可視化→言語化

私にとって言葉や文章、こういう場所は自分にとって不確かなものを頭の中で整理し、具現化していくことでそれを確かなものにして落とし込んでいくような役割がある。可視化(目に見えるものにする)は楽だし何より手っ取り早い、自傷も多分そんな役割。だけど、それを繰り返していると言語化する力がどんどん衰えていく、気がする。松本俊彦さんの言葉を借りてみると、

 

リストカットしている人たちが切っているのは皮膚だけではありません。彼らは皮膚を切るのと一緒に、つらい出来事の記憶やつらい感情の記憶を切り離してなかったことにしているのです。

 

まさにそうだと思う。それらを言葉にする前に切り離し、考えない。けれどそれはしなやかさにかけるやり方、良くいえば孤独な対処法であるし、悪くいえば荒療治だなぁと。実際自傷をしている人から「それが言いたかった、それだ。代弁してくれたような気持ちになりました。ありがとう」と言ってもらえることが何度かあったのを見るに、自傷をしている人は気持ちを言葉にする変換能力が十分でない部分があるのかもしれないな、とも思う。というか、多分他の人より情報過多になっていて処理しきれないんだろうな、と。キャパオーバーみたいな感じ。

言語化ができる場所ーーがなければ私は多分パンクしていたし、落とし込んでいく過程で「自分はこんな考え方をしていたのか」だとか「こういう考え方がこういう行動を生むのか」と気付けることも色々ある。自分の知らないうちに自分の考えていることが見えてきたりして、不思議な気持ちになる。頭の中にあるときは確かにそうだと思ってはいるんだけれどそれを文章にしてみると割と違ったりする。言葉にしてみると少し難しいけれど、脳で考えることと変換して言葉にすることはまた違う。カウンセリングって割とこういう役割だなと思っていて、喋っている中で自分の新たな考えや自分のパターンに気付けるんだろうなあ。

 

変換をすることで自分の頭の中が見えるのは面白い。

「他人に自分のことを完全にわかってもらうなんて無理だ」なんてよく言うけれど、個人的には自分は自分を理解することさえ困難に感じているのでそもそも「自分がどれだけしんどいのか」とかをわかってる人(それも含め客観的に見ることができる人)は素晴らしいなと思う。それを考えることが得意じゃないから目に見える形で変換したがる。例えば自傷でも、腕を切るであったり、薬を飲むであったり、壁を殴ってみたり。時によって違うけれど、それをすることで「そんなにも自分は辛かったのか」と心の傷を可視化出来る。目に見えないものはものさしとしては不十分で、だからこそ病み垢で「傷が浅いやつはうんたら」みたいなことを言う人が出てくるんだろうなと。傷は「どれほど辛かったか」をわかる計りにはなるけれど、それは他人に適応できるものではない。自分自身でのものさしであるだけで、他の人と比べてどうこういうものではないんだろうな、と思う。理解していなければわからないことだけれど、それがわからない人なら「傷は深いほど辛い 引っかき傷程度の傷でわぁわぁ言ってんじゃない」とキレているのも頷ける。そういう考えもあるんだなぁとかそれくらいにしか思えないけど。

 

そもそも心の傷を比べること自体可笑しい話なんだけどな、人によってキャパは違うしそれを見ることは出来ない。100mlで感情が溢れてしまう人もいれば、500mlでも溢れない人だっているだろう。底に穴が空いている人もいれば穴は空いていないとても小さな器の人も居る(世間一般でいる器が広いとか狭いとかそういう意味ではなく)。ただ100mlの人が溢れたその瞬間に苦しいと思うのは当たり前だし、「どうして自分だけ」となるはずだ。500mlでも溢れない人はしんどさを抱えつつもまだ溢れていないからと我慢する。泣ける人と泣けない人ーーとか、そういうのもあるのかもしれない。人前ではへらへらしてるけれど、頭の中はぐちゃぐちゃな人。それほど辛くなくても涙が溢れて止まらない人。人それぞれ。どちらがいいかだとかそういう話ではなく、心の構造は難しいものでそれを比べようとするとなかなか難しいものがあると思う。骨折だとか、確かに目に見えるものならわかりやすいのにな(だからこそ目に見えるものに変換したがる=可視化になるのも仕方ないのかもしれない)。

 

だから、心の風邪という表現ももしかしたら間違ってないのかもしれないなーと思う。馬鹿は風邪引かない(=風邪を引いて居ることに気が付かない)と言うのも、同じような状況に経ったとき心の風邪ーー鬱になる人もいれば、ならない人も居るだろう。同じ負荷だとしても、結局は自分が気付かなければならない。繊細で、優しい心の人ほどそれに気付いてしまい崩れてしまうのかもしれない。悲しいけれどそんな世の中なんだろうなと思う、わからなければ楽だし、知らなければよかったと思うことはたくさんあるから、そんなもんなのかなーと。ただそういう人ほど「自分は違う」と思う傾向がある気がする。認めない、認めたがらない。「自分はまだ大丈夫だ」という言葉は、ある程度心身の健康が保証されている人を勇気づけるには十分かもしれないが心身疲弊している状態では追い詰める他ない。大丈夫だと思っているうちに全てが崩れてさようならになることだってあるだろうし。

 

大丈夫という言葉は、信用していい言葉ではないと思っているし、そもそも、「大丈夫?」って聞かれて「無理!しんどい!」と言える人ならばそこまで苦しむことは無いだろう(援助希求能力があるから)。

「大丈夫?」と聞かれたら「大丈夫だよ!」と答えてしまう人は生きにくいけれど、それを変えることも出来ない。まあでも、「大丈夫?」と聞くのはただの作業だと思う。そこで、「大丈夫だよ!」と答えたときに「そっか、よかった」で話が終わってしまう人は「大丈夫ってこの人は言ってたから」と保険をかけているだけな気もする。ただの自己満足でしかない、その言葉に安心しているだけ。私は心配したと、そういう気になっているだけ。

「しんどいよね」と言葉をかけられたなら、少しはハードルも下がるかもしれない。「しんどくないです」と言ってしまう人も居るだろうが、大体の人は答えられずに愛想笑いするだけだろう。愛想笑いでも、言葉に出来なくても、それは大切な意思表示であると思う。自己肯定感が低い人ーーとりわけ、故意に自分を傷つける人ーーは、援助希求が乏しい。その乏しさを、少しでも補えるのは周囲の働きかけ次第なんだろうな、と。

 

言葉にすることは難しい。こうして文にすることはできたとしてもそれを頭で整理して口に出す行為はとても辛い。何故だか分からないけど、「死にたい」とかの言葉は口に出そうとすると詰まってしまう。何でなんだろうなぁ、未だに頭の中では「悪いこと」として考えているんだろうか。今までそうして「悪いこと」に蓋をするように教えられてきた自分には、それを口に出して、助けを求めることが正しいと思えなくて。そういう思考はなかなか変えられるものじゃないし、そもそも世の風潮がそちらに傾いているんだからそういう考えになってしまうこともあるんだろうな。

 

言葉にすることが上手い人は本当に二極化する。脳内処理が上手くて自分の状況を把握出来ることで、生きやすい人もいれば自分を客観的に見て絶望してしまう人もいる。私は後者だし、大体の人は後者だろう。前者は養育環境もよく、その他にも恵まれていればなりうるだろうけれど少し難しそうだなと思う。レジリエンスが突出しているタイプかもしれない。そもそもの愛着がーーとか、そういう問題もあるなあ、と。結局は生育環境や気の持ちよう(というと聞こえが悪いけれど、気持ちをどう取り扱うか、取り扱えるかというのは元々生まれ持った素質だと個人的には思っている)なのかなと。インナーチャイルドを先生達は卒業までに育て直してくれて自己肯定感の高い人にしてくれると言ってくれているのでその言葉に今は甘えてみようと思う。こうやって支援があることで私は生きている。虐待されても、性被害に遭っても、いじめられても。そんな過去があっても、今を生きる手助けをしてくれている先生たちには頭が上がらない。それを伝えている、伝えていないは関係なしにただこうして楽しい毎日を送らせてもらえているのはすごく有難いことで、治療ーーとか、そういうのよりも日常でただくだらない話をして笑って、なんていう時間も大事なんだろうなと。私はそういう時間が一番好きだし、「何も考えなくていい時間」は私にとっての救い。ずっと頭の中でぐるぐるしている感情や思考がその間だけはスっと頭から抜けていく感覚。

 

私もそういう大人になりたいと思うし、今こうして言葉にすることで人の脳の整理や気持ちの整理をお手伝い出来ているならとても嬉しいな、と思う。