明日も明後日も

学校がないと自堕落で不摂生な生活になりがちだ。自分は外に出るのが得意なほうではないし、そもそも鬱のせいでお風呂にさえ入れないときに外に出る気になんてなれたもんじゃない。鬱というのはなかなか厄介なやつで、生きていくのに不便で仕方がない。普通の人からしたらお風呂に入れないなんて考えられないだろうし、部屋掃除や整理整頓が出来ないと言うとただの甘えだと言われてしまう。心の病の難しいところだなぁと思う。

久しぶりに外に出た。いや、久しぶりではないか。必要ではないときに外に出たのは久しぶりだ。ずっと、カウンセリングや学校へ荷物を取りに行くくらいには外出していた。だけれど、それは目的を遂行するためのものであって、外の空気が美味しいとかそういう感覚ではなかった。今日はそういう感覚で、お散歩のような(とは言え一応これから診察があるんだけれど)感じ。

気付くともうこの時間帯は暖かくて過ごしやすくなっていたし、花も咲いていた。私が自分と葛藤し、進まないうちに季節や世の中はどんどん目まぐるしいほどに変わっていっている。ついていけないまま、というか無理やり生きるために引っ張られている気持ち。不思議な感じだけど、生きていくためには適応するしかない。


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写真を撮るのが好きになったのはいつだったんだろう。今思い返してみても、詳細は思い出せない。だけど、当時の自分が心躍るほど熱中したのは確かに覚えている。中古の一眼レフを持ち、色々なところへ行った。修学旅行での思い出も、このカメラなしでは進まないだろう。それくらい私は写真を撮ることが好きだ。元々、アクティブな人間ではなかったけれど率先して外に出るようになっていた。

しばらくして(元々冬は調子が崩れやすい)、外に出ることが出来なくなった。学校に行くので精一杯で外に出て写真を撮る、写真のために出かけるなんて出来そうになかった。あんなに一緒に過ごしていた一眼レフの設定をいじるのが面倒になり、何よりカメラが重く感じた。実際はそんなに重くはないんだけれど、鬱の倦怠感というかあの身体が重だるい感じのときには、重く感じられて仕方なかった。こんなもの、と思ったけれど捨てずに机の上に置いていたけれど、次第に、見るのも嫌になって隠すように机の奥に置いた。

絵を描くこともまともに出来なかった。どちらも楽しい趣味なはずなのに、やることが億劫でそれをするくらいなら寝ていたかった(眠れる訳じゃなく、ただ横になっているだけなんだけれど)。30分絵を描くことが出来ただけで感動した。たったの30分、自分の趣味が出来ただけ。それだけなのに、泣いてしまうほど嬉しかったのだ。鬱は厄介でお荷物だなぁと今でも思う。

少しだけ暖かくなってきた季節になり、今は少し落ち着いた感情の起伏。毎年ここまで来るまでに自分にはたくさんの爪痕が残る。だけどそれも1つ思い出として、前を向いていくしかないんだろうなと感じる場面がよくある。そうするしかない、また今年も冬に怯える春が始まるんだろうなぁ。

 

私は多分言葉にすることが好きだし、逆に言葉じゃなくても伝わる何かを作ることも好きだ。文章を書くことは好きだけれど、それだけでは伝わない感性というか、そういうのを絵や写真で表すのが好き。人に何かを伝えたりするのが好きなんだろうな。趣味や特技と言えるほどかと聞かれるとそうでもないんだけれど、先生たちからも趣味や特技は比べるものじゃないって言われたから、誇れはしないけれど多分、絵を描くことや写真を撮ること、文章を書くことは趣味や特技というものなんだと思う。

ただ、まぁ、そういう症状だから仕方がないんだけれど鬱のときは何も出来ない。底なし沼のような深い深い苦しさに入ると、趣味なんて言っていられなくなる。日常生活でさえ、ままならなくなるんだから当たり前だ。趣味をすることが逆に苦痛に感じられるし、気持ちが落ち着くこともない。頭を働かせるほどの元気もないのに、ずっと頭の中では色々な考えが巡り巡っている。それに疲れて休みたいのに休めないし、とにかく苦しい。時間が過ぎるのがあまりに遅く、思考は一向に進まず、やっていられない。

眠ろうと思っても眠れたものじゃないし、浅い眠りの中で見る夢は大抵悪夢だ。そんな生活を続けていたら余計に鬱が悪化してしまう。為す術もないんだけれど。

 

春が近付いてきているおかげでやっと前向きになれてきてはいるものの、それでもそう簡単に頭の端っこに常にいる希死念慮というものは消えない。それこそ、健常者には理解の範疇を超えるのかもしれないが、楽しい時でも苦しい時でもいつでもそいつは頭に住み着いているのだ。楽しい時であれば「この楽しいのが終わったらまたしんどくなるんだろうなぁ」とため息が出てしまうし、苦しい時はもう頭の端っこどころじゃなく考えの中心にいる。こいつを飼い慣らすまでは生きやすくはなれないんだろうなと思う。

けれど、私は鬱になったことに(感謝はしたくないけど)後悔はしていない。それでこそ拡がった視野や、支援の手、知ることの出来た温かさがあるから。鬱じゃなければ、今の主治医や前の主治医、PSWさんやカウンセラーに出会うことはなかったし、教員とここまで仲良く(?)話が出来るようにもならなかっただろう。今も繋がる支援の輪は、私が鬱だったからこそ、そしてその支援の場があったからこそ繋がっている。それに私は何度も救われたし、そういう輪を作る第一人者になりたい。それによって、助けられる人を増やしたい。

私に夢が出来たのは、私を助けてきてくれた人達のおかげだ。それこそ、私の道を作ってくれたと同等なことだ。恵まれていたなと思うし、そういう場に踏み込む勇気を、「頼ることは悪いことじゃない」と思えた自分は褒めてやってもいいんじゃないだろうか。それを夢として、きっと繋げていく。一人一人に恩返しは難しいかもしれないけど、こうして循環させていくことで出来る恩返しはあるんじゃないのかなぁと思う。

 

ほんの少し前までは、艱難辛苦で進むことも出来なかった自分にそういう考えが生まれたのは驚くべきことだし、人間ってやっぱ面白いな。