経験と数値化

結局のところ経験していないことはいくら学ぼうが(学んだ気になろうが)、実際経験しているものには劣ると思う。「私はあなたの事をわかっているから」という言葉はあまりに呪縛めいているし、きっと当人はその言葉が私を殺すということも気が付いていないんだろう。だいたいの人間なんてそんなものだし、それに期待すること自体間違っている。

だけど、ベクトルの違いはかなり大きい部分があるなと思う。例えば、「痛い」。腹痛が酷いとき、誰かから「痛みを1~10で表すとしたらどれくらい?」と聞かれたことがある。けれど、その1~10は的確な基準があるわけではなく自分基準であって、それは人によって変化するもので。そう思うと自分がただ我慢出来ていないだけで、実際の痛みは2とかなんじゃないかーーと思うと、黙り込んでしまった経験があったのだ。私にとって、明確に数値化されたもの(その数値がみな同じ基準であるもの)以外と言うのは、信じられるものではない。自分を信じることの出来ない深層心理から来るものなんだろうが、とにかく私にとって、自分基準や自分を中心として考えることは鳥肌が立つくらいに気持ち悪いことなのだ。

 

「痛み」のレベルが2でも、我慢できる人もいれば泣き出す人もいる、2ということ自体が間違っている場合もあるし、または2にも満たないけれど自分の基準では2であると錯覚している場合もあるだろう。そう思うと、なんだか全てが信じられなくなってくる。結局は、そういう感覚というのは自分以外にはわかるものではないし、そもそもそれぞれのキャパシティは計り知れるものでは無い。そう簡単に理解すんなんて難しいことだ、そんなこと誰でもわかるだろう。

それが、「死にたい」になった瞬間なんなんだ。一瞬で「あなたの気持ちは分かる」「お辛かったでしょう」と。死にたいでさえ、それぞれの人のキャパシティによって変わるだろう。冗談交じりに笑いながら死にたいと言う人もいれば、それに嫌悪感を覚える人、死にたいと思いつつも口には出さない人も、何も言わずに衝動的な死にたいで全てを終える人もいる。なのに、「気持ちが分かる」なんて言われてたまるものか。ただの書籍で、インターネットの情報で、そんないっぺんだけのものでわかられてしまうほど、簡単なものではない。複雑なものが絡み合って、もがき続け、それでも苦しくてーー。それを、「それでも生きていて欲しい」なんて言うのはあまりに無責任だと思う。

生きていて、これからどうするのか。支援をしてくれるのか。支援をしてくれる人からの言葉ならまだしも、ただその場の感情だけでそれを止める人はなんなのか。背負っているたくさんの苦しみも、これから味わうであろう辛い思いも全て受け止めてはくれないくせに、生きることだけは強制するのだ。そんなの、傲慢でしかないだろう。それを美徳とする人たちがたくさんいて、それを正しいと、間違っていないとここまで育てられてきた人は自分の気持ちとどれほど葛藤しただろうか。

「自分のこの気持ちは、人とは違うものだ」と、足掻き、苦しんだことだろう。口に出せないまま、出せた最後のSOSが死なんてどれほどに苦しいことだろうか。私はもう、そうやって人を失いたくは無い。それぞれによって痛みは違えど、それほどの苦しみがあったんだと、そう言える環境を作りたい。

 

「死にたい」と言う言葉を自分の中で、静かに大きくなるまで育てている人というのはきっと「死にたい」を伝えたときに拒絶された経験があるとか、またはそういう風に反応されるだろうという予測をしている人だと思う。それほどに悲しいことは無いけれど、実際はそういうものだ。死に対しては人は大きく反応する。そして、だいたいは「自らの死」には大きく反発される。

自傷行為と言うのは生きるために行う行為ではあるものの、自傷行為経験者の数年後の自殺遂行の数を見るに間接的な自殺行為であることは間違いないだろうと思う。生きるためにする自傷行為でそのまま命を落としてしまう人もいるし、または自傷行為で抑えきれていた感情がいつしか溢れ出してそのまま、と言う場合もあるだろう。自傷行為によって苦しみを痛みに置き換え、可視化することで言葉にする手間が省ける。そのうちに、言葉にする力が衰え余計に助けが求められなくなる。そんな悪循環に陥っている人も多く見受ける。結局は、そういう行為も全て死に近づく行為でしかなく「死にたい」が伝わない、感覚の問題でもあるのではないかと思う。

死にたいはどうしても感情論であって、確かに数値化されたものではない。だからこそ、軽視されやすいのではないだろうか(「死にたいって言ってるうちは死なない」なんていう御伽噺のような言葉があるように)。なんだか難しい言葉になっているけれど、例えばテストで50点、と聞くと普通、または少し低いくらいに思えるかもしれないがそのテストの平均点は10点かもしれないし80点かもしれない。前者であればとても優秀な点数となるし、後者であれば逆である。50点というのは100点満点かも、50点満点かもわからない。そういう、はっきりとした線引き、それが実際にそうであるのかと言う確かなものでなければ人は簡単には信じられないものなのかもしれない。気持ちというのは人それぞれ違うものだし、やっぱり精神科に偏見がある人というのはそういう感覚なのかな、と。「精神病なんて気の持ちようよ!」って人にはそういう経験がないのかもしれない。経験がないものは、一生分かり合えることはないと思う。理解というのも表面的でしかないのかもしれない。

 

でもそう思うと、「私を助けてくれた養護教諭に憧れて、養護教諭を目指している」だとか、「自分と同じような思いをする子を減らしたいから児童指導員になりたい」だとか、「主治医のような精神科医になりたい」だとか、「私の心の支えになってくれたPSW(精神保健福祉士)になりたい」と言う人が多いことも頷ける。精神医学のほうの世界では、案外こういう動機の人が他の職種よりも多い気がするのだ。助けることで当人も潰れてしまうんじゃないかと不安になる周囲の気持ちもわかるが、こうやってそれを糧にして生きていく、恩返しをしていくと言うのはとても綺麗で素晴らしいことなんじゃないのかなぁ。

実際叶うのか否かではなく、それを目指すに至る気持ちの変化や過程というのが大切なんだと思う。何かのCMで言っていた、「大学受験で人生は決まらないけど志望校を目指すまでの努力は人生を作っていく」みたいな言葉は私は綺麗事ではなく本当のことだと思うのだ。学びは無駄にはならないし、人の痛みがわかると言う言葉は皮肉めいているかもしれないが、実際そうなのかもしれない。痛みは経験しない方が幸せだし、きっといいんだろうけれどもう既に経験してしまった痛みは消せないし、それを自分の中に落とし込んで誰かを支援出来るようになれたらいいなと思う。色々な場面でのベクトルの違いや感覚の違いも考えつつ、自分にとっての「数値化された確かなもの」を増やしていけたらな。

そう簡単な事じゃないけれど、経験は力になる。いいことだろうと悪いことだろうと、経験は全て、いつかは自分の生きるために必要な燃料として還ってくるはずだ。だからこそ私は今日も自分の苦しみを噛み締めるし、すべき勉強を続けていく。