さよならじゃない

暗い部屋に光が差し込み、きらきらと散った埃が輝く。それを、ぼんやりと見つめる。ふと、フラッシュバックするのは過去の外の倉庫に押し込められた頃の記憶。ドアの隙間から朝日が微かに入り込むと、きらきらと埃が輝くのだ。それが綺麗で、私は泣きそうになりながらも、それをぐっと堪えた。喘息になったのは、ハウスダストまみれの倉庫に何度も閉じ込められてからだった。ある意味で、後遺症として、ずっと私の中にあり続けるのだ。

夕日、朝日、星空。多分、普通の子どもよりも、見る回数が多かったと思う。家を追い出されるたびに、私は空を見上げていたから。それが癖になって、気が付くと上を向くことが増えていた。綺麗な空を見てから、ゆっくり目を閉じると、頭の中にも情景が浮かぶ。そして、イマジナリーフレンドが現れて、「やあ、○○ちゃん。また追い出されちゃったの?」「うん、でも今日は早めに家入れて貰えると思うんだよね」なんて会話を繰り広げる。この頃の私にはイマジナリーフレンドがいなければ、死んでしまっていたと思う。イマジナリーフレンドの稚依ちゃんが、私の唯一の友達だった。稚依ちゃんはもういないのか、それとも解離の人格として存在するのかはまだわからないけれど、私が稚依ちゃんとお別れしたのは、震災の日だった。東日本大震災。あの日から、稚依ちゃんはいなくなってしまった。どんなに想像しても、頭の中で呼びかけても、稚依ちゃんはいなくなっていた。チイちゃん。どこに行ったの。どこに消えてしまったの。私の唯一の友達だったのに。今も、存在しないことはわかっているのに、どこかで探し回っている。稚依ちゃんが、実在すればよかったのに。そんな都合のいいことを考える。今の私には、実在する私を助けてくれる人間がたくさんいる。だけど、きっと、稚依ちゃんを超える子なんて現れないのだ。悲しいけれど。でも。頭の中でつくりあげた都合のいい存在よりもいい存在なんて、なかなかない。わかってる。

今になっても稚依ちゃんを、思い出す。

 

明るい部屋で、楽しいことを考える。

私はどちらかというと創造力に富んだ少女だったので、絵を描いたり、工作をしたり、色々なことをした。その根源にはいつも「褒めて欲しい」「認めて欲しい」気持ちがあった。時々明るい部屋で癇癪を起こした。暗い暗い倉庫に閉じ込められることの多かった私は、暗い部屋が怖くなるのではなく、逆に明るい部屋に恐怖を感じていたのだ。私の唐突な癇癪も、連絡帳を伝って母親に伝わる。そうすると、まだ怒鳴られて、蹴られて、殴られて、倉庫の中に押し込められるのだ。

倉庫の中は怖かった。怖かったけど、稚依ちゃんと話せる時間でもあったから、楽しみでもあった。倉庫の中で笑ったり、はしゃぐ私に、母親は心底怯えたそうだ。「なんて気持ちの悪い子なんだ」それを皮切りに、また追い出されて、倉庫に閉じ込められる。私は稚依ちゃんと話す。その繰り返し。けれど、小学1年の春、3月11日に、全てが変わってしまった。稚依ちゃんはいなくなってしまったのだ。急に倉庫に閉じ込められるのが、追い出されて暗空を見上げるのが、1人で時間を過ごすことが、怖くなった。必死に許しを乞うて、私は母親に泣きついた。ごめんなさい、ごめんなさい。私が悪かったです。だから、許してください。そう言うと、「お前は自分が何に対してどのように悪かったのかを理解していない。そんな子うちにはいらない」と言われて、インターフォンの音は切れる。

少し記憶が薄れているが、でも確かに覚えている、小学生中学年の頃、外に追い出されて裸足で外に立っていたとき。泣いている私を、「どうしたの、家来る?寒いなら抱きしめてあげるよ」と宥めてきた知らないおじさん。私は、恐怖でしかなくなって、必死にドアをバンバン叩いて、親はキレながらだったが家に入れてもらい、事なきを得た。「ごめんなさい。知らない人に声をかけられて、怖くて」と伝えると、「面倒ごとはよしてよ」とだけ言われ、今度は玄関の足場での正座の時間が始まった。正座をするとじーんとする。それを超えると無になる。同じように、足もある程度まで冷たくなると、なんだか暖かいような気がしてくるのだ。家の中に入れてもらえる頃、水で濡らした雑巾を投げつけられるがそれが暖かく感じてしょうがない。とてつもなく、情けなかった。そんな情けない日々を過ごしていた。

 

意味のない日々は、私を殺した。いや、私ではなくて、私の感情を、殺した。ただ殴られ蹴られを繰り返す人生に意味を感じることなんてできなかった。どうしてみんなは幸せそうなのか、わからなかった。なんとなく違和感を覚えつつも、私はみんなの家もこうなのだと思っていたから。だけど、話をすると辻褄が合わないから、私もみんなに話を合わせる。

「うちのママは、平日はお菓子作りをして私の帰りを待ってる。あったかいこたつの中で勉強を教えて貰って、土日はパパと一緒にお出かけする。」

出来上がった虚像は、あまりに虚しかった。

 

本当に仲のいい子には、本当の話をしたりした。「実は、母親から暴力を受けていて、家から追い出されることもある。逃げ場がなくて、裸足で外に立つことが虚しい。」それを聞いた友達は、「寒いときに家から追い出されたら私の家においでよ」「靴貸すから裸足で追い出されたらおいで」と。暖かかった。慈悲の心を感じた。だけど、それもそれで、虚しかった。

当時はまだ児童相談所の認知率が低かった。近所の人も見て見ぬふりで、私も口を閉ざしていたから、支援に繋がる手立てはなかった。保健室の先生とは仲がよかったけれど、普段されていることを話す気には到底なれなかった。

 

どんどんフラッシュバックしていくから、頭が、文章がまとまらない。これでよかったのかと自問自答するのも、少しだけ疲れてしまった。過去を思い出す作業は、私の心を抉る作業でもある。周囲と比べて、落ち込んで、奇怪な方法で虐待を乗り越え、従順に母親に従うさまは、さも愉快で、下劣だっただろう。殺してくれと願った夜は何度あったか。逆に生きたいと、死にたくないと思ったことは何度あっただろう。

記憶を振り返ると、辛い思い出ばかりだったけど、最近はそうでも無い。ありふれた幸せに身を任せながら、なんとか日々を送っている。その他大勢が言っていた「生きてればいいことあるよ」を体現している。私はそんな無責任な言葉をかけたくはないのだけれど、人生に絶望しているときは「もう散々だ、どうしようもない、死ぬしかない、今の自分には死しかないんだ」と思っていたから、そうでもないんだなと感じるのは有難くもある。絶望だらけの人生に、光がさした瞬間。それはやっと大学に入れた頃の話で、私にとってはあまりにも遅かったけど。平和な日々が今あるからこそ、こうして生きていられているんだと思うのだ。

 

「お前なんて、産まなきゃ良かった!」

 

言われたくなかった言葉。1番、苦しかった。つくったのは、産むって決めたのは、どこの誰なの?私、意見しましたか?産んでくださいって言いましたか?お腹の中で動き回るのが同意ならば、お腹の中で自殺でもしてればあなたたちは後悔しなかったのかもね。でも、お腹のなかは快適でした。ぬるいような、熱いような羊水に包まれて、あのままずっと出て来れなかったらよかったのに。産まれたからいけないのかもしれない。

 

1/2成人式で渡した手紙。「いつもめいわくかけてごめん」。第1文がそんななんて、誰が予想したか。しかも私の手に戻ってきているということは、受け取ってさえもらえなかったわけだ。悔しい、というか、虚しい。私の価値を知らされたようで、少し泣きそうになる。

思い出のカケラを集めてみても、どうしても見つからないピースがたくさんある。20になって今更だけどそれを模索し始めて、「誰も怒らない家族でのお出かけ」が決行されたときには、思わず泣いた。泣いて泣いて、「わたし、生きててよかったんだ」と感じた。たった一度、幸せだっただけで。それくらい、渇望していたものだったんだ。

 

カケラを拾い集める。まだ全ては見つからない。空いた穴は塞がらない。それでも探し続ける。見つからないからと言って諦めない。私の人生だから。私が諦めたら、もう全てが終わってしまうから。

 

今日も探す。

 

楽しい日々を過ごしたあのジェラート屋さん、父親が楽しそうな顔をした釣具屋さん、みんなでアイスを買った大きなドンキ。車で行ったあの牧場。

 

忘れない、忘れない、忘れない。