自己肯定感と感覚の違い

感覚の違いって大きいのかもなと気付いた。

例えば私は「もっと頑張らなきゃいけない」と思うと自分を追い詰めて苦しくなる、自己肯定感が低いタイプだけれど世界史担は同じ考え方でも向上心の塊でもっと頑張れる自分をわかっているから自己肯定感が高い。

「まぁこんなもんか」って妥協をしているように感じる体育担は自己肯定感が低いけど同じ考えの数A担は自分に見切りをつけるのが上手くて、妥協じゃなく、それを区切りとして理解していて生きるのが上手いからか自己肯定感が高い。

 

見切りをつけるにも種類があって、「ああもうダメだ」と思う見切りをつける、自分を下に見るような側面があるものや、「まぁこれくらいでいいかな」と妥協と言うよりは納得をする、それでもいいと思えるようになる。

元々の考え方の問題もあるのかもしれないけれど、前者は自己肯定感が低い上に生きにくい。何事においても自分が悪いのかもしれないが付きまとうし、終わりが見えない。どちらかと言うと視野狭窄か、むしろ客観的に周りを見すぎて据えているか。

後者は自己肯定感が高い場合が多いしだいたいは自分をわかっている。また、生きやすい。自分がどのくらいの立ち位置にいるのかわかった上でそれを認める力もあるので適応能力も高い気がする。適応能力が高いというのはなんせ生きやすい。それがしんどさの根源になる場合もあるけれど、それでさえもしっかりと見えているから。

 

私は完全に前者で、何か一つでも思い通りにいかないと全てが崩れてなくなってしまう感覚がある。

実際にそうだったかと聞かれると頷けるときもあればそうじゃないときもあるけれど、そのときの自分の絶望感と言ったらない。さっきから話していることは全て自分の中での考えの1部で実際に文献まである何かというわけでもない。ただ先生たち話していてちょうど均衡が取れているから思うことが結構あったのだ(養護教諭、体育担、私は自己肯定感が低い群で世界史担と数A担は比較的高い)。

ただ数A担の生き方に関しては「おお」と思うことがあった。先生には、かなり優秀で才色兼備、容姿端麗な兄があるらしい。私や周りからしたら数A担も上位に入るような顔立ちをしているのでわからないけれど、それは当人からしたら苦痛なのかもしれない。

才能がある人が居る。私は逆で(いや、私に才能がある訳では無いけど)、姉や弟は手が離せないくらい心配になるほどに学業の成績がよろしくない。私はどちらかと言えば勉強が出来ない方ではない、いや、それも違う。勉強の仕方を知っている。姉や弟は、それを知らない。だからなのか、私は母親に常に「あんたは大丈夫だから勝手に生きてくれ」と言われた。

口を出さない親だと感謝するべきなのか、薄情だと引き離したらいいのか私には分からないし、数A担の親御さんがどういう教育を生してきたのかも分からない。

でも、少なくとも数A担はそんな兄に追いつけない自分に劣等感があったらしい。私がその状況だったら塞ぎ込むけれど、先生は「でも自分は自分だ」と見切りをつけた。

結局自己肯定感というのは見切りをつけるだとかそういう事象で決まるものなのかもしれないなと思った。力の抜き方を覚えることもそのひとつなのかもしれない。

自分を高めることで自己肯定感を保つ人もいれば、自分が高まっていくたびにそれが手元から消えてしまう感覚を恐れて自己肯定感が下がっていく人も居るだろう。

そもそも自己肯定感というのは愛着形成が上手くいっていればわりかし高い確率で上がっていくものなのかもしれない。

「自分は褒められてもいい存在だ」

「自分はこのくらい手を抜いてもいい」

という感情はそれに慣れていない人には到底出来ない。手の抜き方を知らないから全てを全力でやる、そのうちにパンクしては、自己肯定感が下がる。そういうことを繰り返しているのが私なのかもしれないなと思う。

 

自己肯定感が高くてストイックなのはすごくいいことだけれど、自己肯定感が低い上にストイックだと生きにくい他ない。どんなに自分を追い込んでも「まだ」だと思ってしまう感覚は、それをわからない人からしたら不思議なものだと思う。けど逆に私は自己肯定感が高くて自信のある人のことは理解出来ないし、羨ましい、素敵だとは思うけれど自分になれるものだとは思えない。

 

前回のテストで私は数A、英語共に90点を超えた。

だけどそれは100点ではなかったし、とにかく悔しかった。勉強をする時間もなかなか取れず、頭の中は他のことでいっぱいいっぱいでそんなもの考えている余裕もなかった。

「得意教科がないんですよ」と話した私に先生たちは驚いてた。「90点超えるってすごいことだよ」とか、「琥珀が点数上がってくたびに俺も嬉しくて自己肯定感があがるんだよ」とか、「…俺なんか数学32点だったけど…」とか、「世界史もできるやん!」とか。

なんか、とにかく色々なことを言われた気がするけどとにかく自分には自信がない。

担任と体育担に同時に「でも絵上手いじゃん」と言われたけれど、「私よりも上手い人はたくさんいる」と答えた。勉強に関してもやっぱり自分よりも上がいると思うと頑張っているとか得意とは思えない。

数A担に言われた「得意は自分の中だけで見ていいんだよ、他の人と比べる必要は無いよ」って言葉は確かに真っ当なんだけれど、それをやろうとすると難しい。

わかっていてもわからないことというか、確かにそれに納得してはいるけれど腑に落ちていない部分があるという事柄は自分にはよくあることなのかもしれない。

 

「自己肯定感が低いと褒められることが苦手になりがち」

というのもなかなか頷ける話だった。

褒められるのは気持ち悪い。嬉しいだとかは思えない、なぜそんなふうに思うのか、わからないのだ。

「私が認められない私を褒める他の人」が不思議に見えて仕方なくなる。かと言って自分を認められるときがあるかどうかと言われるとそれもないので余計にしんどい。

ああとにかく生きにくい。

生きにくいけれど、生きにくいからこそこうして周りからの支援も手厚いんだろうなと思う。

感謝という言葉も可笑しいけれど、母親がこんな反乱狂(?)じゃなければ、こんなにも福祉や支援してくれる人に出会うこともなかったと思う。ここまで深く先生たちと関わることや、くだらない話を聞くこと、プライベートな話まで入るきことなんて出来ないはずだ。

そう思うとなんだか少し感謝してもいいのかもしれないなと思った。

 

7時半になるまで話していたメンバー(担任,数A担,世界史担,体育担,養護教諭)は、「卒業までに琥珀の自己肯定感をMAXにする」と意気込んでいるので少し楽しみにしていようかな。