感情の整理整頓

全てが呆気なく終わった。臨時休校のまま春休みに入ることになり、約1ヶ月ほどの休み。夏休みは文化祭準備で登校していたこともあったので、それよりも酷く長く、学校へ行けない日々が始まる。

もはや運を使い果たしているのか、母親は3月半ばに仕事を辞めるらしい。つまりは家で姉・弟・母・私が集合するわけだ。もはや長期休みよりも苦しい状態。そんな中、姉が卒業した。私と姉は同じ高校だったけれど、私と姉は全く違う存在だった。姉は元々今の高校よりも1ランク下の学校を勧められていた。でも、そのまま今の高校を受験して定員割れで合格。模範的な生徒とは言えない姉の妹である私が入学すると聞いた姉の学年団の先生はかなり焦ったらしい(今の体育担は私の姉の学年団に元々居たらしく、だから面接のときに姉のことを聞かれたのかと納得した)。

私は髪を染めたりはしないし、姉のように勉強しないでテストに臨んで1桁を取ったり授業をサボったり提出物を出さなかったりはしない。流石に体育担当から「あいつ(姉)のノートうんこだから」って言われたときはむしろ気になりすぎて笑ったけど。学校では「あ!○○(姉)の妹!」と言われることがたくさんあった。とは言え中学でもこんな感じ(○○(姉)の妹!△△(兄)の妹!とずっと言われてきた)で、ずっと嫌だったけれどこの高校は褒めてく方向性で○○の妹!と言うので、心地は悪くなかった。

姉の学年団だけでなく、関わってきた先生たち全員から言われてきた○○の妹!って言葉も、もう少ししたら減っていくんだろうな。私が3年になる頃には、ほとんど聞かなくなるんだろう。そうして少しずつ、姉たちの残してきた爪痕というのは薄れていくんだと思う。それが時間というものだし、過ぎていくのは、薄れていくのは必然的なことなんだろうな。そう思うと少し悲しいけれど、それもまた進むってことなんだろう。

 

中学の卒業式の前。いや、もっと言えば12月下旬から3月にかけて、私はとにかく荒れていた。卒業したくなんてなかったし、やっと頼れるようになった先生たちと離れるのがとにかく怖かった。逆に一切話しかけたりせず頼らずに過ごしてみたり、空元気で過ごしてみたりしてみたけれど、授業中に涙を流してしまったり担任にバレてしまったり、そう上手くはいかなかった。

環境適応が下手くそで、それこそ中1部活動が原因で通い始めた病院での診断は「適応障害」で、とにかく私は余裕がなかった。学校だけが居場所で、保健室や教室や相談室や職員室前の廊下が落ち着ける場所だった私にとって、卒業というのは耐え難い苦痛だった。周りから聞かされる「高校は義務教育じゃない、いい先生だって少ない」という言葉に右往左往し、毎日死ぬ事を考えていた。

どうやって死のうか、と考えて必要なものを買うまでに至っていたし、先生たちにはバレてしまったとき堰を切ったように話をしてしまったが後にも先にも口に出して「死にたい」を伝えたのがこのときだけだった。今となっては笑い話になるくらいの話だけれど、とにかく私は先生たちとの出来事が今あることではなく思い出になることが怖かった。思い出になってしまった瞬間、全てを忘れてしまうと思っていた。そもそも人間、全てを覚えているなんて出来ないのだ。0か100か思考も相まって忘れてしまうことがとにかく恐怖でしかなかった。

 

卒業式の前、卒業アルバムが配られた日。約束のカウンセリングの時間までには1時間ほど時間があって、教室で待ってるように担任が言ったあと5分後に教室に戻ってきて「やっぱ教室でひとりで待ってるくらいなら保健室行ってこいよ」と保健室に連れていかれた。養護教諭と離れることが怖くて、まだ信じられなくて、足が遠のいていた月に1度ほどしか行っていなかった保健室。先生は優しく迎え入れてくれて、その1時間でたくさんの話をした。

自傷の手当をしながら、私に先生は「最近どう?」と聞いた。私は笑いながら「卒業するのが怖いです。先生たちと離れるのが、こんなに恵まれてきた環境から居なくなるのが、変わっていくのが怖いです」と答えたと思う。先生は、「そうだよね。でも、また生きてればいつでも会えるからさ」と言った。一瞬曇った表情を、先生は見逃さなかった。

「卒業まであと少しだね」と言われたけれど、私は遮るように「卒業なんかしたくないです。する前に、全部終わらせる」と口走った。先生は少し驚いた顔をしながら、「もう、決まってるの?」と。私は「決めてます。絶対に失敗しない。もう、疲れたんです。前に駅でぼーっとしてたら、吸い込まれそうになった。駅員に止められて何も出来ずに逃げたけど」と言った。先生とは色々な話をしたけれど、とにかく記憶に残っている言葉だけ記しておこうと思う。

琥珀ちゃんは、本当に苦しい中頑張ってきたね。だから、私はこれ以上頑張れとか生きろとか言えない。でも、死んで欲しくないの。ただの私のエゴでしかないけれど、琥珀ちゃんと会うのが 琥珀ちゃんのお葬式で、それが最後なんて悲しいよ」

その当時、というかそれを直接言われたとき、私は「そうやって先生の記憶に残っていられるならそれもいいか」とさえ思っていた。だけど、そうじゃなくて。結局は最後という言葉が怖くて、それが嫌で。つい先日の出来事の前でさえも、私は「最後に先生と話したかったな」と思った。私はお世話になった人達よりも先に死ぬことなんて出来なくて、そう思うときっとこれからも死ねはしないのだ。ずっと、そうして続いていくんだろう。

その日はカウンセリングの前に英語の先生が迎えに来てくれて、卒業アルバムにはその先生と養護教諭がメッセージを書いてくれた。それを抱きしめながら、英語の先生と手を繋いで相談室まで行った。先生に、笑いながら「卒業がこわい こういう日常が終わるのが」って言ったとき、慰めるわけでもなく先生は私の手を強く握り返してくれた。

 

卒業式、私は堪えきれず沢山泣いた。担任も泣いていた(フラワーパウダー(花粉)が、とか言って誤魔化してたけど)、なんで泣いていたのかも正直分からない。卒業への漠然とした不安感。これから始まる1ヶ月もの春休み。先生たちとの別れ、先生が異動すること。中学から離れること。全てが入り交じって、苦しくて仕方がなかった。だけど私は、死ぬために貯めていたものを全て捨てた。

卒業式は月曜日だった。養護教諭と話したのは火曜日、そして担任の作った思い出ムービーを見たのは金曜日。そこから、卒業式までの土日で必死に私は頭を働かせていた。どうすることが正解なのか、分からずに。そんななかで出した結論は「卒業すること」だった。私にとって、今できる先生たちへの恩返しは笑って卒業式を迎えること。ちゃんと、義務教育を終えることだったから。

私にとって全てだったものを手放す不安感よりも、私を作り出してくれた人達への感謝を取った。苦しいこともあったけれど、今思うと間違った選択ではなかったと思うしこうして高校でも恵まれているのは先生たちの申し送りや応援のおかげだ。支援は続く、きっと絶えることは無い。

それは先生たちの人柄そのものでもあるし、先生たちが言う「琥珀が頑張ってるから支援してくれる人がいるんだよ」という言葉も、素直に受け止められるようになった。そう簡単に死にたい気持ちが消えることはないし、今だってそういう気持ちと戦いながら毎日を生きている。だけど、そもそも死にたい気持ちと向き合うというのは生きるためにする行為であって、本当に死にたければそれに抗うことがなく命を終えようとするんだと思う。

こうして今を生きているのは、結局本当は生きていたいと思っている自分と向き合い、進もうとしている証なのかもしれない。

いつか答えがわかるのだろうか。答えがわかる前に、死んでしまうのだろうか。何も分からないけれど、でも確かに今自分はこうして生きているしその意味はあるんじゃないかと思う。生きている意味なんて、見い出せずに死ぬ人だっているわけでそんななかで生きる意味を探し求めて生きている自分はもしかしたらとても幸福なのかもしれないな。