したし、体育祭も最初から熱があって種目に1度参加しただけであとは救護室で毛布を被りぼーっとしていた。合唱祭でも熱があり立っているのがやっとな状態で、まともに歌えてもいなかった。

そんなこんなで私には、「中学校生活最後の」とか「義務教育の集大成」みたいな行事ごとは見事に完璧にこなせたことはない。それでも、やっぱり友達や先生は優しくて保健室に連れて行ってくれたり話を聞いてくれたり様子を見に来てくれたり荷物を届けてくれたり、車で家まで送ってくれたりした。その優しさがあったからこそ私は中学を長らく休むこともなく、苦しみながらも毎日通えていたんだと思う。どれだけ恵まれていたのか、そして今の生活もどれだけ恵まれているのか、考え始めると止まらないくらいには周囲の人たちはいつもあたたかかった。

 

死ぬと決めたとき。中学校卒業間際と、今年の2月。2度とも先生たちに気付かれて(というか連絡されて)しまったけれど、どっちでも先生たちは優しかった。死ぬなんて馬鹿なこと言わないで、なんて言われもしなかった。それほど辛かったんだね、気付けなくてごめんね、これからは一緒に生きていこう、もう頑張らなくていいよ、そんな言葉に複雑な気持ちを覚えた。

亡くなった生徒の話をしてくれた先生2人。そして、家のことや他の生徒には話していないような話をしてくれた先生たちはもっとたくさんいる。その話を聞いているうちに、「死にたいと思うことは自由だけどそれを行動に移してしまったとき、どれだけ沢山の人が悲しむんだろう」と思った。誰からも必要とされていない、誰からも愛してもらえていないなんてただの勘違いで、私にはたくさんのものを与えてくれた人達がいる。死のうと決めたときでさえ「ああ、最後に話したかったな」と頭に浮かぶ人はたくさんいた。それは、中学の先生たちだったり、高校の先生たちだったり、主治医やカウンセラー、私を傍で支えてくれた人達。そう思うと、本当は死にたくなんてなかったのかもしれない。ただ、死にたい気持ち、終わりにしたい、どうしようもないぐちゃぐちゃな気持ちに気付いて欲しかっただけなのかもしれない。

どんなに先生たちから練習をさせてもらっても、SOSを出すことは苦手だ。幸い、周りの人達がそれを出さなくても気付いてくれるから、それで生きていけていたけれどいつまでもそれに甘えていくわけにはいかない。いつかは成長しなきゃいけないし、私が変わらなければいけない。変わることは怖い、それは自分が変わることでもそうだ。だけど、これからもこうして生きていくならばそれは必須な発達課題だと思う。乗り越えなければいけない課題。乗り越えることで、進める課題。それに適応できずに何度も苦しんだ。

 

 

フラッシュバック。

知らない言葉だったし、縁もゆかりも無かった。

ただ、保健の教科書のストレス関連の単元のときに申し訳程度に書かれた「フラッシュバック」と言う言葉とその解説に、今までの自分との辻褄があって泣きそうになったのを覚えている。当時の私は怖かった。何度経験しても、頭の中で突如として流れる映像のような、実際に今経験してるかのような気持ちの悪い感覚になれることは出来なかった。それはいつも突然現れた(今思えば、怒鳴り声や大きな音など特定の条件で現れていたけれど、そのときはそんなこと振り返っている間もなかったし、それをフラッシュバックとして認識してなかったんだろうな)。内容は、その時々によって変わった。母親からの怒声、際限なく殴られたとき。ルールを破ったからと笑いながら回し蹴りをされたときや、髪を掴んで外へ追い出されたときの記憶が一気に蘇った。蘇るというか、流れてくる。流れてくるから、止めることが出来ない。周りからしたら不思議な光景だったと思う。ふとしたときに、固まってどこかを見つめながら動けなくなっている私を見た友人は、笑いながら「いい精神科紹介してあげようか」と言った。その後、精神科への通院が決まったけれど友人に話せたことは1度もない。何度もこういう、「精神科いじり」があって、しかもそれが悪意のない、自然なものとして彼女達の口から出てることを私は知っていたから。

症状の意味を知り、私は楽になったと同時に母親の言動に違和感を覚えるようになった。その時の私にとって、母親は絶対であり私の全てだった。母親の期限を損ねたらもうその1日は終わったも同然だったし、母親の機嫌を取ることだけが私が平凡に暮らせる手段だった。だけど、それが可笑しいことを私は気付いていた。それでも見て見ぬふりをしていたんだと思う。私は小学3年生のときから児童指導員になりたいと思っていて、虐待や施設に関しての本をかなり読んでいた。読んでいる中で我が家に似ている事例を見るたびに違和感を感じてはいたものの必死に目を背けていた。それが虐待だと受け止めるのに、時間はかからなかったけれど、当時の私は先生たちから言われる「虐待」の言葉も、全て閉ざして自分に向けていた。

 

解離が出てきたのは確か中学の終わりあたり。それでも、回数も少なく離人感のほうが多かったので「まあ受験もあったし疲れてるのかなー」なんて呑気に考えていた。ふわふわとするその感覚は気持ち悪いけれど嫌なものではなかったし、そのままでいた。最近になってそれが出てきて、なんとなくそういうものなんだろうなと思いつつも主治医から言われた言葉に泣きそうになった。

「そうしないといられないから、ぼーっとしていないとまともにそんな言葉を受けていたら壊れてしまうから、自分を守るために現れている」。

私はどうしてもどうしても周りからどんなに言葉をかけられても死にたくて仕方がなくて、それでも頭の中ではどこかで生きたがっているのかもしれない。それは、中学時代に信頼していた理科教諭から言われた「あなたがどんなに腕を切ってもいつか血が止まり、こうして傷痕として残っているのはあなたの体の組織が必死にあなたに生きてもらおうとしているからだよ」に近いものがあったと思う。先生からの言葉を思い出し、少し泣きそうになった。あの頃から、ずっと、私はただ生きたかったのかもしれない。

 

死にたいとか、そういう言葉をずっと使ってきた。多分それはこれからも変わらないんだろうし、もうそういうものなんだろうと思う。どれだけ助けられようが、結局はそういう感情に戻ってきてしまって苦しくて仕方がなかった。それでも、それはただ「死にたいほど辛いことに気付いて欲しかった」というだけで、なんだかんだ「生きたい」の裏返しだったのかな。生きたくて、生きたくて、仕方がなかったのかもしれない。腕を切ることで、薬を飲むことで、はたまた人に話をすることでそれを必死に伝えようとしていたのかもしれない。死にたいと泣きながら、頭の中では生きたいと、思っていた。

私はただ生きたかった。

生き延びて、幸せになりたかった。

 

たった15年間ほどしか生きていないけれど、それでもだいたいのことでは傷ついてきた気がする。それを乗り越えるために、それでも生きていくために、今の私には何が出来るんだろうか。幸せになるためには、普通になるためには、まだまだその方法を見つけることは出来ないけれど。それでも、いつか普通になれるように。自分の言う普通が本来の普通だとは限らないけれど、自分の望む普通になれたのならばそれでいいのかもしれない。落ち着こう、先を見据えよう。また死にたくなるかもしれないし、それこそ死のうと実行することがあるかもしれないけれど、それでも生きているから、どんな形であれ生き終えるまでは進むと思う。頑張る。