痛みの経験と成長

私は痛いことが本当に嫌いだ。その割には縫合とか内視鏡検査とかの経験があって(縫合は縫われてるときよりも麻酔が1番痛かったんだけど)、なんかなぁって思う。生理痛も今は落ち着いてきているものの中学時代はとにかく酷いものだった。顔真っ白で貧血になって倒れるなんて1度や2度ではなかったし、嘔吐も何度もしたと思う。ただ当時の自分は「痛み」を嫌っていて、どれくらいの「痛み」がどれほどの苦しさなのかをわかっていなかったからみんなそれくらいなんだと、自分が弱いんだと思っていた。

16年間で色々な痛みを経験して、過去を振り返ってみるとあの時我慢してたけど全然あんなの辛くないや って時もあれば、よくあの時表面に出さずに耐えてたな、相当な痛みだったぞ って時もある。たくさんの痛みを経験する中で自分の中での「痛み」の基準が出来てきた。それはいい事なのか悪いことなのかわからないけれど、個人的に数値化されていたり基準がないものには混乱してしまう傾向があるのでいい事なのかなぁと思う。とはいえ何度経験しようと痛いものは怖い。腕を切るようになるまで、自分から痛みを自分に与えようなんて考えたこともなかった。まだピアス穴も開けたことはないし、わざわざ自分を痛みに晒そうとも思わない。

初めて自傷行為をしたのはいつだったか。そのときは、確か血も出ないくらい浅く浅く、ゆっくりと優しくカッターの刃先を腕になぞらせただけだった。それでもそのときはスーッと気持ちが楽になったし、何より痛かった。その痛みが現実に自分を引き戻してくれるような感覚だった。そうして自分を保っていた部分はあるのかもしれない。少しずつ傷が深くなり、血が出るようになる。ぷつぷつと見える少しの血だったものは、だんだん腕から滴り落ちていくほどになっていく。気付くと自傷行為をするときに下に血をうけるティッシュや紙がなければ腕を切れないほどになっていた。

エスカレートしていくうちに、痛みの感覚は鈍くなっていった。皮膚も分厚くなったような気がする、結構勢いをつけてみても以前のようには切れない。そして消えない傷痕も随分と増えた。ふとしたときにその傷痕を見ながら、過去の記憶を思い出す。傷痕は私の中での思い出のような、記録のようなものだったのかもしれない。心の痛みを身体に変換して自分を取り戻していた作業が、いつしか麻痺して見た目で判断するようになってしまった。痛みで自分を取り戻していたときはまだ楽だった。少しの傷でも、痛いと思えば落ち着けたから。だけど今は違う。腕を切りながら「まだ、まだ、まだ、私の痛みはこれだけじゃなかった」と考える。血の流れる量や傷の深さで痛みを可視化しようとするのは終わりが見えない。一通り切ってから「ああ、これほど私は傷付いていたのか 知らなかった」と自分の腕を見て思う。

自分でも分からない心の痛みを見えるものにすることで取り戻そうなんて、健康的な方法とは言えない。それでも私にとって自分を取り戻し、可視化し、苦しみを評価する手段はそれしかなかったのだ。今となれば無心で腕を切っている間、痛いという感覚はない。どちらかと言うと「熱い」かな。腕から流れる生暖かい血液や、腕と剃刀の摩擦(?)に不思議な気持ちになる。自分が何をしているのか、自分でもよくわからず切り続けて始めて「もう辞めなきゃなぁ」くらいの気持ちで手を止める。その気持ちがなければ際限なく切っていることだろう、少し恐ろしいな。

 

腕を切り始めてからだいぶ痛みに鈍くなった。いや、逆に過敏になった部分もあるか。ふとしたときに出来た浅い傷が痛むと、「これよりも深く故意に切っている腕は痛くないなんて」と面白くなる。なんでなんだろう、自分で自分をくすぐってもくすぐったくないみたいなそういう感じ。不思議だけど、ふとしたときに感じる痛みで「ああ生きてるんだな」と思う。腕を切っている間には感じることのない痛みを感じると、まだ自分にはそういう感覚があったんだなと思う。

友達に腕のことがバレてしまわないように、そういう話題になると「痛いの嫌いだからなぁ」と言う。切ってないとは言ってないし痛みが嫌いなのも事実だ、嘘はついていない。そうするとだいたいの友達は「琥珀はほんと痛いの苦手だよね 切り傷とか見ただけで倒れそう」と。自分で与える傷と他者から与えられたりふとしたときに出来る傷はまた違うんだけどなぁと思いつつ、そんなの誰も経験しなくていい事なのでへらへら笑いながら頷く。痛みに耐えられる強さはなかなかに強くなったんじゃないだろうか。

 

最後に痛みで泣いたのはいつだろうと思うと、割と最近だったりする。確か2月頭くらいにやった胃カメラ(内視鏡検査)だったかな。いや、とにかくあれは不意打ちだった。事前に看護師からは「若いので眠った状態でやりましょう、点滴で鎮静剤入れて」と言われていたので私は嬉々としていた。寝て起きたら終わってるのか、と思って軽い足取りでベッドに転がると、医師は「とりあえずなしでやってみよう」と。え?と思ってるうちに喉の麻酔は終わり、入っていくカメラ。気持ちの悪い感覚、痛いというか、とにかく気持ち悪い。自分の体に確実に異物が入っていく感覚は耐えられたもんじゃなかった。それでも泣かずに必死に呼吸をして検査を終えた。直後に(また違う看護師から)「3月31日生まれの高1で胃カメラ!?辛かったね、よく頑張った」と手を握られ肩を優しく撫でられた瞬間に一気に涙が溢れた。

怖かった?痛かった?わからないけれど、とにかく涙は止まらなくて。それはきっと、看護師からの優しい言葉に気持ちが持っていかれたというのもあるだろう。あまりに止まらない涙に、そのまま待合室に行かせるのも気が引けたのか別室でしばらく休ませてくれた。その優しさもまた身に染みた。経験したことのないことはとにかく怖い。それに慣れるのは、あまりいいことじゃない。慣れてしまうことで「こんなものか」と思えるのはいいことかもしれないけれど、腕を切っている自分を見るとそうもいかないのかなぁと思う。

 

あと大抵の痛みには人の優しさが伴う。例えば、自傷行為だってそうだ。私は中学のとき、養護教諭自傷した腕を消毒しながら傷が減ったことを褒めてくれたり、何があったのか聞いてくれ、アドバイスをくれるあの時間が大好きだった。痛みを感じるとき、ほとんどの場合はいいことはないけれどそういう人の優しさに触れるとなんだかあたたかい。痛みを我慢して「頑張った!」と言われる風潮はちょっとよくわからないけれど、それでも褒められることや慰められることは人間にとって落ち着くというか、元気の出ることなんだろうなぁ。

他人の痛みを請け負うことは出来ないけれど、他人の痛みを理解しようとしたり、それを少しでもいやそうとすることはきっと自分にも出来ること。痛みの経験が豊富だとそういう時は有利なのかな。これからまた生きていく中で経験する痛みは増えていくんだろう。それも全てひっくるめて成長と言えるんだろうなと思いつつ、でも痛いのは嫌だなぁとやっぱり思う。