死なないで生きることにした

「今は」の話だけれど。

 

居場所だった学校へ行けなくなり2ヶ月、色々なことがあった。それは親のことだったり、弟のことだったり、兄のことだったり、姉のことだったり、はたまた自分のことだったり。何度か本気で「ああもう死のう」と思ったこともあったと思う。今思い返せば、死ぬほどのことじゃないのかもしれないけれどやっぱりそう思っているときはそれしかないと視野狭窄になっている部分はある。

紆余曲折はあったんだけれど、心理士・カウンセラー・社会福祉士の3人と数回電話で話す機会があった(SNS相談みたいなもの)。そこでは色々話をした。学校のこと、家のこと、将来の夢の話。くだらない話も沢山したけれど、そのなかで初めのほうに言われた「自分と向き合うことが出来るのはすごくいいことだけれど、その作業は1人じゃしんどいよ。誰かとやるから出来ることだと思うんだ」と言うのはなかなかなるほどと思った。今まで自分がなんとなくでも自分と向き合えていたのは、支援者があってこそだったのかもしれないな、と。そして、「わがままでいいんだよ。高校2年生なんて、まだまだ子どもで、人に頼っていい年齢なんだから」と言う言葉には驚いた。私のなかにはもう高校2年生なんだ、人に頼って生きていくべきじゃない。自立しなければいけない。という意識がずっとあった。義務教育も終わり、高校生活も1年経験し、気付けば卒業に向かっているような年齢。そんな自分が、人に頼ることが正しいのかどうかわからずにいた。というか、頼り方もわからずじまいだったときに比べると援助希求が増してきていたというかやっと頼るとはなにかが少しわかってきていたからこそ、余計に「自分に時間をかけさせるのは……」みたいな気持ちがあったのかもしれない。だからこそ、たくさんの支援者が居るものの自分から声をかけられたことはほとんどない(贅沢な話なんだけど)。私は自分でSOSを出す能力がめっぽう弱い。唯一出せているのは中学養護教諭へのLINEくらいなのかなあとも思う、それ以外ではだいたい頼れる人たちが「大丈夫?」と声をかけてくれるから。私はいつも受け身だったし、それが当たり前だった。今となっては元担任に言われた「少しずつ人に自分から頼りに行く練習をしよう。あなたは時間とか話すこととかを約束しておかないと、自分から来ないでしょ。本当は、自分から頼れるようになって欲しいんだよ」って言葉もよくわかる。本当にそう、自分から助けを求められるようになれば、自傷も少しは落ち着くのかなぁとか思ったりもする。

頼らないことを美徳としているうちは、自分から頼ることが出来ない。頼ることをやめよう、1人で生きていこう、なんて出来るわけもないのに無理やり我慢して抑え込んで、振り返ってみると中学もそんなで今は少し後悔している。ある意味自己満足でしかない、それをしている自分に酔っているだけ。頼れる人がいるうちに、頼れるだけ頼るべきだったんだ。当たり前が、当たり前じゃなくなった今それをひしひしと痛感している。どうしようもなくなったとき、そのまま死へと向かうのではなくて、周りに助けを求められるようになること。すごく大切な事だと思う。「自分から言葉にすることが大切だから、断られたりとかももちろんあると思う、でも、何よりもまず言葉にすることが1番大切。主張をもっとしていい」と言われてからは、なんとなく自分の中で思っていることを口にする、と言うのを意識して過ごすようにしている(とはいえやっぱり難しい)。

元々児童養護施設で働きたいと思っていた手前なので、ある程度の知識を持って勉強をしていたし、インターンシップにも行った。その話を心理士さんたちにすると、「自分たちは発達の子の相談に乗ったりしている仕事だから、そうやって夢を持ってくれて嬉しい」と言ってくれた。私が私の中でやりたいと決めたことを、褒められたことが何よりも嬉しかった。この休みの間、やれることが一気に減った。お風呂には毎日は入れないし、頭は働かないし、動画は情報量が多くて見ていられなくなった(文字だけ、音だけ、じゃないと脳内処理が上手くいかずに苦しくなってしまう)。もちろん、映像授業のある教科は泣きながらノートをまとめたし、一時停止してはまた再生して、問題は解けずに悔しくて何度も泣いた。今思えば極限状態だったかもしれない。

それでもやれることを見つけて、少しずつ形にして。ペースは遅いけれど、ちゃんと自分にもやれることはある、と思えるようになったと思う。Twitterで描いているノンフィクションの漫画も全て、「何か形に残したい」という気持ちがあってこそなんだろうなぁ。どこかで私がいた証を残したい。今までは、忘れて欲しい、なくなってほしい、それこそ「死にたい」よりも「消えたい」ーーような、感覚が強かった気がするけれど。でも今は違う、必死に自分を模索しているところなのかな、と思う。

 

また、この期間中は通院回数も週に1回で(どうにか外に出るために、今の期間頼れる人は主治医だけだから)、色々な話をする機会があった。休みが長くなっていくにつれて露呈してきた解離やフラッシュバックのこと。先生に解離をする理由がわかるか尋ねられたとき、なんとなくわかってはいたけれど、自分で言葉にするのが怖かったから、言葉を有耶無耶にしながら「まあ、聞きたくもないしいいかな」と笑いながら言ったら、「まともに聞いてたら壊れちゃうから、だから自分を守るためにそうなるんだと思うんだ」と言われたのを覚えている。中学のときに理科の先生が言っていた「あなたがこうやって腕を切っても、血が止まって傷が痕が残る残らない関係なく治っていくのは、あなたの組織細胞が必死だから。あなたの身体はあなたに生きて欲しがっているんだよ」と言う言葉を思い出して、少し懐かしかった。どう転がっても自分は無意識下では「生きたい」と思っているのかな、と。そもそも自傷でさえ、生きるためにしている行為だと思っている。1番初めに腕を切ったときは確かに死にたくて、死ねるんじゃないかと思って切ったけれど、今はそうじゃない。なんとか感情に蓋をして、その一瞬一瞬を生きていくためにしていること。言語化をする前に全てを切り離して、楽になるためにしていること、だから。

そもそも「死にたい」と思うほどに悩むこと、向き合おうとすること。それは全部、生きるためにする行為なんだろうな、と思う。生きるーーを考えていなければ、死ぬなんてことは浮かばない。誰よりも生きるに固執していて、生きるを望んでいるのかもしれない。食事をすること、眠ること、人と話すこと、または通院したり、薬を飲んだりすること。それらは全て、生きるためにしていることだ。本当に死にたかったなら、通院なんかしない。する必要がない。死ねばいいだけだから。でも、「死なないために、どうにかその気持ちを緩やかにして生きていくために」私は通院している。通院をしていたから劇的になにかが変わったということは正直ないけれど、通院をしていなかったら今の私はこんなじゃなかったろうと思う。もっと酷かっただろうな。ある意味、通院はそれ自体に意味があるというよりはなんとかそれで生きながらえて、出会えるものーー生きていたら、生き延びていたら得られるものに触れられるまでの延命なんだろうな、と。

 

「親の気分変動には慣れた」と人に話すと、結構人それぞれの反応がある。主治医は「慣れるのか、強いなぁ。いや、強いんじゃなくて頑張ってるんだろうな」と。強くなるしか選択肢がなかったけれど、でも。それを認めて貰えたことで、なんだかすっと心が楽になった気がした。肯定というか、ただ聞いて貰えるだけでよかったんだ。私は聞いて欲しかったんだ、と思った。カウンセリングに関する本を読んでいて、受容だったり傾聴だったり色々なことを見ていて、学ぶことは多いけれどやっぱりそれが手法だとわかっていたとしても実際にカウンセリングでそれをされるとわかってもらえたような気がする。わかってもらえた、という感覚はほんの少しだけだけれどここまで生きていてよかったと思える。

元担任に言ったときは確か「慣れていいことじゃないよ、慣れなくていいんだよ、本当はその歳でそんな思いする必要ないんだよ」と悲しそうに言ってくれたんだっけ。そのときは、だってそうするしかなかったんだよ、と言いかけながらも愛想笑いすることしか出来なかった。他の先生の反応も「いいことではないけど(自分の)メンタルを保つためにはいいことなのかな」とか「そんなに必死に生きてるんだね」とか「聞いてて悲しくなるけれど、そうやってあなたは生きてきたんだよね」とか。多分私は、そういう言葉を拾い集めながら、頭の引き出しにしまっては生活をしている。

何かがあったときは、その引き出しをそっと開けて、「先生たちはこう言ってた」「また話せるから大丈夫」とその言葉を抱きしめている。それが私にとっての自分を保つ手立てだった。何かを言われたとき、何かがあったとき。離人感、自分を少し後ろから見つめながら、「だいじょうぶ」を唱えている。唱えているというか、流れてくるというか。だいじょうぶ、だいじょうぶ。そうして言っていれば、本当に大丈夫な気がしていた。流れてくるそのだいじょうぶの声は、時々によって違っていたけれど、私を支えてくれていた先生たちの声ばかりだった気がする。

「お前の大丈夫は大丈夫じゃないからなぁ」って私を見て笑った体育担も、「あなたの大丈夫は信用してません」って笑いかけてくれた元担任も、「すぐに大丈夫って言わなくていいよ、もっとわがままになろう」って私の手を握りしめてくれた中学養護教諭も。「それが癖になってると思うから、大丈夫って言うのは止めないよ。それでも、大丈夫じゃないって言ってもいいってことは忘れないでね。泣いたっていいんだよ」って、ティッシュを差し出してくれた元主治医も。私の記憶の中にいる先生たちの姿や言葉はふとしたときに現れて、私を生かしてくれていたんです。ずっと、そうして生きてきた。

 

 

どうしようもなく辛い2ヶ月間、何度も先生たちとの会話や、貰ったものや、言葉や、手紙や、色々なものを見返していた。高校での思い出だけじゃなく、久しぶりに開いた中学卒業アルバムや、中学元担任が作った動画、当時の日記。どれもそんなに昔なことではないのにすごくすごく遠いものに見えた。あのときはあれ以上の幸せはないと思っていたし、先生たちと話せなくなるなら、先生たちとの毎日が過去のことになるなら、思い出になってしまうなら、死ねばいい。忘れちゃう前に、自分から終わらせようと思っていた(死のうと思って向かった駅のホーム、結局飛び込めることは無かったけれど)。

私も、私以外もあれからたくさん成長した。髪を切ったのも、自立するため。腰下まであった長い髪は、駅前でも「あ!」と、中学の先生たちから声をかけてもらえることがあって、大切な先生たちと繋がるものだった。また、髪が伸びている間の記憶ーー中学入学から中学卒業までの3年間。髪の手入れをしている間は、なんだかそれも思い出せるような気がしていた。だけど、その髪の毛は夏に36cm切った。中学では考えつかないほど、変わった。少し寂しい気持ちがありながらも、切った髪の毛をヘアドネーションのために郵送を終えたときには中学のときの辛い記憶も少し軽くなった気がした。断髪式じゃないけれど、少なくとも後悔はしていない。

楽しいことばかりじゃなかった。中学も、高校に入ってからも。でもそれを思い出して、必死に縋るくらいには自分には何もなかった。違う、私が私でいられたのは、そこが学校だったから。頼れる人がいたから。だから、今の環境は少し苦しい。そんななかでネットでも色々あり、暴言を投げかけられたり。自粛ムードのなか、みんなストレスが溜まっているんだろうなあと思う。でも、それを人にぶつけて楽になる人にはなりたくないな、と改めて感じた。全てを自分にぶつけることは正しいことじゃない。それこそ、自傷行為そのものは推奨されたものではない。けれど、人を傷付けてまで自分が幸せになろう、落ち着こうなんてどうしても思えない。そもそもの感覚の違いなんだろうな。それでも、それをバネにもっと頑張っていく決心が着いたから感謝すべき部分もあるのかもしれない。

今の自分のまま、児童指導員になれるとは思っていないのは変わらない事実で。どんな道に進んでいくのかはわからないしまだ考えている途中だけれど、やっぱり向き合うのはひとりじゃしんどいので、今は考えるのは少しお休みにしてみることにした。また、先生たちに会えたらたくさん話をして、向き合って、進む道を決めていこう。下手に進もうとしても、空回りしかしない。そもそも今のこの時期は、進むべきじゃないのかもしれない。イレギュラーが続く中、無理に進もうとすればまた調子を悪くしてしまうかもしれない。だんだんと自分がどんなときにどうすればどうなる、がわかるようになってきたなぁ。

とりあえず、今は。今だけは。また、先生たちに会いたいから。ちゃんと生きて、来週も主治医に会いたいから。だから、少しだけ生きようと思っている。それが正しいのかは、やってみないとわからないから。なんとなくでも、生きていくことにした。