手放すための、過去の記録

いつもとはほんの少し趣旨を変えて、生い立ちってやつです。どこかで整理して、もうすべて、過去を過去のことにしたいと思ったんです。不幸で幸せを覆い隠してしまうことだけはしたくなかった。幸せは幸せで、しっかりと私の中に残しておきたかった。16年間生きてきたなかでの苦しい記憶は、言葉を紡ぎ、引き出しにしまっておくことにしました。

 

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私は関東のある家に生まれました。父は大手企業に務めていましたが、きょうだいの人数が多かったので、とても裕福というわけでもなく、一般家庭だったと思います。私は3番目に生まれ、4歳上の兄と2歳上の姉、そして8歳下の弟がいます。私のいちばん古い記憶は、母親が怒鳴って、人を蹴りつけているのを後ろから見つめているような記憶。蹴りつけられているのは私でした。小学校を卒業するまで、私は母から身体的・心理的虐待を受けており、この頃の記憶はあまりありません。今思うと、上記の記憶も離人感があったんだと思いますし、今は主治医から"解離"と説明を受けた記憶の切り離しによって、なんとか本能的に自分を守っていたんだと思います。

幼稚園の記憶は、この通りほとんどありません。ただ、数個覚えている記憶の中で、一生忘れられない、贖罪すべきことがあります。私は、姉と共に万引きをしたことがあります。姉が何を盗ったのかは覚えていませんが、私はアンパンマンのチョコと、ドラえもんの飴のなかにラムネが入っていて、持ち手がガムになったお菓子を盗んだと思います(これはもう売っていないと聞きましたが)。母親から理不尽に怒鳴られ、殴られた夜、姉のベッド(2段ベッドで、姉は上で私は下)の布団の中に潜り込み、姉と一緒に「こわかったね」と言いながら、それを頬張りました。姉と私は仲がいいほうではなく、その1度きり、それ以外にそれをすることはありませんでしたが、当時の私はきっと、この出来事がなかったとしたら、正気を保てていなかったと思います。罪を合法化するつもりはありませんし、ずっと覚えていますが、思い出すのは自責の念と、同時にあのときのお菓子の甘さの安堵感でした。

このお菓子を食べた日だけは、今までのなかでいちばん、姉と心が通った気がしたのです。

幼稚園の頃のまた大きな記憶は、父と出かけたことです。父は小さいものが好きです。それは子どもであれ、動物であれ、物であれ、です。なので、幼少期は父とよく出かけていました。バイクの後ろに乗せられ、買い物に行ったり父の畑(父は趣味(?)で、他県に畑を借りていました)まで一緒についていくことが好きでした。父の会社のお祭りや、父の会社に行ったこともあります。当時の記憶は薄いですが、何よりも鮮明に覚えていることは何個かあります。どれも、いいものではないのですが。

あるとき、父と母が会話をしていました。「飲み会でスマホ落とした、探してくる」と、父。そして、私を連れて父と会社の近くへ行きました。少し待っててと声をかけられ私は道端で待ち、店へ入っていった父親を見ていました。いわゆる、成人しか入れない性的なお店でした。またあるとき、父親の解約した携帯電話を、玩具代わりに使っていたときです。父親の受信メールには、今では迷惑メールかもわかりませんが、ゴミ箱に捨てられた、送信主の家の鍵の位置を知らせるメールがありました。ムービーには、ネットにあったものか本人が実際に見て撮影をしたものかはわかりませんが、ストリップのようなものの動画がありました。父は性に奔放な人でした。奔放、という言い方は違うのかもしれませんが、それが原因でこの頃、幼稚園くらいの頃から、私は性に関して激しい嫌悪感がありました。父と母の部屋には、他の家族が見えるような場所に当たり前に性的なものが置いてありました(今は流石にないですが)。深夜帯に聞こえてきた母のいつもとは全く違う声に酷く困惑した覚えがあります。中学に入り、性被害にあうと性嫌悪はもっと酷くなるのですが、それは後述します。性的虐待などは受けていませんでしたが、深夜まで眠れない日があると時々、母と父の声がして(いつもは父は会話なんてしないので、もうこの時点で察するのですが)、それからは耳を塞いで静かになるのを待ちます。そんな生活をしていました。ちなみにこれは今もです。父は単身赴任をしていますが、時々週末に帰ってきては、です。母は何かあるたびに「あんた達がいるから離婚できない」「父は体裁上離婚したがらないから離婚しない」と言っていますが、こういう光景を目の当たりにしていると、ああ、そういうことなんだろうなあ、と思います。友達から「4人きょうだいなら夫婦仲いいでしょ」と言われるとだいぶ複雑な気持ちになりますが。夫婦仲は最悪でもそれだけで繋がっている両親を見る自分のなんとも言えない感情は、さすがに誰にもわかっては貰えません。

 

これからは暗い話が続きますが、先に私の楽しい、明るい思い出を2つ話しておきたいと思います。1つ目、私は父が車で連れていってくれるアイスジェラートのお店が大好きでした。そのジェラートが美味しかったのもありますが、何より、そのお店に連れていってくれるときは母も父もとても優しかったんです。機嫌が良かった。そういう専門店のお店のジェラートって、ひとつでも結構値段がするじゃないですか。でも、私にも、兄にも、姉にも、ひとつずつ好きなものを選ばせてくれたんです。私はその時間が大好きだった。母や父に一口ずつあげていましたが、私は父の一口が大きかろうとなにも気にしていませんでした。それどころか、全部食べてくれたっていいのにと、思っていました。あのお店にいるときはみんなが笑顔だった。私の中での、確かに、幻想ではない愛された記憶です。今も、そのお店を探して時々外を歩きます。そこまで遠くなかった気がしますが(車で行っていたので、実際にどうかはわかりませんが)、マップで調べてしまったら、もしなかったときに絶望してしまう気がして、暇なときに地図も見ずにただふらふらと歩いています。いつか、また見つけられたらいいな、と思っています。

2つ目。私は、残念ながら家には恵まれなかったかもしれませんが、たくさんの優しい大人に出会いました。パッと思い浮かべるだけでも、軽く30人は超えると思います。しっかり数えたら40人くらいでしょうか。周りの同級生とも少し波長が合わないときがありましたが、とにかく先生運だけはいいんです。ここで言う先生と言うのは、学校の先生であり、病院の先生であり、カウンセラーの先生であり、その他、私が尊敬している人のことです。私が、どれだけ苦しい思いをしようとここまで生きてこられたのはそれが理由にあります。私は、そんな大人たちのようになりたいと、支援者になりたいと思っています。今は、夢が少し揺れ動いている部分はありますが、子どもの色々な問題に関わる人になりたい、と強く思っています。先生たちがくれた言葉は、暖かさは、全て私を作り上げてきたものです。私がこうして生きていられているのは、苦しみ以上にたくさんの優しさに包まれていたから。「○○ちゃんの応援団はたくさんいるよ」「○○の味方は、ここに数え切れないくらいいるから」と中学でも、高校でも、言われたことがあります。私には学校という居場所が、安心できる場所がありました。そんな先生たちとの話も、少し折り混ぜられたらいいなと思っています。

 

 

小学生時代の虐待。何個か覚えているエピソードは、どれも今でもフラッシュバックし、じわじわと私の心を蝕みます。あるときは、真冬の夜に、薄手のパジャマに裸足のまま、何時間も外に放置されました。鍵を締め切って、母は暖かそうなリビングの窓を開けて、私に「うちの子じゃないんだから敷地内に入るな」と言うので、私は家の通りの道路に、泣きながら体育座りをして、しゃがみこみました。萌え袖をしながら、衣服に口をつけて息を吹きかけると、ただ手に息を吐くよりも暖かくて、それをしてなんとか凌いでいたのを覚えています。けれどそれも繰り返しているとだんだんと衣服が湿ってきて、逆に寒く感じる。あのときの私は痛みよりも、どう寒さを凌ぐかについて考えていました。

そこから家に入れたとしても、次は玄関で何時間も正座をする時間が始まります。足の感覚がとっくになくなった頃、母は濡れ雑巾を私に投げ、「汚い足拭いてさっさと寝れば」と言い、玄関から立ち去ります。それが、私が部屋に入れる合図でした。冷水でしぼった雑巾は冷たいはずなのに、酷く冷えきった足をふくときには、暖かく感じるほど、手足は冷えてしまっていました。それほどの寒さです、耐えきれず外で粗相してしまえば、今度はそれを見て「汚いな、もう帰ってこなくていいから。さっさと消えろ」と、シャッターを閉められてしまいます。1度それを経験し、それだけはしないでいようと必死に耐えていたこともありました。毎日のように暴力を振るわれていたものの、周囲がそれに気付くことはありませんでした。いや、実際気付いていなかったのかはわかりません、けれど、通告されたり、ということはありませんでした。そして、私もこの生活が、殴られ、虐げられる毎日が「普通」だと思っていたので、誰かに助けを求めることもありませんでした。

母はよく私を叩いたり、殴ったりしました。痛くて泣くと、「お前は自分が可哀想だから泣くんだ」とまた強く暴力をふるうので、必死に泣くまいと耐えました。いつか、泣かずに耐えられるようになりました。その後遺症か、今も私は上手く泣くことができません。苦しいとき、涙が出てくることがない。目が潤んだとしても、「お前は自分が可哀想だから泣くんだ」という言葉が、頭の中で反響して、止まってしまうことも多いです。特に人前ではてんでダメです。自傷を繰り返しているうちに泣けなくなる子も多い、なんて話を松本俊彦さんの書籍で見た気がしますが、それもあるのかもしれません。自分のつらい気持ちを言語化してラベルを貼る前にゴミ箱に押し込めてしまうんですよね。けれど、時々その名前の無い感情がゴミ箱から溢れてきて、どっと不安になる。今私が感じている漠然とした不安は、そういう「名前の無い感情」のフラッシュバックなのかもしれないなあ、とも思います。私は言語化が苦手で可視化に逃げてしまうところがあるので(数値や腕を切るという目に見えるものに変換する)、こうして言語化をする力をつけられる場があることに感謝しています。

話を戻します。ある日、母に叩かれた勢いで鼻血が出た時に、母は笑いながら私に「ブッサイク」と言いました。これは今も忘れられません。母は機嫌がいいと、「うちの子は顔には恵まれた」「私と同じで高い鼻に生まれてくれてよかった」と言って、私たちの顔を褒めます。そのたびに、私は複雑な気持ちになります。そう言われるたびに、私は「ブッサイク」と私を笑った母のことを、思い出してしまうからです。どんな気持ちで母がその言葉を発したのか、今も私は考えています。血だらけになった手を見つめながら、泣くことも出来ず、私は呆然としていました。きっと、母にとってそんなに意味があった言葉では無いのでしょう。母は衝動的になると、言葉が止まらなくなり、溢れてきます。それと同時に手が出る。そのときは、思っていること、思っていないことという話ではなく、ただパッパッと色々な言葉が出てくるんだろうなと思います。それは、多分母自身も止められたものではないんだと、私は解釈しています。

「叩く方だって痛いんだよ」と言っていた母親の気持ちが、私は分かりません。なら、なぜ叩くんだと。私はきっとこれからも母親のことを理解することはできません。それほどに私を愛していたのかもしれません。私には伝わらなかったけれど、ずっと愛してくれていたのかもしれません。それでも、歪んだそれを私は受け止めることが出来ませんでした。愛されたいと渇望している今の私も、もしかしたら愛されているのかもしれませんが、それでも「私が感じ、求めている愛情」と「母が与えている愛情」はどうも違うようなのです。そのすれ違いがあっただけで、もしかしたら私は十分に愛されていたのかもしれませんが。

 

叩かれたり、殴られるのは痛いけれど、蹴られるのは比較的楽でした。楽、というか、痛くない、というか。1番楽だったのは回し蹴りです。あれは、蹴られた勢いで倒れて、痛がっていれば何度もしてくることがなかったから、何か母親が怒っているときは、「どうか今日は回し蹴りだけで済みますように」と思っていました。殴られて鼻血が出るのは不可抗力ですが、それで床を汚せば余計に怒られてしまうので、顔を狙った叩くとか殴るとかは嫌だなあ、なんて思っていました。正直、言葉の暴力なんてもうどうでもよくなっていました。もはやそれが日常だったので、暴力を暴力と感じられなくなっていました。殴られる方が痛いから、心の痛みになんて気付けません。暴力は私を、恐怖で支配しました。痛みに鈍感になり、痛いというか「ぬるい」んです。叩かれた頬はジンジンと熱を帯びますよね、その感覚。じわ〜っとしたその頬に、家から追い出され、冷えきった手を当てると気持ちがいい。その「ぬるい」ところに触れながら、目を瞑って、ぼーっと過ごしていれば、いつかは家に入れてもらえます。私は、静かにその時を待っていました。

 

あるときは、アサリの味噌汁を食べ切ることが出来ず、リビングの隣の部屋に連れていかれ、正座でアサリの味噌汁と向き合いました。次、母親が来るまでに飲み終えなければ殴られる。そう思って、必死になって飲み、吐いてしまいました。今もですが、私はアサリだけは食べることが出来ないのです。アレルギー検査をしたら、もしかしたらアレルギーかもしれません。それくらい、アサリだけは食べることが出来なかった。母は、私が器に吐いた吐瀉物を見て、「飲め」と言いました。私は、とにかく怖くて仕方がなくて、吐いた吐瀉物を必死になって飲みきり、母親に何度も謝り、部屋に戻りました。汚い器を私に触らせる気か、と母は激昴し何度も私を叩き罵ったあとに1階のリビングの窓から、私の髪を思い切り掴み私を引き摺り、投げ捨てました。真っ暗闇に放り出された私は、恐怖と痛み、そして吐瀉物を食べた気持ち悪さでぼろぼろと泣きました。また、それを見て母は「お前は自分が可哀想だから、自分が可愛いから泣くんだ」と鼻で笑いカーテンを締めました。結局1時間ほどで部屋に戻ることが出来、そして母が寝たのを確認したあと、全てを吐き戻してしまいました。どんなに気持ち悪くても、母が起きている間はもう吐けなかった。母親が寝たのを確認してからやっと吐けたんです。そんな、調節できるような話じゃなく、とにかくずっと気持ち悪かったのに。生理的な気持ち悪さよりも、恐怖が打ち勝ったんだろうな、と思います。まだ小学生の頃の話です。そんなふうに、小学生の頃は毎日を過ごしていました。週に2,3度は叩かれない日があったかもしれませんが、そういう日は兄や姉が暴力を振るわれていましたし、家で過ごしている中で、暴言が聞こえない日はなかったと思います。

この時の私には夢がありました、それは、中学生になることでした。兄も姉も、中学に入ったらほとんど暴力をふるわれることがなくなっていたんです。それを見ていたので、私は早く中学生になりたかった。中学生は、とても大人に見えました。大人になるから、殴られなくなるんだと、当時私は思っていました。

この時期くらいから、兄が荒れていきました。荒れていた兄は、私が小学生の頃はほとんど私に物理的には当たってきませんでしたが(母親にだけでした)、後に私に対しても手が出るようになりました。それと、私が小学校中学年になる頃には弟が産まれました。これもまた後にわかることですが、弟はADHDです。それは抜きにしても、私は弟だけは普通に育って、育てられて欲しいと思いました。このとき私は虐待をされている自覚はなかったし、どの家もこうだと思っていたので声を上げることはありませんでした。それでも、なぜか、「普通に育って、育てられて欲しい」と思ったのです。私にとっての「普通」は、殴られ、酷い言葉をかけられる毎日だったはずなのに。

私は弟を母親から守ろうと、必死になっていました。ある意味、当時の生きがいは弟だったかもしれません。弟を母が叩き、弟が泣き叫んでいるところを兄が見たとき、「流石にもうやばいよな。通報しちゃダメかな」と言っていたのを思い出します。しかし、私はそのとき、まだ母親のことが大好きだったので必死に止めました。あれを止めずにいたらどうなっていたんでしょうか。何が正解だったんでしょうか、私には分かりません。少なくとも中学半ばまで、私は母のことが大好きで、いや、今も好きかもしれませんが。盲目的に、愛していました。洗脳に近いような状態だったのかもしれないな、と今は思います。手を出されようと、大好きでした。母の「叩く方も痛い」という言葉を本当に信じきっていたんでしょうね。

余談ですが、母は私たちを虐待しているつもりはありません。兄が1度、「俺達のこと殴って育てたくせに」と言ったとき、母は「そんなことはしていない」と主張しました。けれど、虐待死のニュースを見るたびに「うちもやばいんじゃない」と笑います。またあるときは、目に涙を浮かべながら「虐待して殺しちゃうくらいなら、産まなきゃいいのに。可哀想に」と。嘘のような話ですが、母は二極思考というか、「今まで言ってたことはなんだったの…?」というレベルで話がポンポン変わります。しかしそれも、全て母の考えであって、正しい、正直な言葉なんだと思います。それを理解してはいますが、私は時々苦しくなります。兄も、姉も、私も、確かに覚えている苦しみを、母は何も覚えていない。虐待をしていないと思うのに、虐待死のニュースを見る度発せられる色々な意見。ダブルバインドに挟み撃ちにされて、とても息苦しいときがあります。ふとしたときに見せる優しさも、私の心を殺すには十分でした。母に優しくされるたび、「私は母に愛されている、母が大好きだ」と思う自分と、「私のことを愛しているならどうしてあんなに酷いことをしてきたんだ、母が憎い」と思う自分の二極思考にも苛まれるのです。何度も何度も揺れ動きましたが、結局のところ私は母を手放すことなど、出来ないのかもしれません。

からしたら常に愛情を出しているのかもしれませんが、酷く極端な飴と鞭に、私はどれが正解なのか、未だに困惑してしまうことがあります。

きっと、今の母だけを見ている人達からしたら、「そこまで嫌悪する程じゃないんじゃない?」と思うかもしれませんが、今のただ怒鳴られるだけ(これも一応心理的な虐待には当たるのですが)ではなく、過去にされてきたことが根本にあるので、どうしても拭えない嫌悪感があるのです。

 

話は変わりますが、小学生高学年の頃、私はいじめに遭っていました。教室移動をしているときに階段から落とされたり、「死ね」と書かれた紙が机の中に入っていたり、上履きがなくなったり(探したけれど、結局見つかることはありませんでした)、見知らぬうちにクラスの男子の持ち物が私のバッグに入れられていて、「泥棒だ!」と騒ぎ立てられたり。また、悪口はいつものことでした。それでも、私にとって学校はまだ楽な場所だったんです。直接的な暴力は、怒声は、なかったから。どんなに悪口を言われようと、小学生の悪口なんて易しいものじゃないですか。「うざーい」とか「気持ち悪い」とか「汚い」とか「臭い」とか。そんなの全然耐えられたから、学校を休んだりはしませんでした。家のほうが辛いから、休む理由なんてなかった。そもそも休みたいと言っても休ませてなんてくれなかったと思いますが。

それでも、母からされてきたこと、同級生からされてきたことを責めることは私にはできません。私も、きっと同じような人間だからです。いつだったかは覚えていませんが、小学校で母を待っていたとき(きっと母は学校に用事があったんだと思います)、砂場で大きなお城を作りました。ほぼ完成といったところで、私よりも小さな男の子が「僕もやりたい」といい、残り1割ほどを手伝ってもらい、一緒に完成させました。母が用事を終え、私の元に来たとき、私は「私ひとりでこんなにやったんだよ」と母に褒めてもらおうとしました。母はその小さな男の子を見て、「どうせお前は何もしていないくせに、そうやって人の頑張りを奪うのか。薄情な人間だな。」と、私に言いました。私はそういう、ずる賢い人間なんだと、それは最低で最悪なことだと、そのとき思ったのです。

 

これは私が人を心から信じ、信用することが出来ない根っこだと思っていますが、母から怒鳴られ、殴られ、もし家から追い出されたりしたとしても、兄や姉や父は助けてくれませんでした。それと同じように、兄や姉が追い出されていようと(兄は割と反抗出来ていたので、追い出されていることは少なかったと記憶していますが)、無視をしていました。みんな、自分に被害が行くのが怖かったからです。守ったら、助けたら、自分が標的になるのです。それが怖くて、無視をしました。家のドアの前で、泣いている私を見て、姉は鍵を開け家に入り、また鍵を閉めました。私も、姉がそうなっていても同じようなことをしました。そしてどこかで、姉はあることに気が付いたんだと思います。「先に、悪いやつがいれば私は怒られない」と。そうして、ふとしたことも姉の目に止まれば母親に報告されるようになりました。だから私は、姉と仲が悪かったんです。互いに疑心暗鬼でした。仲良くなったら、私にとっても姉にとっても弊害しかなかったんです。今思えば、とてもとても悲しいことだな、と思います。父は仕事人間で、幼少期こそ出かけたりしていましたが、仕事を終え家に帰ってきたとき、家から追い出され泣いている私がいると、溜息をつきながら兄や姉と同じように鍵を開け、家に入り、また鍵を閉めました。

私はしませんでしたが、姉は時々家出をしました。真冬、塾の帰りに姉が「家出するって言っといて」と言い、立ち去りました。雪が降りそうなくらい、寒い夜のことでした。ヒヤッとして、私はすぐに家に入り、母にその事を話しました。母はこたつに入り、テレビを見ていました。その姿勢を1ミリも変えることなく、「あぁそう。寒いから勝手に帰ってくるでしょ」と。私は、きっと探しに行くと、思っていたんです。姉もそう思っていたと思います。血相を変えて、姉を探して、自分が悪かったと言うと。流石に、こんな母親だろうと、そうするだろうと。そんな期待は打ち砕かれました。その1時間後、姉は帰ってきました。真っ赤な手をさすりながら、涙を貯めて。その涙が、家出を遂行できなかったからなのか、それとも母が探してくれなかったからなのかはわかりませんが、ともかくこの出来事で私は、母のことがよくわからなくなってしまいました。また、別日ですが姉が悪い事をしたとはいえ、伸ばしていた髪を掴み、そのままお風呂場に連れ込んで乱雑にその髪を切った母を見たときの私は、もうなんと言えばいいのかわからないですが、とても苦しい気持ちでいっぱいになりました。姉の「ごめんなさい」と泣き叫ぶ声を、今も思い出します。しばらくは、姉は下を向いて、常にフードを被って過ごしていました。

もっと、色々なことがあったけれど、書ききれないので割愛します。

こんな毎日でしたが、時々行く保健室が私の支えでした。小学校の養護教諭は少し前に異動してしまったものの、その直前まで私が描いたイラストを保健室に飾ってくれていました。虐待やいじめの話はしていませんでしたが、時々仮病を使って保健室に行き(先生もそれをわかっていたんだと思います)、先生の近くに座って、一緒に絵を描くのが大好きでした。少しの居場所をそこに見出しながら過ごしていた小学校生活6年間は、長かったような、あっという間だったような。それでも、これから始まる中学校生活3年間のほうが、もっともっと濃く、苦しい毎日でした。小学校の頃の方が辛かったかもしれませんが、私は中学で「知ってしまった」んです。色々なことを。だからこそ、それと向き合う労力や、苦しみがありました。経験したことは小学校の頃のほうが辛かったかもしれませんが、その「知る苦しみ」がなかったことを考えると、やはりこれから話す中学校時代が1番辛かったのかもしれないな、と思います。

 

 

少しの希死念慮を抱きながら、私は中学校へ入学しました。それと同時に、思っていた通り母からの暴力はなくなりました(もちろん暴言は変わりませんでしたし、突発的に殴られることはしばらくありましたが)。

中学校に入学してからの、3ヶ月ほどは本当に楽しい毎日でした。毎日が、新しいことの連続。いじめなんてない環境、優しい先生たち、ずっと憧れだった制服を来て、私は服装や生活を正す生活向上委員会に所属しました。順風満帆でした。そして、女子ソフトテニス部に入部し、部活に打ち込みました。初めての部活は新鮮でした。兄や姉はバスケをしていましたが、正直兄への反抗心もあったのかもしれません、私はバスケを選ばず自分でソフトテニスをしようと決めたんです。初めてした、自分での選択。この選択を、死ぬほど後悔する日が近しいなんて、そのときは知りませんでした。

率直に言うと、部活内でいじめを受けました。色々なことをされたけれど、一番堪えたのは大会の時間を違う時間に伝えられたこと。その日の私は委員会で、部活のミーティングに出ることが出来ず、予定を他の子に聞く他なくて、当時AとBと仲良くしてた私は近くにいたAに時間と(AとBと私での)集合場所を聞きました。当日、Aから教えてもらった集合場所には誰もいませんでした。そのときは頭が真っ白になり、近くにあった交番に泣きながら立ち寄りました。というのも、その日の大会はとてもとても大切な大会だったんです。選手登録をしてもらい、公式のカードが貰える日。パニックになりながらでしたが、途中の道で他の部員に会うことが出来、車に一緒に乗せてもらい大会会場へ向かいました。このAが中心となって、悪口や色々なことをされました。ほとんどはAだけでしたが。Aはこのとき、「○○が聞き間違えたんじゃないの〜自業自得じゃん」と笑っていましたが。

いじめられた理由は、本当にくだらない理由です。私が仲のいい女の子と、Aが仲良くしたい女の子が同じBだった、それだけです。皮肉にもAは、私が小学生の頃いじめられていても仲良くしてくれていた友人の1人でした。私をいじめから(意識を逸らすという意味で)救ってくれた友人は、いつか私をいじめる側に回っていたのです。毎日毎日、傷付くたびに、頭痛が酷くなりました。ODなんて言葉を知らないこの頃から、頭痛薬、鎮痛剤を2錠、3錠、4錠と飲み、自分の気持ちを誤魔化しながら部活動に行きました。幼い頃から通っていた小児科の先生に「薬が減るペースが早いから、もう少し減らしていこう」と言われ、かかりつけの薬局の薬剤師さんからも、「最近大丈夫?」と聞かれる始末でした。

そのうち、Aを見るだけで酷い頭痛に襲われ、時には吐いてしまうようになりました。それと同時期に、現実逃避(後々、児童精神科へ行ったときに医者からこの言葉を言われ、なるほどなと思ったのですが)のように、過眠になり朝練へ行けなくなりました。毎日13時間以上眠り、やっとのことで学校へ通いを繰り返しました。マシになっていた母親からの暴言はこの頃また酷くなり、それに便乗して兄や姉からもたくさんの暴言を吐かれました。

兄は言いました。「お前が妹で恥ずかしい、バスケ選ばなかった上に朝練サボって仮病、ふざけんな」。兄はずっと、私もバスケをすると信じていたんです。それを裏切った挙句、部活にさえ行けなくなった私を見て何度も罵声をあびせました。「頭痛なんかで部活サボってんじゃねぇよ」と、毎日のように言われました。姉も言いました。「テニス部は朝練サボっても怒られないの羨まし〜私も仮病使いたい〜」。母は毎日、毎朝のように、部屋に入ってきては「ユニフォーム代、道具代、いくらかかったかわかってんの?仮病でサボって、甘えてんなよ。休ませないから、起きろ。行け。」。毎日言われ続けたので、言われたこと全ては覚えていませんが、とにかく辛い日々でした。

そんな私は、行けなくなった朝練にも、行く他ありません。追い詰められ、25分で登校出来るはずの道のりでさえ、歩くのに40分かかるようになり、朝練よりももっと早い時間から家を出るようになりました。朝起きるのが辛いので、3分ごとにアラームをかけて、5時半に起きます。もう、朝練に行かないという選択肢はなくなってしまっていました。いや、少し違いますね。"朝練の時間に、家にいる"という選択肢は、消えました。重い体を引き摺り、「あぁ、この薬ミントの匂いがしてあんまり好きじゃないんだよなぁ」なんて思いながら、カロナールを何錠も飲み学校へ行きました。それでも、彼女に会ってしまえば私は吐いてしまいます。私は朝練の時間に学校へ行き、部活へ行かずに教室に篭もることにしました。苦渋の決断でした。しかし、私の教室へ行くにはまずテニスコートに挟まれた渡り廊下を渡る必要がありました。下を向き、早歩きで、必死に涙を堪えながら渡り廊下を渡ります。そして、私の教室の壁の隣はテニスコートだったので、しゃがみながらカーテンを締め(そうしないとテニスコートから私が見えてしまうのです)、電気は付けず、教室の後ろのストーブの横で、小さく体育座りでうずくまって、テニスラケットを抱きしめながら時間が過ぎるのを待ちました。窓1個隔ててすぐ隣のテニスコートからは、悪口が聞こえます。もう正直、それがわざと私に聞こえるように大きな声で言っていた悪口なのか、それとも幻聴だったのか、私にはわかりませんが、耳を塞いで、時には泣きながら必死にその時間を過ごしました。

家にも学校にも私の居場所はなく、この頃、極限まで追い詰められた末に自傷行為を覚えました。今じゃ笑えてしまうくらい浅い傷でしたが、その腕の傷がなければ、私は生きていられなかっただろうなと思うのです。その傷を知った担任が(元々話をしていたこと、担任がテニス部顧問だったこともあり)、部活に無理に来なくていいということと、SCに通って欲しい、と私に言いました。そして、週に1度、SCに通うようになり、そこから病院を薦められ病院へ通うようになりました。病院でドクターストップのような形で、部活を辞めることが出来ました。そのために、何度か市の青少年相談センターへ足を運び、その日程はいつも行事ごとと被り、全校集会や球技大会にはほとんど参加出来ませんでした。私は、ただ、普通に中学校生活が送りたかっただけなのに。どこから間違えたんだろうな、と笑ってしまったのを覚えています。みんなと一緒に、行事を楽しみたかった。

 

病院に通い始め、学校に診断書を提出したとしても(適応障害により抑うつや倦怠感や過眠、頭痛症状があり定期的な通院が必要である、というようなものでした)、否が応でも、同じ学校、同じ学年なのでその子とは会わなければいけません。そのたびに薬の飲む量は増えていきました。保健室に行くほど頭痛が酷いときはもう既に薬を飲んでいて、「そんなにずっと飲んでると、効かなくなっちゃうよ」と養護教諭から言われたのを覚えています(もっとも、このときはもういくら薬を飲んでも効いてなかったと思いますが)。

通い始めた病院で処方された漢方を飲めない日があると、母は酷く私を怒鳴りつけました。「これを飲まないからお前は治らない」と。母からしたら、ずっと通い続けるには児童精神科は金銭的負担が大きすぎたんです。だからこそ、漢方を魔法の薬とでも思っていたんでしょうか、そうやって責め立てられる日々が続き、大嫌いでまずい漢方を飲んでは、1人で部屋で泣く毎日でした。こんな薬だけで変わったら、今まで何を苦しんでいたんだよ。そう思いましたが、母からの「金食い虫」という言葉が何度も頭で流れるので、嫌ながらも毎日漢方を飲み続けました。

また、部活を辞めてから家に早く帰るようになりましたが、その時期は兄がかなり荒れていました(兄は高校3年でした)。罵詈雑言の毎日です。兄も辛かったんだろうな、と今は思います。遠い学校へ通い、塾にも通い、ストレスの溜まる環境下だったろうと。それでも、家にいた私は耐えられませんでした。毎日聞こえる怒声、飛んでくる拳、会話どころかあっちからぶつかってきただけで「死ねよ、ぶっ殺すぞ」と言われ続ける。母と喧嘩し、土下座を強要してそれに応じない母の頭にお酢をかける。そんな修羅場を毎日のように過ごしました。遠い学校だったので、朝は早くに出るので会わずに済みます。だから、問題は夜だ、と言いたいところですが、朝も兄のことを思い出すと兄が準備をしているガサゴソという音で目が覚めてしまうのです。2時間以上かけて通学していた兄は、5時には家を出ていました。その家から出る音が玄関から聞こえて、やっと私はまた安心して眠りにつける。そんな毎日でした。中2に入ったこのあたりから、過眠は不眠に変わっていきました。

体調不良で早退をすることになったとき、連絡のいった母は私を車で迎えに来ました。怒鳴られる、直感的にそう思いました。保健室につき、母は私を怒鳴り、それを見ていた養護教諭は驚いていました。帰りの車の中、熱が38℃を超えていた私に母は、「仮病使って私を呼ぶな。うちの車はあんた専用のタクシーじゃない。やっと仕事終わって、なのに一息もつけてない。昼もまだ食べてないのよ、ああもう。明日は休ませないから。」と私をミラー越しに睨みながら言いました。母の目が私から逸れた瞬間、声に出さずにぽろぽろ涙を零しました。私は母のお昼よりも大切じゃない存在なんだなと思い、口を噤みました。後日、養護教諭から謝られましたが、むしろこっちが申し訳なく感じました。

それから、熱があっても、家に帰るほうが辛いからと早退することは減っていきました。それに比例するように、毎日のように熱が出るようになりました。心因性発熱のようなものだったと思います、36.8℃~38.8℃程度の熱が、数ヶ月、半年以上、ずっと続きました。母親の様子を養護教諭に話すようになり、あるタイミングで当時の生徒指導である理科担当の先生とも話をするようになりました。3人で、保健室で話をするなかで「あなたが受けているそれは、虐待だよ。」と、とても真っ直ぐ私を見て、先生が言いました。私には居場所はここしかなかったので、このときは毎日のように保健室に通い、理科担当の先生も「来ると思ってたんだ」と事前に保健室に居てくれたり、昼や放課後に話を聞いてくれたりしていました。保健室に人がいるときは、理科室をあけてくれて話をしました。先生たちと相談して、児童相談所へ通告がいったころ、主治医にもその話をしたことで、通院頻度は増えていきました。

 

当たり前ですが、眠れていないので集中出来ません。この頃は、過眠から不眠へと変わっていましたし、勉強なんて何も出来ていなかったので、理科のテストで18点を取りました。先生は、「家にいても辛いでしょ」と、土曜日に補習を開いてくれました。先生にできる恩返しはなにか考え、私は必死に勉強をするようになりました。次のテストでは、64点を取りました。平均点が60点ほどのテストです。そこまでいい点数じゃないかもしれないけれど、私からしたら本当に血の滲むような努力をした結果でした。そのテストを持ち、私は母に笑顔で報告をしました。けれど、母の機嫌は悪く褒めてもらえることはなかったし、それどころか理不尽な理由で酷く怒鳴られました。そのとき、頭が真っ白になって、腕を切った後に、薬を飲みました。初めて、血が止まらなくて焦るくらいに腕を切りました。咄嗟に飲んだ薬は皮肉にも自分が飲んで何とか学校に通っていた、ある意味自己治療的な立ち位置にいた鎮痛剤でした。初めは5錠。でも、次の日になっても落ち着きません。朝起きて、学校についてから、テニス部の練習を見ていて、ああもういいやと自暴自棄になって、65錠を、無心に、何度かに分けて飲み込みました。死生観が未熟だった当時の私はきっとそれで死ねるだろう、まだしも楽になれるだろう、と思い、疑いませんでした。

その日は確か集会か朝会があったんだと思います。途中で気持ち悪くてトイレに駆け込み、学年主任に背中をさすられながら何度も嘔吐し、先生たちに担がれて保健室へ連れていかれました。意地でも、薬を飲んだことは言いませんでしたが、10分に1度は吐いていたと思います。理科担当の先生は、授業が終わるたびに私の様子を見るため保健室へ来てくれました。「吐くのは体力使うししんどいよねぇ」と、ガン治療を受けていた事のある先生のその言葉の説得力は強く、とにかく申し訳なくて仕方ありませんでした。ODの話はせず、昨日の母の話をしました。先生は、「頑張ったよ、お母さんが褒めてくれないなら、先生たちがたくさん褒めてあげるから。」と、養護教諭を呼び、一緒になって褒めてくれました。先生は、窓辺においてあった妖怪ウォッチのキャラクターのぬいぐるみの手を握りながら、私の頭をポンポンとぬいぐるみで撫でてくれました。思わず泣いてしまいました。

そこから、母や兄から何かを言われるたびに、血が流れるほど腕を切るようになりました。そうすれば楽になると、自分でも覚えてしまったんだと思います。アディクションとなった自傷のせいか、酷い言葉を言われると、どんなに慣れたつもりでも、ぼーっとしてきて、それを誤魔化すために腕を切る。そのまま、流れる血をぼーっと見ていると、だんだんと感覚が戻ってくるような気がしました。それがルーティンのようになり、解離しながら自傷する、なんてことも増えていきました。鎮痛剤を少し多めに飲むことでしていた自己治療が、今度はリストカットに本腰が入り、だんだんと消えない傷が増えていきました。母は激怒します。どんなに傷を隠していようと、お風呂に入っているときにドアを開けられてしまったら、手を洗うため一瞬少しだけ腕まくりをしたのを見られてしまったら、私もどうしようもありません。それを見たとき、母は爆発したように、「ママへの当て付けか、私はこんなにあんたに尽くしてやってるのに、あんたにこんな酷い仕打ちされなきゃいけないほどのことをした?してないでしょ?なんでそんなことするの?嫌がらせ?」「本当に気持ち悪い、汚い」と言いました。あるときは「あんたは腕切ってりゃ楽だからいいわよね、こっちが切りたいわよ」と。腕を切ることが気持ち悪いなんてわかってるよ。でも、それをしていないと生きられないほどこの家は私にとって苦しいんだよ。そんなこと、言えませんでした。母は学校へ電話を入れ、先生たちは、その母親からの連絡を聞いて「お母さんはあなたを愛していないわけじゃないんだね」と安堵したような顔で、私に言いました。そうだけど、そうじゃないんです。あなたが見えている母と、私が見ている母は違う。もちろんそれも言うことなんて出来ません。作った笑顔で頷いて、そこからしばらくは先生に話をしに行くことを辞めました。期待をするのは無駄だと思ったからです。

話をしに行くことは辞めましたが(中3に入り時々は話にしに行くようになります)、それでも私がその少し前の時期まで先生たちの言葉に助けられていたことは事実です。生徒指導の先生は、理科担当の先生だったので、生物の授業のときには色々な話をしてくれました。その中でも、1番記憶に残っているのは保健室に私を迎えに来たときに先生が言った、「今日は血液の話が授業に出てくるんだけど…腕を切ったら血が出るじゃない?でも、いつか傷口は塞がって、血は止まるでしょ。血が止まるって言うのは、○○さんの体のなかの細胞が、それを修復していこうとしてるってこと。○○さんの体は○○さんに生きていて欲しいと思ってるんだよ」という言葉でした。解離の話もそうですが、私は死にたいと意識的に思いながらも、無意識下では必死に生きようとしているのかもしれないと気付かされた瞬間でもあります。

 

中3になっても特に何も変わりません。限界ながらも学校を休むことは許されないので、私は無理やり予定を入れて学校に行く理由を作ることにしました。委員会、係4つ、班長パートリーダー。他にも色々と、とにかく毎日駆け回っていました。忙しければ、何も考えなくて済む。ただそれだけの考えでしたが、周りからは「頼れる」と言われ、驚いたのを覚えています。そして、「頼れる人間(価値のある人間)」であることに価値を感じてしまい、のめり込むようになりました。2週間に1度、早退して病院へ向かうので、学校に居る時間はきっと普通に学校に通っている人よりも少なかった。けれど、引けを取らないよに、必死になって毎日動いていました。

担任は2年のまま変わらず、そして私の隣の席には1年間同じ男子が座っていました。彼は私の弟と似たような男の子でした。衝動性が高く、クールダウンに時間がかかるので、暴れたり汚い言葉を使い、逃げ出し、周りは嫌がっていました。それでも私は弟を見ていたので、声をかけたり居なかった間のノートを見せたりして接していて、彼は私を気に入ってくれたようでした。「○○の隣なら頑張れる」と言ってくれたとき、本当に私は嬉しかった。児童福祉の職に就きたいという思いが、より一層強くなった時期でもあります。職場体験での保育園実習や、ボランティア活動(児童福祉施設に関わる街頭募金活動をしていました)よりも、何よりも。近くで成長した彼を見て、私は心動かされたのです。卒業間際は、きっと私の方が支えられていただろうなと思います。私が食べられない給食を食べてくれたり、荷物を保健室に持ってきてくれたり、寒いからとジャージをひざ掛けとして貸してくれたり。

中3という、全ての行事に「最後の」という言葉のつく1年間を、私は満足には過ごせませんでした。壊れた車にエンジンを入れ、無理やり走らせているようなものでしたし、当たり前だよなと今は思いますが、どの行事のときも、私は体調不良でした。ときには児童精神科の通院日が被ってしまい、行事自体に参加できなかったこともありました。でも、だからこその思い出もあります。体調不良で迎えた体育祭で、クラスメイトの15人近くが貸してくれたジャージ。体育部門はほとんど種目に参加が出来なかったけれど、それでも総合優勝が嬉しかった。担任とした、日記での会話。保健室での先生たちとの会話、自傷の手当をしてくれた、養護教諭との2人きりの大切な時間。文化部門(合唱祭)では、体調不良の私を元気づけるために髪の毛を可愛くアレンジしてくれた友達、そして、優秀賞。修学旅行で、帰り道の電車、先生たちに支えられながら帰ったこと。中学3年生の記憶は、苦しいこともあったけれど出来るだけ楽しいことの記録をしておきたいと思います。本当に毎日が、学校が、楽しかった。

養護教諭に申し訳なく、しばらく行ってなかった保健室に、担任に連れていかれたこともあります。担任は、「迷惑だからって言うけど、迷惑かけていいんだよ。そういう仕事したくてしてんだから。」と言いました。迷惑じゃないよと言われるよりも、よっぽど説得力のあるその言葉にハッとしました。そんな素敵な大人に支えられながらも、限界を迎えたのか、あるとき私は食事をすることが出来なくなりました。出来なくなったというか、空腹が消えたんです。食べなくてもいいか、と。2週間で6kg痩せたとき、先生たちは私を見ながら「痩せたよ」と口を揃えて言いました。1ヶ月経ち、また数kg痩せたとき、担任はウィダーインゼリーを私に与えるようになりました。

「俺ん家、ゼリー屋さんなんだよね」と言って差し出した袋は確かにコンビニの袋なのに、その優しさが、わかりやすい嘘が嬉しくて、お昼にはそれを飲むようになりました。1日ウィダーインゼリー1本の生活はいつか限界が来て、数回学校外でですが、倒れたことがあります。そんな次の日は、ウィダーインゼリーがパンになっていたりしました。

余裕がない毎日で、怒鳴られている弟を助ける余力もなく、私は「普通に育って、育てられて欲しい」という弟への願いを叶える力もなくなっていました。ですが、あまりに酷く怒鳴る母の話を聞くと、今までの環境上、児童福祉(や、子ども関連の勉強)などについて勉強をしていた私はどうも引っ掛かりを覚えたんだと思います。母にそれを言うのは気が引けたというか、怖かったけれど、思い切って伝えた「発達障害かもしれない」という私の言葉に、想像通り母は酷く怒ります。私が通っている病院のソーシャルワーカー(PSW)となんとか繋ぎ、同時に弟の通う公文の先生からも発達障害についての指摘をされたこともあり、弟も病院を受診することになり、ADHD/LDと診断されました。薬も服薬しています。が、ふとしたときに母は「あんたがあのときああ言わなければ弟は毎日薬飲むような子じゃなくて済んだ」と言いました。それが当時の私にはどうしようもなく辛かった、私のせいで弟の人生を歪ませてしまったかもしれない、と本当に思ってしまったのです。今思えば、早期発見ができたことはまだしもよかったのではないかと感じますが。

拒食、学校、弟、母、卒業、が重なっていた12月。私は性被害に遭い、自分の価値をいよいよ見い出せなくなっていきました。何度洗っても綺麗にならない体を赤くなるまでこすり、フラッシュバックに耐えかねては腕を切りました。「綺麗だね」という言葉が頭から離れず、「綺麗じゃなくなればいいんだ」とまた腕を切りました。腕の傷が、私を守ってくれるように思えたのです。

この出来事があってから、私は異性から金銭的援助を受けることが数回ありました。性的な関係になったことはありませんが、相手はそのつもりだったと思います。その人たちから言われる「可愛い」「綺麗」はただの犯罪者の言葉でしかないのに、「私はされたんじゃなくて、自分からしたんだ」と性被害に自分の気持ちを上書き保存しているような感覚です。何より、無条件に(いや、無条件ではないですね、きっと最終的に行き着く先はみんな同じだったんでしょうけれど)、私を見てくれたことが嬉しかった。目に見えない何かよりも、20万という与えられたお金が私に私が居る意味をくれたような気がしました。

性被害にあって3ヶ月も経たない頃、卒業前の授業がほぼない毎日で、性教育の講演会がありました。当時の私は喘息が酷く、毎日のように上手く息が吸えずにヒューヒューと発作を起こしていましたが、この日は特に酷かったと思います。そんな話、聞きたくない。性教育なんていらない。辞めてくれ。そう思って、体が拒否反応を起こしていたのかもしれません。担任は事情は知らなかったものの、何かを察したのかその講演会の時間、担任とふたりで別室に移動することになりました。保健室は養護教諭が不在だったので、職員室の近くの移動教室の部屋で一緒に過ごしました。次の日が公立の合格発表だったこともあり、担任と明日のために机を運んだり、ホワイトボードに説明を書いたりしました。少し担任と話したりもして、そこで残りのゼリーの個数を聞かれたのでもうないと答えると、「ちょっとまってて」と部屋から出ていく先生。数分後に、若干息を切らせてコンビニ袋を片手にまた部屋に戻ってきたときに、あ、今買ってきてくれたのか、と驚きました。ゼリー以外食べていないと聞いた担任は、「お前、牛丼買ってくるぞオイ」と笑っていました。

卒業が近付くと、母への感謝の手紙というものを書かなければいけませんでした。私は全く書き進むことがなく、担任や隣の席の男子と一緒にそれらしい文章を書きました。ああ、1/2成人式でも同じようなことをしたなあと思いながら書いた一文を、今も覚えています。私は、「ここまで育ててくれてありがとう、たくさん愛情をかけてくれてありがとう」と書きましたが、そんなもの、思ってもいなかった。周りのクラスメイトが迷うことなく書き進めていく手紙を見て、私は焦燥感に駆られ、苦しくなりました。

 

その他にもきっと、卒業が近付いてきて不安だったのもあったと思います。拒食で頭が働かず、心理的視野狭窄にも陥っていたと思いますが、私は「卒業までに死のう」とどこか心の中で決めていました。それは、今まで私を救ってくれた場所から巣立つ勇気がなかったことが理由です。私の人生そのものだった学校生活が、先生たちとの日々が、なくなってしまうことが怖かった。けれど、どこかで滲み出ていたそれを、担任や養護教諭は気付いていました。養護教諭には、話をする中で「死にたいと思うことは、ある?」と聞かれ、そのときの先生の顔を見て、私は正直に話をしました。先生は私の話を一通り聞いたあとに、「そっか、そうだよね。今までこれだけ苦しんできて、死にたくもなるよね。」と前置きをした後に、「それでも、これは私のエゴでしかないけれど、私はあなたに生きていて欲しいよ」と言いました。

先生は、作業していた手を止めて、私と向き合うように座り、「覚えてる?○○ちゃんが早退するってなったとき、迎えに来たお母さんがすごく怒ってたときがあったじゃない。あのあと、私、「本当に私のしたことはよかったのか」って悩んだの。何年も仕事をしていると、慣れが生じるし、やっぱりどこかで事務的になってしまうときもある。だけどね、○○ちゃんと過ごしていく中で、新しい気付きが本当にたくさんあって。私に学びをくれて本当に感謝してるし、養護教諭って担任を持つわけじゃないから、こうやって話をしてきた○○ちゃんみたいな子のことってずっと覚えてるの。保健室にも来たことなくて、そのまま卒業していくなんて子もたくさんいるから。だから、私、○○ちゃんのこと、○○ちゃんがこの学校から居なくなったとしても忘れないよ。最後に○○ちゃんに会うのが、○○ちゃんのお葬式だったらすごく悲しい。3月末まではうちの学校の生徒だから、亡くなったってなったら私たちに連絡が来ると思うのね?最期に○○ちゃんに会えるのが亡くなったときなんて、それほど悔しいことは無いよ。まだまだ話したいこと、たくさんあるしね。何度も言うけど、これは私のエゴ。○○ちゃんの気持ちなんて考えてない、ただ、私が悲しい、寂しい、悔しいってだけ。だけどね、これは私だけじゃなくて、○○ちゃんと関わってきた先生たちみんなが思ってる事だと思うんだ。」と。泣きそうになりながら、少し俯いた私を見て、先生は「…腕の消毒しよっか」と、いつものように自傷を手当をしてくれました。そのあと卒業アルバムを一緒に見て、先生からも言葉を貰い、迎えに来てくれた英語の先生と手を繋ぎながら相談室に向かい、カウンセリングを受けて帰宅しました。

次の日には、担任が作ったサプライズムービーを見て、みんなと泣きました。その動画の中で、担任は、「また成人式に○人全員で集まって、パーッとやりましょう」と、「卒業式で、呼名のとき、合唱のとき、最高なものを聞かせてください、それが先生からの最後のお願いです」と。泣きながら、ぐしゃぐしゃに泣きながら、動画のBGMに流れていたLemonを聞いて、体調不良のときに担任が車で家まで送ってくれた時のことを、思い出しました。先生の車の色は黄色で、その中で流れるLemonが面白おかしくて笑ってしまったこと。それを流した先生は、私を見ながら「あれ、これで(好きな曲)合ってるよな」と言ったこと。車の中で、体育祭は競技以外はジャージを着れるように話を通したから、もし他の誰かから何か言われたなら、俺がそう言ったと言ってもいいと言われたこと。この先生に、1年間、いや、2年の頃からも含めたら、2年間、支えられてここまで来れたことが、一気に頭に流れて、なんとも言えない気持ちになりました。私のわがままは、「卒業したら日常が思い出になってしまうから、それなら死んでしまいたい」でしたが、それよりも「卒業をして、高校へ入って、そこでも頑張っていくこと」が、先生たちへの1番の恩返しなんじゃないか。そう思ったら、死ぬことなんて出来なくなってしまいました。卒業式のあとのHRで、担任は言いました。「うちの学校はいい子が多い、ほかの学校の人たちも沢山いる高校できっと驚くこともあるかもしれないけれど、それに毒されることなく、ここで培ってきた学びを活かしていける人でいてほしい」と。その言葉を胸に、在校生として最後の、下校をしました。

私は記念写真を撮る間もなく、弟が喘息で大変だということで小学校に向かい、先生たちとの写真はほとんどありませんが、そのときに小学校の養護教諭から「卒業おめでとう」と、多分、唯一卒業当日にお祝いをして貰えたことが嬉しかったことも覚えています。クラスの打ち上げではまた少し泣いてしまいました。

卒業し、多くの先生たちは異動します。養護教諭は産休に入り、中学に今もいる仲のいい、知っている先生は片手で数えられるほどに減ってしまいました。離退任式で担任は、真っ直ぐと前を向きながら「ここでの思い出に、次の学校でも負けません。過去は振り返らず、進みます。」と言っていました。そのあと会ったときには、「△△を頼むぞ。もう、隣の席にはいてやれないけど、それでも支えてやってくれ」と、私に言いました。他の異動する先生たちも、口を揃えて「また会おう」と。私は、先生たちそれぞれにプレゼントを渡し、泣くことなく、笑顔でお別れをしました。

高校への不安を抱きながら、4月まで、家でじっと耐え忍びました。先生たちが心配していたのは、この卒業してからの長い長い1ヶ月の休みの他ありません。それでもそこで死ぬのは失礼だと、申し訳ないと、死にものぐるいで生きました。1度、希死念慮に苛まれている中解離した勢いで駅のホームまで行っていて、焦って家まで帰ったことがありますが死ぬことだけはいけないと、思いました。というか、勇気が出なかった。怖くて1歩が踏み出せないまま、馬鹿らしくなって帰宅しました。そんなこんな、やっとのことで、4月。

母からの酷い怒声も耳に慣れてきた頃、ついに高校生になりました。4月になれば、青少年相談センターにも1人で行くことができます。中学の頃のSCさんが提案してくれ、今も週に1度、話をしに行っています。定期的に会える、中学の頃からの先生はこのカウンセラーさんだけです。

高校は、周りから聞いていたそれとは違い、先生たちは優しい人がほとんどで、不安を他所にクラスメイトも優しく、私をいじめる人達は、どこにもいなくなりました。病院は学校の単位の関係で若干回数は減りましたが、変わらずに支えてくれる主治医と、新たに私を助けてくれる沢山の先生たちに囲まれながら、毎日を過ごしました。体育祭では救護係に徹するあまり倒れて救急搬送、1日経過入院をしたり。父親の単身赴任が決まったり。インターンシップや、バイトを経験したり。

冬にかけて不安定になる私に、担任は辛抱強く接してくれました。放課後に3時間話をしたこともあります。何回もです。私は中学から食事を昼にしていなかったので、特に気にせず高校でも食べずに過ごしていましたが、それに気付いた先生は初めは飲み物や食べ物を買ってくるようになり、次第に奥さんが私にお弁当を作ってくれるようになりました。毎日のその優しさが、とても嬉しかった。あのときに入っていた担任の奥さんからのお手紙も、毎日のお弁当も、いつか私は直接お礼が言いたいな、と思っています。先生と話をするなかで、「客観的に物事を考える力が突出していて、そこは長所かもしれないけれど、本来はもっと甘えていい年齢なんだよ。家で甘えられないなら、学校で甘えよう。先生たちは、みんな○○さんのことを気にかけてるよ」と言われたり、自分が論理的思考が優位なこと、〜しなければいけないという感覚がとても強いことに気付かされました。

色々なことがあったなかでも、何よりも大きかったのは主治医の産休でした。本当に辛い時期に私を長い時間を使った診察で支えてくれた主治医が、しばらく居なくなる。頭が真っ白になりながらも、先生には咄嗟に「おめでとうございます」と笑っていました。その話を聞いた帰り道、病院から家に帰りながらぼろぼろ泣きました。久しぶりに、涙が溢れて止まりませんでした。それからの私は、マスクを外すための練習の日々が始まりました。というのも、私は中学3年生頃からマスクが手離せなくなっており、中学秋頃から卒業式くらいでしかマスクを外していませんでした。これがなければ怖くて仕方がなかった。初めのうちは、朝の1時間だけ学校でマスクを外しました。朝の1時間、と言うのも私は1時間半早く登校しているので、ほぼ人がいない状態での1時間です。それでも、怖くて怖くて、慣らすのなんて無理なんじゃないか、と思いました。だけど、先生とは、最後にマスクを外した状態で、ちゃんと向き合って、お礼を言いたいと思ったので必死になってマスクを外して、授業を受けたりするようになりました。担任に後々「なんであの期間マスク外してたの?」と聞かれたときにこの話をしたら、「健気」とものすごく笑われたのも記憶にあります。結果的に、ちゃんとお別れをすることが出来ました。先生は、「お互いまた会えるときまで頑張ろう」と笑顔で私を送り出してくれた。未練はタラタラでしたが、それでも前を向こうと、思いました。

 

そして、そんなお別れから2ヶ月。母が私の部屋のなかにあった剃刀や血だらけのノートを玄関のゴミ袋に捨てているのを、家に帰宅して直ぐに見つけます(というか、見せてたんでしょうね。見せしめだったんでしょう)。母は弟と姉と出かけていましたが、私は直感的に「あ。次お母さんに会ったら終わる、会うまでに死のう」と思いました。中学の養護教諭とLINEで話し、次の日登校して飛び降りる場所を探すもなかなか見つかりません。当たり前ですよね、人目につかずに飛び降りられるところなんて都合のいいことを考えていたから。諦めて、飛び込みにしようと、今日の授業だけは受けよう、と思い教室に戻ると担任と、仲のいい先生が「いた」と言っていたのが聞こえました。探してくれてたのかな、申し訳ないな、と思いながら、朝学習の間は伏せて、1時間目の準備をしてぼーっとしていると担任から声をかけられ、別室へ移動しました。

養護教諭から連絡をもらったという担任に、色々なことをぽつりぽつりと話したあと、堰を切ったように涙が溢れてきました。先生は、「いいよ、泣こう。沢山泣こう。」と、泣き止むまで私の側にいて、声をかけてくれました。先生のスマホで、中学の養護教諭と久しぶりに電話をして、先生も優しい言葉を沢山かけてくれました。「あとは、大人たちが頑張るから、○○ちゃんはもう頑張らなくていいんだよ。ここまでよく頑張ったね。まだ、息子も抱っこしてもらってないんだから、ね。会おうね、また。謝らなくていいんだよ、○○ちゃんは悪くない。謝ることじゃない。」と、謝る私に言葉をかけてくれました。担任が児相に連絡をするために席を外している間に数人の先生が顔を出してくれて、話をしました。先生たちは、他の生徒にはしないような話をしてくれて、私は数時間前まで本気で死ぬ気でいたけれど、それが少しだけ薄れました。保健室に移動して、養護教諭とベッドで横になりながら話し、そのあと相談室へ行き、1日を過ごしました。

この日は、入試前日ということもあり午後は生徒は校舎内立ち入り禁止、授業も4時間で終わり。けれど、管理職に掛け合ってくれた先生のおかげで、その後も私は相談室で過ごしていました。18時以降は普段は生徒は帰らなければいけないのにも関わらず、19時半まで学校で過ごしました。10分以上1人でいた記憶はありません。仲のいい先生たち、8人ほどが代わる代わる来てくれました。

真剣な話から、どうでもいい笑い話まで。先生の家族の話や、今までのこと。または、私のこと。先生たちは私の話を聞いて、「ストイックだなあ」と笑っていました。「もっと楽に生きようぜ、人生イージーモードよ」と先生に言われたとき、肩の力が抜けた気がしました。

お昼は、担任のお金で社会担当の先生がセレクトして買ってきてくれました。食欲のない私(この時期拒食が酷く、病院に通院し週1で点滴、採血、検尿の他に超音波検査やレントゲン、胃カメラなど色々なことをしていました)に、だいぶハードなパンを買ってきた先生をいじったたくさんの先生たちが、「これは今日だけで終わると思わないでくださいね、学年団はあと2年もあるので」と言っていて、その2年間に私も入っているんだな、と思って少し嬉しかったです。幸せな時間でした。

明日からの作戦会議をして、先生からお守りを貰って(「1週間後、○○の手で返してね」と渡されたお守りは、私がその1週間を頑張る理由として十分でした)、ほんの一瞬過ぎったこのまま帰らずに死んでしまおうかという私の考えは、養護教諭や学年総務、仲のいい先生たちに見送られながら担任と、今の(2年になってからの)担任と3人でバスで帰ったことで消えてなくなりました。

 

そして、なんとか入試休みを乗り切り、試験に向けてどうにか頑張っていかなきゃいけないな、と思っていた矢先の、新型コロナウイルスによる学校の臨時休校。血の気が引きました。たった1週間の休みでさえ、こんなに命懸けだったのに。次は、先の見えない1ヶ月?数ヶ月?どうしてこうなったの?パニックになりながらも、急に私の高校1年の学校生活は終わりました。

担任との作戦会議。担任は、親子関係関連の本を貸してくれたり(○○さんのことで勉強しようと思って、と仰っていました)、お菓子をくれたり、これまでもたくさんの時間を共にしてきましたが、ここで踏ん張らずに終わるのだけは嫌だと思い、「頑張ります」と答えました。けれど、ちゃんと不安だということも話しました。というのも、インターンシップ終了後、担任から「どうだった?子どもたちから頼られて、嬉しかった?」と聞かれ、大きく頷いたところ「それは、先生たちもだからね」と言われたことがあるのです。頼ることは、悪いことじゃない。それを私はその出来事から理解していたので、しっかりと、辛い気持ちも伝えながら、前を向くことにしました。

 

毎日聞こえる怒声。耐えきれないほどうるさい金切り声。そのまま春休みに入ることも考えたら、気が遠くなる毎日でした。母の機嫌を保つために料理を始め、最低5品は作るのに自分は食べない。それをしながらオンラインで課題を提出する日々。元々冬は調子が安定せず、例年精神的にとても不安定ですが、いつも以上に酷く安定しない毎日。課題を、泣きながらこなし提出する。家に居場所はない、だけどそれ以外の場所には行けない。病院は週1になったけれど、主治医が変わったばかりで、しかもフェイスシールドにマスク。怖くて目を合わせることも出来ませんでした。元主治医に会いたいと、毎日のように泣いていました。会うたびに痩せていく私に、主治医は「今日は菓子パン買って帰るんだよ、約束ね?」と、言いました。週に1度の通院とカウンセリングでしか、外に出れない日々が続きます。

春休みが終わる頃、また学校の臨時休校が延びるとなったとき、オンラインでの提出物に、最後のSOSを出しました。「心が折れそうです」。すぐに担任から連絡があり、それから管理職と相談して、1週間に1回ほどなら学校に来てもいいと言われ、それまで必死に耐え、久しぶりの学校へ行きました。先生たちは笑顔で迎えてくれました。「○○さんのための貢物が…」と、机の上に並べられたお菓子や色々なものに、「私はここにいていいんだな」と感じて泣きそうになりました。

学校で勉強をしたり、先生と話をしたりしました。新しく学年に入った先生と顔合わせをしたりもしました。相談室で過ごすその時間は、私にとってとても大切なものでした。コロナ関連でのポスターを作らなければいけないけれど、絵が…と、先生たちからポスターの作成をお願いされたこともあります。お礼は、コロナが収束してから養護教諭からの100回のハグ。そんな話もしたな、と思い出しました。とある先生から、「今日も相談室は大盛況で、来るタイミング逃しちゃったよ。先生たちは本当に○○のことが好きだね。人柄だよ、こんなにたくさんの先生が気にかけてくれてる。もちろん俺もね。」と言われたときには、私が生きている意味を感じました。

また、SCさんが異動されたので、新しいSCさんとも話をしました。他に生徒は誰もいない学校でした教室でのカウンセリングや、相談室の掃除。お礼にとレモンティーを買ってくれたことを今も覚えています。絵しりとりをしたことも、全て宝物です。

SCさんはとても話しやすくて、ほとんどの話をすることが出来ました。その話を聞いて、「だいぶ情報量が多いねえ」と笑いながら、「こんな中で、よくここまで生きてきたね」と言われました。料理の話をすると、「今度会うまでに作る」と言って、本当に料理をして感想を言われたり、もちろん、SCさんと話す中での気付きもたくさんあったと思います。活動モニタリングシートという毎日の生活記録を始め、自傷や食事について自分を客観的に見れるようになったこと。そして、そのモニタリングシートを私はとても大切にしていて(口に出すよりも言葉にして分に書く方が私は好きなので)、自傷をしなかった日にシールを貼ってみると、SCさんはとても褒めてくださいました。学校のSC訪問は月2回。行事ごとなどがあり、1ヶ月後になるときにはいつも何かを貸してくれます。「これ、すっごく続き気になってるけど、○○さんに貸すから、絶対直接返してね。次も会おうね、来なかったら僕のこと気持ち悪いって思ってたのかな〜とか勘違いしちゃうかもなあ」と、笑いながら言うSCさんと、また会うために、と結局生き続けてしまうんです。策士だなあ、なんて思いながら。月に2回、1時間のSCさんと話せる時間が私は大好きです。

また、新しい主治医もとても優しくて、元主治医と違い男性でしたが、穏やかで話のしやすい人でした。物腰が柔らかくて、「よく頑張ってるなぁ、生きてて偉いよ。それ以外なんもしなくていいくらい頑張ってる。」と、診察のたびに言ってくれます。元主治医とはまた違うけれど、頼れる大人の1人だと思います。

 

新たに加わったたくさんの頼れる人たちとの毎日を噛み締めながら、私は今日も生きています。元主治医とのお別れのために必死に外していたマスクも、今は必須になってしまいまた外すことが怖い気持ちが強くなってしまいましたし、母への期待も、恐怖も、全て、何も変わってはいません。今もずっと、私は母のことを嫌いにはなれていないのです。それは、多分きっとこれからも、です。コロナ禍で、色々なものを失い、悪化させ、苦しむことがありました。けれど、それも乗り越えて、円満に離れるために、離れてから私も変わっていくために、色々な人と話をして、これからを過ごしていくつもりでいます。母から離れることは、変わることは、怖い。だけど、そうしていかなければいけないことは過去を見ていても強く思います。

先生たちが褒めてくれた、絵を描くことも、写真を撮ることも、料理やお菓子作りも、こうして文章を書くことも、子どもと接することも。全て大好きなことは、私じゃないとなりえなかったことだと思うので、ずっと後悔してきた「生まれてきてしまった」という気持ちは、今はほんの少しだけ薄れたような気がしています。

 

後半は前向きな話を多く入れましたが、正直なところ卒業までに死ぬつもりでいることは事実です。高校に入ってからは、余計にそう思うようになりました。変わるのが怖い、変わらなければいけないのが怖い。何より大人になることが怖い。「子どもを守っていく義務が、大人にはあるんだよ」と多くの先生から言われました。だからこそ、私は子どもという状態に縋りついているんだと思います。子どものままでいたい、きっと過去のことも手離したくない、そうしていれば同情という優しさに触れていられるから。

母さんがどんなに僕を嫌いでも、という本があります。そこに書かれている一文に、とても感銘を受けたので、ここに記しておきます。

 

心の傷は、確かにある。何もかも、なかったことにはできない。それでも、傷に固執して、傷を抱え込み、傷を手放すまいとしてきた自分がいることも確かだ。生きづらいと感じることがあると、何もかも傷のせいにしてしまおうとしてきた。だから、傷を手放せなかったんだ。そんな自分をさっさと卒業して、自由に生きていくことができないものだろうか。

 

似たような文ですが、

 

自分を愛することには、被害者の役割をやめることも含まれます。被害者の役割を担うことには、注目と承認が得られるという恩恵もあります。私たちは、他人からの関心や哀れみを愛と誤解し、それを得ることが私たちが愛を感じる唯一の方法になり始めます。

 

自分を愛せなくなってしまった人へ、という本です。

 

 

今生きていること自体、少し不思議な感覚で、なんだか生きる予定になかったおまけを生きているような気もするのです。多くの人は、「自分のために人生を生きて」と言います。それは、夢を叶えて欲しいだとか、家を出て欲しいだとかそういうことなんだと思います。けれど、私にとっての自分のために、は、きっと死ぬことです。今までずっと他人本意で生きてきたのに、急に自分のために何かしろなんて無理な話ですし、自分で色々なことを選択していかなければいけない今がとても苦痛です。それでも、辛くても。どれだけ辛くても、毎日を生きていくことが、私を今まで支えてくれた人達に出来る恩返しであることも理解しています。天秤にかけたとき、あと卒業までの1年半で、私は何を選択するんでしょうか。今もまだ、分かりません。

 

振り返り、立ち止まり、1歩進んでは、また1歩下がりなんていうことを繰り返していくかもしれませんが、自分にとって最善の選択をして(0か100か思考で、100点の答えしか認められないところがあることに最近気が付きましたが、ここでいう最善の選択は「100点の選択」ではなく、「私にとって、少しでもより善いもの」だと考えています)、どんな形であれ1年半後、後悔のないようにしていけたらいいな、と思っています。

長い長い昔話と、これからのこと。自分と向き合うための整理のお話に、付き合って下さりありがとうございました。