ことば

私は基本的に他人の言葉で成り立っている。今生きているのもたくさんの言葉に押し問答された結果で、故に自分には中身がない。中身がないというより、中身は他人が作っているというのが正しいかもしれない。表面的には、ある程度豊富な知識でバリアが張られているのでそうは見えないかもしれないけれど、ともかく中身がない。

 

私は人との出会いは、それに全ての運を使ったんだろうかと言うくらいには恵まれている。今まで出会ってきた大人の中でまともじゃないのは親くらいだろう。まともじゃないという表現はちょっと過激ではあるけれど。それくらい、恵まれている。

記憶の残っている中学から、今の高校まで全てにおいて「そんな学校あるんだ」「そんな先生いるんだ」と言われてきたくらいには、生きやすい環境にいる。出会ってきた先生で「この人は違う」と感じたことがある人はほとんど居ない。先生たちに言われて「あ、それかもな」と思ったけれど自分は周りをいい人にすることが上手い。友人からしたら「嫌い」な人達も私にとっては結構好きだったりする。着眼点が違うというか、とにかく人のいい所を見つけるまでが早い。だから、人との出会いや関係性はかなり良好だししんどいと思うことはほとんどない。不可抗力、いじめられてたときのメンバーを好きになることは出来ないけれど。

 

思い返せば中学で自殺を思い留まったのも、養護教諭と担任からの言葉だった。「最期に○○ちゃんを見るのがお葬式なのは悲しい」と言う言葉はなんだかすごく現実味がなくて不思議だったけれど(もうそのときは死ぬ方法も決めていたし)、自分のエゴだと前提を置いた上での先生からの言葉の重みはかなりあって、ずしりと私の体の上に乗ってきた。

「成人式でまた全員揃ってパーッとやるぞ」。担任からのこの言葉は、私だけに向けられた言葉ではない。クラス全員に、先生は言った。けど、だからこそ、私には感じるものがあった。死んでしまったらここにいる全員が願っていることは一生叶わないんだろうな、と。自分がどうだとか、悲しませるとか、そういうのじゃなく自分の行為によって叶わない夢を人に作らせてしまうのは悲しいことだと思った。

 

高校に入り衝動的な希死念慮を落ち着けたのも、同じく先生からの言葉だった。体育担に言われた「前任校での自殺した生徒の話」は、正直あの煩い声の響く体育館で聞くような話じゃないくらいには暗く、重かったと思う。全てに絶望して、運動をする気にもなれず座り込んでいた私にその話をする選択をしてくれた先生には今でも感謝してもしきれないほどだ。

その時に、先生は笑っていた。私が気まずくならないように、笑って話をしてくれていた。だけど、すごく悲しい顔をしていたのは覚えている。「俺は、その子とめちゃくちゃ接点があったわけでもなかったけどとにかく悲しかった。こんなに接点がある琥珀がそうなったら、俺めちゃくちゃ悲しいよ」と言いながら、私の顔を覗き込んだ先生の顔はやっぱりどこか苦しそうだった。

 

先日、他の先生からもそういう類の話をされた。

てんかん発作で亡くなった生徒の話。先生は、未だにずっとその子の写真を持ち歩いているらしい。私はいつもしんどいときに「死んだら周りは悲しむだろうな でもそれよりも今の自分は苦しい」と思うことで、自分を正当化することでいつ死んだっていいと思っていた。だけど、(事故であれ、作為的であれ)残された側の感情を知ることは私はなかった。それを、初めて具体的に聞けた気がした。

「まだ、忘れてないの。忘れられてない いや、忘れるつもりもない。私は一生この子のことを忘れられることはない。とにかく悲しくて、辛くて、どうしたらいいのかわからなかった。私はもうそんな経験したくない。あなたに生きていて欲しい。綺麗事とか正義感とかそんなのどうでもよくて、あなたがどれほど辛かったのか私には分からないし分かれるとも思ってない。あなたがどうこうじゃないの、私が悲しいの、辛いの。もうこれ以上、耐えられないの。だから、絶対に死ぬのだけは辞めて」と、いつもよりも強い口調の先生は言った。

痺れるような感覚がしたし、そうか、そうだよな と、なんとなく納得もしてしまった。全く知らない人が死ぬことではなく、知っている人、しかも支援していた人が死んだとなったら話は全て違うんだろうな。私からしても、死を受け入れることは難しいと思う。そう簡単に「はいわかりました、さようなら」が出来る話ではない。感覚的にはわかっていたけれど、ここまで体の中に入っていくようなことは初めてだった。そうか。今まで私が見聞きしてきたのは、「あなたが死んだら私は悲しい。あなたはかけがえのないもの」みたいな薄っぺらい言葉だったからだ。

私には、そんな言葉要らなかった。かけがえのない命だと思われること自体存外だった。だからこそ命を軽視していた部分もあったのかもしれない。

 

言葉は時として凶器にもなりうる。中学時代、いじめられながら痛いほどに実感したことだ。確かにそうだった。けれど、言葉は人を救うことも出来る。

口に出さなければわからない、思ってるだけでは伝わない。なんて面倒な作業なんだろうなと思うときも勿論あるんだけれど、結局私は他人からの言葉で生きているわけだから私の生きる糧である言葉を発することは、辞めることなく続けていきたいと思う。

 

口に出すのは難しくてもこうやって文にするだけで心を落ち着けることや、周りに伝えることは出来るし自分の状態を客観視するには文章にしてみるというのはなかなかいいことなのかもしれない。

私は結構好きだ、これを苦痛に感じる人もいると思うけれど。だからなんだかんだ持久走のレポートも楽しみだったりする。私がまとめた言葉を先生たちが読んで吸収をした上で評価がもらえるなんて有難いことだ。それがどこか先生の1部になればいいなと思いつつ。色々とよくしてもらっているわけだし、頑張ってみよう。