日進月歩で成長を重ねる

私が生きていくためにどれほどの大人が力を尽くしてくれただろうか、そして、何度それに救われただろうか。私と向き合ってくれた大人たちはいつも優しく、強く、頼れる人だった。中学時代の担任や養護教諭、カウンセラーや教科担を初めとする学年団や主治医から始まり、高校へ入ってもからもその支援は続いた。

当時、どれほど頼らせてもらったかわからないほどにお世話になった。そもそも頼り方さえ知らなかった私に何度も何度も根気強く接してくれた先生や主治医には感謝してもしきれない。「助けて」と言うことは悪いことじゃない、頼ることはいいことだと気付かせてくれた、義務教育最後の3年間で、私のインナーチャイルドを育ててくれた人達だ。

 

義務教育は終わり、高校へ入ったとき私は何も期待をしていなかった。もう1人で生きていくんだと、頑張ろうと思っていた。それでも、高校ではまた違った支援者が待ち受けていた。担任、養護教諭、SC、教科担を初めとする学年団、主治医、PSW、支援センターの担当者。驚くことに、支援者は増え続けた。中学から変わらずにカウンセラーや養護教諭とは連絡を取ったり会う機会があり、どんどんとその輪は広がって行ったし互いの連携も強く、何度も救われた。

もちろん高校に入ってからも希死念慮は消えることはなく、何度も死のうとしたけれどそれでも今こうして生きているのは私を支えてくれている人達のおかげだ。そうした人達は、数えてみると20人を超える。たった1人の私のために、それだけの人数の大人たちが行動をしてくれている。母が原因で最初は不信感も強かったが、段々と「頼れる大人」の存在を認められるようになった。むしろ、母からの虐待やいじめの経験には感謝している。これだけたくさんの信用出来る大人たちに出会えたのはそのお陰でもあるから。私の中で浮かぶ思い出にはいつも近くに支援者がいた。

中学、高校と過ごしていく中で変わったことはたくさんある。通院頻度や元主治医や元養護教諭の産休、父親の単身赴任、「欠時数」に苦しめられる毎日。そして、先生たちの異動や毎日会っていた人達との別れ。私にとって、別れは本当に怖いことだった。予測出来ないこと、いつものものがなくなることを異様に恐れている私にとって、別れや「思い出」になることはとにか恐怖でしかなかった。それでも、根気強く私と向き合ってくれた人達のおかげで「いつかまた会える、思い出になっても忘れるわけじゃない」と思えるようになった。

 

私の人生は支援者の元成り立っている。

 

そう言っても過言ではないと思う。そんな他人任せな生き方を、と思われるかもしれないが私が生きている理由はいつも「誰かのため」だった。今まで私を生かそうと必死にここまで頑張ってくれた人達の努力を、私が命を終えることで無駄にしてしまう。それはとても苦しいことだし、私が1番避けたいことだった。もう駄目だ、もうどうしようもないと思っても支援者と話をすると客観的に物事を見ることが出来る。私を導いてくれた恩師は数え切れないほどだし、私を作ってくれたのもそんな人たちだろう。(身体的と言うよりは精神的に)より一層私を強くしてくれた。

 

全てが限界になり、涙を流しながら話をした日。中学、高校、病院でそれぞれ1回ずつある。

中学ではリストカットをしていることがバレてしまい、学年主任に呼ばれ養護教諭とSCと話をしたとき。優しい声でどうして切ったのか聞かれたとき、堰を切ったように涙が溢れた。次の日には信頼している生徒指導の先生とも話をし、結果的に児童相談所へ連絡を入れることになった。先生たちはずっと「琥珀さんは悪くない。ここまで1人で頑張ってきたね 生きていてくれてありがとう」と言ってくれていた。本当に、大好きな先生たちだった。

高校では死ぬことを決意したものの先生たちに見つかり別室で話をしたとき。自暴自棄で、視野狭窄で。どうしようもなくなって、言葉を発しようとした瞬間に涙が溢れた。先生たちが話をしてくれた、きっと他の生徒にはしていないであろう話も、私の涙を持続させるには十分だった。落ち着いてからも、夜まで先生たちは私と一緒にいて、笑わせてくれた。死ぬことを決心した日だったけれど、同時に生きていてよかったと思えた日でもある。

病院では毒親である母親の言動、母親に似た兄の私への暴言、姉の過食嘔吐、弟のADHDのことで頭がいっぱいになって話をしながら全てがこぼれてしまったとき。止まらない涙が落ち着くまで、1時間以上話を聞いてくれた元主治医には頭が上がらない。「抱え込んで辛かったね 教えてくれてありがとう。泣けるときにたくさん泣こう」と、ティッシュを差し出してくれた。流れる涙と一緒に苦しい記憶も浄化されていったような気がした。

 

死にたいと思うほどに私を苦しめたのは身内だったし、私のことをいちばん知らないのは私の家族というのは少し悲しいものがあるけれど、生きていてよかったと私が思える日があったのはそういうことがあったからこそだ。人を傷つけるのは人だし、それを癒すのもまた人なんだろうなと思う。小学校時代のいじめや中学時代の性被害についてこれまで人と深く話をすることは無かったけれど、(そういうもの関連の話をしていなくても)なんだか人と接していく中で昔の傷は少し言えた気もする。話をすることは頭の整理にもなるし、自分を見つめ直す機会にもなる。大人になると言うことは見切りをつけることでもあるのかなあと人と話す中で学んだ。「それでいい」と認められるようになること。それは、今の私にはまだ難しい。そう簡単に出来ることではない。だけど、いつまでも過去に縋り前を向かない訳にはいかない。向き合うことだって、必要になる。

頭の整理がついたところで「きみはいい子」と言う映画を見たり、児童虐待などに関する実用書、性被害の体験記などに目を通したことがある。

フラッシュバックのトリガーとしては十分だったし、パニックになり泣きながら手を止めたりを繰り返した。けれど、幼少期私が鼻血が出るまで殴られていたことも、真冬に髪を掴まれ窓から裸足で薄着のまま外に追い出され放置されたことも、食べられずに吐いてしまった吐瀉物を食べさせられたことも。必死に抵抗しても直前まで行為に追い込まれたことも、震えながら来ていた服や下着を全て捨てたことも、汚くなった身体を泣きながら何度も洗ったことも 全て、「仕方ない」と、「私が悪かった」と割り切っていいことではないということ、それに気付くことが出来た。それはきっと、向き合う機会をくれた支援者たちなしには出来なかったことだろう。

どれほど悔やんでも、過去は変えられない。その現実からずっと目を背けていたけれど、目を背けることで余計に傷を深めてしまうことに繋がっていたのかもしれない。生きていくことはしんどいし、死にたいと思うことがなくなることもない。きっとそれはしばらくは続くことだと思う。でも、それでもいいと少しでも自分を認められるようになってきたのではないんだろうか。自分を認めることは、私が私であるためには必要なことであっていつかは経験しなければ、乗り越えなければいけないことだ。

担任に「いつかはみんな経験することだけれど、琥珀さんは早く大人になるしかなかったから みんなよりもそのしなければいけないことが多くて苦しくなってしまうんだと思う」と言われたときに腑に落ちた。ただついていけていなかっただけで、ただ少しその経験が早かっただけで、私は何も可笑しくなかった。勝手に少数派だと、自分は苦しいと思っていただけだったのかもしれない。そうして自分を悲観してみることでどうにか保っていた部分もあったと思う。

「自分はどうしようもない人間だ」と思えば無駄なことは考えなくて済むし、考えを巡らせる必要もなくなるから。それでもそれは、気持ちを言葉にすることを、苦しむことを後回しにしているだけのただの迂回ルートでしかなかった。ツケは後々の自分にやってくる。それに気付くことが出来たのはかなり最近なんじゃないかなと思う。それもまた成長なんだろうなぁ。

 

たくさんの人と色々話をする中で見えてきた自分の思考パターンも、なかなか面倒な奴だな、と思うような内容ばかりだけれどそれをどう対処していくかと考えていくと結構楽しい。

 

  • 0か100かの思考になりがちで数字や基準に固執
  • 不確かなものを嫌い、目に見えないものは不快
  • 「自分基準」が出来ず人からの言葉で生きている

 

特にこの3つは大きな気付きだと思う。テストの点数や成績は「確かなもの」であるから信用出来る。逆に、「しんどい」は自分基準でしかないし目に見えるものでもないから信用出来ない。目に見えるものにするために腕を切る。切った腕から流れる血を見ることで、「これほど辛かったのか」と可視化し、そのしんどさの程度を評価(?)することで頭を整理している。自分をこうして客観的に見てみると本当になんとも言えない気持ちになるけれど、自分で自分を理解することは生きていく上で大切なことなんだと思う。

 

まだまだ自分の気付くことが出来ていない自分の一面をこれからも支援者の元で獲得していこう。それで、少しでも生きやすく、過ごしやすくなっていけばいいな。