取捨選択と前進

2020年は波乱の1年だった。それは私だけじゃなくて、私の身の回りの人も、きっと私の知らないたくさんの人たちにとっても、だと思う。振り回されて、悩んで、苦しんで、それでも前進して、また悩んで、人に頼って。少しずつ自分の足で歩き始めた1年だった。

私は本当に自分から人に頼ることが出来ない人間で、今まで川の流れに身を任せてのらりくらりと生きてきていた。自分から泳ごうとせず、ただ流れるままに進んでいた。だけど、2020年は自分から進んだり、選択したりすることがとても多かったように思う。SSWと話すようになったのも、児相との面談も。初めて自分から、人に自分の意思を伝えることを覚えた。覚えたというか、その勇気を持てるようになった。ずっとずっと、自分から人に頼るなんて、死にたい癖に何を考えているんだと思っていた。カウンセリングや日時の決められた担任との面談など、決まった枠組みの中でしか、自分を語ることが出来なかった。けれど、今年から担当になったSCさんにふと言われた「楽になる方法を考えよう、何もしないまま終わらせちゃうのは勿体ないから」という言葉に胸をうたれた。そのとき、死にたい自分も、死ぬつもりの自分も今の自分だけれど、何より、今を生きている自分も、自分なんだと思った。どんな感情を抱いていようと、わたしは確かに いま を生きている。どうなるかもわからない未来や、もう変えられない過去に左右されて、いまを無駄にしてしまうのはそれこそ無意味で、生産性のないことなのではないだろうか。どう足掻いたって未来は来るけれど、いまを生きやすくできるのは、いま生きているわたしだけなんじゃないか。そこから、少しずつ自分自身で動くようになった。

そのSCさんと会えたのも、初めは自分の勇気だった。勇気というか、ヤケクソになっただけだけれど。学校からの連絡で、自由記入欄に「学校また休みになるって聞いて絶望してます、疲れました!」と書いた。もう本当に、ボロボロな生活をしていた。数日に1回、1食摂るだけの食事。薬を流し込んでなんとか朝方に眠る毎日。怒鳴り声に耐えきれず、解離やフラッシュバックを繰り返し、こなさなければいけない課題を泣きながら解いていた。もう仕方ないと諦めていたけれど、それでも何か、どこか、手がないかと思っていたんだと思う。新しい担任からすぐに電話が来て、「学校に来ませんか」と。そこから週1日、2時間から、3時間、週2、週3…と学校に行く日が、滞在時間が延びていった。絶望して過ごした3月からの毎日、久しぶりに入った学校で私を待っていた先生たちは何も変わっていなくて、変わったのは私だけだった。まともに食べれない状態で、母親と弟のために毎食5品を料理して自分は食べないなんていう生活を続けていた私は、休校前よりはいくらか痩せていた。そんな私を見て、「痩せたなぁ」なんて言いながら、お菓子を私に渡してくれる先生。教室の真ん中の席に座った私の1個席をあけて隣に学年団に新しく入った家庭科の先生、同じく左隣に養護教諭、教卓に数Ⅱ担、後ろに社会担、斜め後ろに体育担、廊下には担任と学年主任と元担任。私の机に積み上げられた先生たちからの差し入れと、たくさんの先生たちと話した時間で私の胸はいっぱいになった。不安を抱えながらも、頑張ろうと思えた。そして出会えたSCさん。もっと遡ると、社会福祉士の方や心理士さんとお話をする機会があったり、色々なことがあったけれど。

それまでの私はどこか受動的というか、なすべき方向へただ進んでいくだけ、自分から進んでいる訳ではなくレールの敷かれたトロッコに乗って体育座りしているだけだった。1月、主治医が変わっても、2月、死のうとしても、3月、PSWからの連絡で、病院へ母子支援センターの担当が来たときも。

 

何かしら毎月あった気がするけれど、いい物だけを取り上げても仕方ないので自分の気持ちが動いた瞬間の出来事は切り抜いてここに保管しておきたいと思う。

上記に書いたものが主になるけれど、1月は主治医が変わったのが1番大きかった。予約を漕ぎつけ中2の4月から通い始めた児童精神科の主治医。先生は、美人で、凛々しくて、意見をズバッと言ってくれる人で、母親は先生のことをたいそう気に入っていた。月2回、30分から1時間ほど先生と話せるその時間が大好きだった。そんな先生が産休に入ると知ったのは一昨年の10月末。12月が最後だと言われ、何度も悩み葛藤した。先生へ不信感が募ったときもあったし、祝福すべきことなのに心から祝えない自分に嫌気がさし、診察終わりに泣いてしまったこともある。そんな先生が居なくなっても、私の希望だった、それこそ陽性転移をしているような、それくらいに大切だった先生が病院から居なくなっても、私はやっぱり生きていた。なんだかんだ、必死に生きていた。先生と、「また会う日まで、お互いがんばろう」と交わした約束を、律儀に度々頭に浮かべては、頑張ろうと思っていた。今も先生を思い出して泣いてしまうことがあるけれど、4月までにはまた会えるという先生の言葉を信じて待っている。

2月、母親が部屋を漁り、これ見よがしに家族全員が見える場所に剃刀や血だらけのノートを捨てていた。それを見た私はもう怒る気力もなくなっていて、もう母親とはやっていけない、次に母親と会ったら終わると思い死のうと思った。次の日に死のうと決めた夜はとても穏やかな気持ちだった。中学養護教諭と話して、先生は高校へ連絡をしてくれていて。飛び降りる場所がなくて焦った私が、授業が終わってから駅へ行こうと思い朝の予鈴の鳴る時間ギリギリに教室に戻ったとき、教室に入ってきた副担任が、担任に「居ますよ」と言っていて、担任が廊下で体育担と話しているのが見えた。そのとき、やってしまった、と思った。それからは自分が想像していた方向とは正反対に物事が進んでいって、児相に連絡がいったり、先生たちと何時間も話して初めて先生たちの前で泣いてしまったりした。先生がしてくれた話はどれも知らなかった話ばかり。昔、亡くなった生徒の話。先生の家の話。そんな何人かの先生たちの話を聞いて、中学養護教諭とも電話で話して、そのときは確かに、「生きよう」と思った。ベッドで横になりながら養護教諭と話した話も、学年主任が買ってくれたお茶も、社会担が買ってきてくれたアンパンも、先生たちとした真剣な話もくだらない話も。気付いたら19時を過ぎていて、家に帰らなければいけなくなって。その瞬間、死にたくて、このままバスで駅まで行って死ねばいいと思った。最高の思い出が出来たんだから、もういいと思った。けれど、体育担から「休み明け、俺に直接返してね」と渡されたお守りと、バスで一緒に帰ってくれた今の担任と1年のときの担任の優しさで、生きなければいけない、今は死んじゃいけないと、改めて思った。死にたいと生きたいが、何度も行き来した日だった。

2月は調子も安定せず、病院通いの毎日だった。点滴、採血、他にもたくさんの検査をした。胃カメラは怖かったけれど、看護師さんがかけてくれた言葉が優しくてまた泣いた。ルートをとるとき私の腕を見て、色々な言葉をかけてくれる看護師さんたちがいた。内科の担当医も頭を悩ませたくらいに、身体的な異常はなかった。会うたびに痩せていくと主治医が心配してくれた。そして、前々からそれらしいところはあったけれど、改めて摂食障害だと言われた。3月、入試休みが終わって、やっと落ち着けると思った瞬間の休校。絶望の中4月の終わりにやっと助けを求めることが出来た。短い間だったけれど、数回話を重ねた社会福祉士の方と心理士さんから言われた「なにも頑張らなくていいですよ。少しでもゆっくりできる、それだけでいいです。もう十分頑張っていますから」という言葉も、私を支えてくれた。

コロナに振り回された1年だったけれど、あれがなかったらきっと私は今も川の流れに身を任せるだけの生活をしていたと思う。

 

そして繋がった新しいSCさん。今までのカウンセラーは、だいたいが文系で、穏やかで、傾聴が主な女の先生ばかりだった。今のSCさんは理系でズバッと言葉をかけてくれるのでなんだか元主治医と重なった。ただ解決へ向かっていく事務的な作業じゃなくて、「本当はこうだけど、それはわかっていても怖いよね」と、カウンセラーとして気持ちにも寄り添ってくれて傾聴してくれる人だったから安心して色々な話をすることが出来た。カウンセラーの自己開示は賛否両論あるけれど、私はそれによってSCさんを信頼することが出来たし、この人になら話せると思った。うちの学校はどうやらカウンセリングを受ける子はあまり多くはないらしく、コロナでの休校もあったので比較的ゆったりとSCさんと話せることが多かったのも信頼するのに時間がかからなかった理由かもしれない。一緒に相談室を掃除したり、レイアウトを変えてみたり、絵しりとりをしたり、料理の話をしたり… 暗い話以外も出来たから、グッドニュースだけを伝えようと思わずにしっかりとバッドニュースも伝えることができた。わたしはSCさんにとってたくさんのクライエントのなかの1人だけれど、私はSCさんに本当にたくさんの(気持ち的な意味での)ものをもらった。直接は言えないだろうけれど、進むための勇気をくれたことへの感謝をすごく感じている。

9月と10月、SSWや児相の担当と話をした。その後、病院からのアプローチもあり再度別日にSCさんと児相担当が話した後に、SC+児相担当+私で話をした。私の気持ちは揺れていた。どうにかしなきゃいけない、私にはもうあと1年しかないという焦りと、どこか優しさを見せる母親を見ているとこのままでいいんじゃないかという気持ち、そして母親自身も悩んでいるんだろうなというのが伝わるからこそ児相が家に介入することで母親にとっての"敵"(実際そんなことはないけれど、母親がそう感じるかもしれないという意味で)を増やしてしまうのではないか、母親が崩れてしまうのではないか、色々な感情が入り交じった。前よりはSCさんが隣にいてくれたから話せたものの、上手く言葉に出来なかった部分もあって深くため息をついた私に、SCさんは「よく話したと思います。お疲れ様、頑張ったね」といつもの優しい笑顔で声をかけてくれて、私は今、誰のために、なんのために、必死になっているんだろう、と思った。わからなくなった。自分の支援の場で、自分の首を絞めているような。私が望む、母親も、弟も、あわよくば私も幸せに、なんて無理なのかな、と思った。SCさんも、児相担当も優しくて、私のことを考えてくれていて、それは救いだった。救いだったけれど、支援者にさえ ここまでしてもらったのに、もう後戻りはできない。ちゃんと自分で決めなきゃいけない。どう転がっても自分が悪いんだから、どうにかしなきゃ という気持ちでいた自分に気付かされた。

病院での心理士さんとの面談。放課後、最終下校時刻を過ぎてからも相談室で過ごさせてくれたあの時間の、先生たちとの会話。自分自身での葛藤。悩んで、悩んで、悩んで、方向はまた変わっていった。今はそれがベストだと思っている。ベストとは言わずともベターだと。母親の支援者を増やすほうが先だと、思っている。

母親に対しての感情もアンビバレントではあるけれど、なんとなく定まってきたような気がする。母親の実家は1階が工場で2階が家であり、あまり家族団欒の時間を過ごすことは無かった。だからこそ母親は、ふとしたときに「お小遣いをあげてるのは私がなくて嫌だったから。あんたは恵まれてる」、「行事ごとは家族みんなで過ごすものでしょ。私はそんなふうにしてもらえたことなんてなかったのよ」と言う。母親自身も愛情を渇望していたのかもしれない。愛し方を、愛され方を、知らなかったのかもしれない。そんな背景を見たら、母親を責めることなんて出来なかった。母親も母親なりに必死だから…と、SCさんに言ったときは複雑そうな顔をされたけれど、それでもやっぱり、私は母親の味方が誰もいないのなら母親の味方になりたいとさえ思うほどに、母親の気持ちに寄り添いたいと思った。それはきっと、心理や福祉、児童虐待について勉強をしてきたからこそ理性よりも知識が勝ってしまったんだと思う。それはそれで少し苦しい。本当は、お前が悪い、お前がこんな風にしなければ私はこうならなかった、大嫌いだと、母親に言えたら。そうしたら、ほんの少しは楽になれたかもしれないのに。母親を責めることが出来ない私は、怒りを矛先をどこへ向けたらいいのか分からない。そして結局は自分に向いてしまう、自傷してしまう。兄に対してもそう。兄からの暴力は暴言は怖いけれど、それも愛着形成の時期に母親から十分に愛されなかった兄が外側へと怒りが向いてしまっただけなのかもしれない。私はたまたま内側に向いたけれど、兄のようになった可能性もあるから、なんて思ってしまって、責められない。自分の感情なんて二の次で、まずは自分が悪いということにしてなんとか気持ちを抑えるしか怒りの処理方法を知らない。それはカウンセラーさんやSCさんからも指摘されていて、「人に対しての怒りの感情を人に対しての怒りの感情のまま持っておくことが苦手なんだね」「昔からそうやってきたから、今更変えるのも難しく感じるよね」と。

こうしてみると、やっぱりこの1年気付きが多かったなぁと。摂食障害しかり、解離性障害や他の疾患もしかり、強迫やストイックな部分、手を抜く方法を知らないところも、気付けたというのは大きいと思う。見ないふりをしていたら今もきっと、よくわからないけど不安な陰性の感情に支配されていたんだろうな。

 

あとは色々なことを始めた。始めたというか、極め始めたというか。心理や保育、福祉の勉強もそうだし、料理や裁縫、ピアノもそう。元々絵を描くとか一眼レフで写真を撮るくらいしかしていなかったけれど、たくさん趣味を見つけられた。これは有り余った時間のおかげでもあるし、周りが褒めて伸ばしてくれたからっていうのもあるんだろうな、と。支援者も沢山増えた。元々十分なほどいた私を助けてくれる人達が、また増えた。それはいまを生きる私に安心感を与えた。先生たちが「頑張ってくれてるの知ってるから、こっちも頑張って色々やれてるよ」と言ってくれるから私もまた頑張れた。テストでいい点数を取れば、成績がよければ、先生たちは喜んでくれる。それがまた、少し恩返しができているような気分になれた。何かの代表者に選ばれたり、ポスターを描いたりフェルトでワッペンを作ったり…という頼まれ事をこなしたり。私のやれることで、もっと人から認めてもらえることに安心した。自分で自分を認めることが出来ないからこそではあるけれど。成績に安堵する自分を見ながら、「自分で自分を認めてあげることが出来ないんだね。成績とかでしか自分を信じられないんだね」とSCさんに言われたことを思い出した。数値化された絶対評価でしか自分自身の努力を認められないのは少し厄介だなぁとか、これが過剰なストイックさに繋がっているのかなぁなんて思ったりもした。それと同時に、支援されるたびに、たくさんの人が私を助けてくれていることを実感する度に、未来への不安も増した。

卒業が今まで以上に怖くなった。

高校に入学する前から卒業を恐れていた。それは中学のときに同じような経験をしていたから。そして、入学して想像以上に沢山の人に助けられる中で、卒業がもっと怖くなってしまった。卒業したら、今の病院は児童精神科なのでこのまま主治医やPSWさんや心理士さんと話すことはなくなるだろうし、青少年相談センターも終わり。学校を卒業すれば今までのようにSCさんと話すことも、先生たちと毎日のように話すこともなくなる。児相も誕生日が遅いのでちょうど卒業の頃まで。一人暮らしのため、引っ越すので友達に気軽に会う回数も減ってしまう。今ここまでたくさんの人に支えられて生きている自分が、慣れない場所で、生きていくことが出来るのか。もっとも、もう言い訳なんてできない。いや、言い訳じゃない、今までの過去は確かにあったことだし、それによって傷付けられてきたことは事実だけれど、その過去に縋って、辛いからと甘えていることはできない。もう大人になる、自立する必要がある。優しさに触れるたびに、表面は埋まるものの深層にある母親から愛してもらいたい、認めてもらいたいという気持ちが燻られてまた表面に穴が空く。いたちごっこに付き合わされる先生たちへの申し訳なさも、それをわかっていてもなお支えてくれる人が近くにいないと生きていけない自分を恨んだ。中学の担任が言っていた、「いいんだよ、迷惑かけて。それが仕事なんだから」という言葉を時々思い出す。

支えること、支援することが仕事の人にさえ気を遣うよりも、いつかひとりで自分の足で立ち上がれるように今は頼りながら生きていってもいいんじゃないのか。そんな気持ちと、甘えてるなよ、と思う自分と。いつもそうだ、母親に対しても、兄に対しても、そして、自分に対してもアンビバレントな感情に振り回されている。客観視するほどに嫌になる。本当は、もう嫌だって、ただそれだけなのに。達観したくなんてない、ただ辛いと言えたらいいのに。年齢が上がる事にそれは難しくなるのに、幼い頃からずっとこうして生きてきたからどうしたらいいのかもわからない。今年はそんな感情にもちゃんと向き合っていかなければいけないなと思う。あとはやり残したことを減らしていかなきゃな、あと1年と少ししかないんだから。

向き合うべきは、達観した私、周りから思慮深いという褒め言葉を貰えるわたしじゃなくて、いま、ここにいるわたしだ。ぐちゃぐちゃな感情も、全部、言語化しなくてもいい。わざわざ遠くから自分を見つめなくていい。どうせどう足掻いても、生きているとしたら大人にはならなければいけないから。だから、今はまだ、子どもでいるために。私が全て考えていることを抱きしめて、ひとつひとつ、確かに、わたしのものにしていけたらいい。私自身がわたしを否定する必要は無い。わたしが、私自身を否定する必要も無い。未来を必死になって考えても、どう転がっていくかはわからないから。まずはいまを見て、わたしを見て、また、少しずつ進んでいこうと思う。