取捨選択と前進

2020年は波乱の1年だった。それは私だけじゃなくて、私の身の回りの人も、きっと私の知らないたくさんの人たちにとっても、だと思う。振り回されて、悩んで、苦しんで、それでも前進して、また悩んで、人に頼って。少しずつ自分の足で歩き始めた1年だった。

私は本当に自分から人に頼ることが出来ない人間で、今まで川の流れに身を任せてのらりくらりと生きてきていた。自分から泳ごうとせず、ただ流れるままに進んでいた。だけど、2020年は自分から進んだり、選択したりすることがとても多かったように思う。SSWと話すようになったのも、児相との面談も。初めて自分から、人に自分の意思を伝えることを覚えた。覚えたというか、その勇気を持てるようになった。ずっとずっと、自分から人に頼るなんて、死にたい癖に何を考えているんだと思っていた。カウンセリングや日時の決められた担任との面談など、決まった枠組みの中でしか、自分を語ることが出来なかった。けれど、今年から担当になったSCさんにふと言われた「楽になる方法を考えよう、何もしないまま終わらせちゃうのは勿体ないから」という言葉に胸をうたれた。そのとき、死にたい自分も、死ぬつもりの自分も今の自分だけれど、何より、今を生きている自分も、自分なんだと思った。どんな感情を抱いていようと、わたしは確かに いま を生きている。どうなるかもわからない未来や、もう変えられない過去に左右されて、いまを無駄にしてしまうのはそれこそ無意味で、生産性のないことなのではないだろうか。どう足掻いたって未来は来るけれど、いまを生きやすくできるのは、いま生きているわたしだけなんじゃないか。そこから、少しずつ自分自身で動くようになった。

そのSCさんと会えたのも、初めは自分の勇気だった。勇気というか、ヤケクソになっただけだけれど。学校からの連絡で、自由記入欄に「学校また休みになるって聞いて絶望してます、疲れました!」と書いた。もう本当に、ボロボロな生活をしていた。数日に1回、1食摂るだけの食事。薬を流し込んでなんとか朝方に眠る毎日。怒鳴り声に耐えきれず、解離やフラッシュバックを繰り返し、こなさなければいけない課題を泣きながら解いていた。もう仕方ないと諦めていたけれど、それでも何か、どこか、手がないかと思っていたんだと思う。新しい担任からすぐに電話が来て、「学校に来ませんか」と。そこから週1日、2時間から、3時間、週2、週3…と学校に行く日が、滞在時間が延びていった。絶望して過ごした3月からの毎日、久しぶりに入った学校で私を待っていた先生たちは何も変わっていなくて、変わったのは私だけだった。まともに食べれない状態で、母親と弟のために毎食5品を料理して自分は食べないなんていう生活を続けていた私は、休校前よりはいくらか痩せていた。そんな私を見て、「痩せたなぁ」なんて言いながら、お菓子を私に渡してくれる先生。教室の真ん中の席に座った私の1個席をあけて隣に学年団に新しく入った家庭科の先生、同じく左隣に養護教諭、教卓に数Ⅱ担、後ろに社会担、斜め後ろに体育担、廊下には担任と学年主任と元担任。私の机に積み上げられた先生たちからの差し入れと、たくさんの先生たちと話した時間で私の胸はいっぱいになった。不安を抱えながらも、頑張ろうと思えた。そして出会えたSCさん。もっと遡ると、社会福祉士の方や心理士さんとお話をする機会があったり、色々なことがあったけれど。

それまでの私はどこか受動的というか、なすべき方向へただ進んでいくだけ、自分から進んでいる訳ではなくレールの敷かれたトロッコに乗って体育座りしているだけだった。1月、主治医が変わっても、2月、死のうとしても、3月、PSWからの連絡で、病院へ母子支援センターの担当が来たときも。

 

何かしら毎月あった気がするけれど、いい物だけを取り上げても仕方ないので自分の気持ちが動いた瞬間の出来事は切り抜いてここに保管しておきたいと思う。

上記に書いたものが主になるけれど、1月は主治医が変わったのが1番大きかった。予約を漕ぎつけ中2の4月から通い始めた児童精神科の主治医。先生は、美人で、凛々しくて、意見をズバッと言ってくれる人で、母親は先生のことをたいそう気に入っていた。月2回、30分から1時間ほど先生と話せるその時間が大好きだった。そんな先生が産休に入ると知ったのは一昨年の10月末。12月が最後だと言われ、何度も悩み葛藤した。先生へ不信感が募ったときもあったし、祝福すべきことなのに心から祝えない自分に嫌気がさし、診察終わりに泣いてしまったこともある。そんな先生が居なくなっても、私の希望だった、それこそ陽性転移をしているような、それくらいに大切だった先生が病院から居なくなっても、私はやっぱり生きていた。なんだかんだ、必死に生きていた。先生と、「また会う日まで、お互いがんばろう」と交わした約束を、律儀に度々頭に浮かべては、頑張ろうと思っていた。今も先生を思い出して泣いてしまうことがあるけれど、4月までにはまた会えるという先生の言葉を信じて待っている。

2月、母親が部屋を漁り、これ見よがしに家族全員が見える場所に剃刀や血だらけのノートを捨てていた。それを見た私はもう怒る気力もなくなっていて、もう母親とはやっていけない、次に母親と会ったら終わると思い死のうと思った。次の日に死のうと決めた夜はとても穏やかな気持ちだった。中学養護教諭と話して、先生は高校へ連絡をしてくれていて。飛び降りる場所がなくて焦った私が、授業が終わってから駅へ行こうと思い朝の予鈴の鳴る時間ギリギリに教室に戻ったとき、教室に入ってきた副担任が、担任に「居ますよ」と言っていて、担任が廊下で体育担と話しているのが見えた。そのとき、やってしまった、と思った。それからは自分が想像していた方向とは正反対に物事が進んでいって、児相に連絡がいったり、先生たちと何時間も話して初めて先生たちの前で泣いてしまったりした。先生がしてくれた話はどれも知らなかった話ばかり。昔、亡くなった生徒の話。先生の家の話。そんな何人かの先生たちの話を聞いて、中学養護教諭とも電話で話して、そのときは確かに、「生きよう」と思った。ベッドで横になりながら養護教諭と話した話も、学年主任が買ってくれたお茶も、社会担が買ってきてくれたアンパンも、先生たちとした真剣な話もくだらない話も。気付いたら19時を過ぎていて、家に帰らなければいけなくなって。その瞬間、死にたくて、このままバスで駅まで行って死ねばいいと思った。最高の思い出が出来たんだから、もういいと思った。けれど、体育担から「休み明け、俺に直接返してね」と渡されたお守りと、バスで一緒に帰ってくれた今の担任と1年のときの担任の優しさで、生きなければいけない、今は死んじゃいけないと、改めて思った。死にたいと生きたいが、何度も行き来した日だった。

2月は調子も安定せず、病院通いの毎日だった。点滴、採血、他にもたくさんの検査をした。胃カメラは怖かったけれど、看護師さんがかけてくれた言葉が優しくてまた泣いた。ルートをとるとき私の腕を見て、色々な言葉をかけてくれる看護師さんたちがいた。内科の担当医も頭を悩ませたくらいに、身体的な異常はなかった。会うたびに痩せていくと主治医が心配してくれた。そして、前々からそれらしいところはあったけれど、改めて摂食障害だと言われた。3月、入試休みが終わって、やっと落ち着けると思った瞬間の休校。絶望の中4月の終わりにやっと助けを求めることが出来た。短い間だったけれど、数回話を重ねた社会福祉士の方と心理士さんから言われた「なにも頑張らなくていいですよ。少しでもゆっくりできる、それだけでいいです。もう十分頑張っていますから」という言葉も、私を支えてくれた。

コロナに振り回された1年だったけれど、あれがなかったらきっと私は今も川の流れに身を任せるだけの生活をしていたと思う。

 

そして繋がった新しいSCさん。今までのカウンセラーは、だいたいが文系で、穏やかで、傾聴が主な女の先生ばかりだった。今のSCさんは理系でズバッと言葉をかけてくれるのでなんだか元主治医と重なった。ただ解決へ向かっていく事務的な作業じゃなくて、「本当はこうだけど、それはわかっていても怖いよね」と、カウンセラーとして気持ちにも寄り添ってくれて傾聴してくれる人だったから安心して色々な話をすることが出来た。カウンセラーの自己開示は賛否両論あるけれど、私はそれによってSCさんを信頼することが出来たし、この人になら話せると思った。うちの学校はどうやらカウンセリングを受ける子はあまり多くはないらしく、コロナでの休校もあったので比較的ゆったりとSCさんと話せることが多かったのも信頼するのに時間がかからなかった理由かもしれない。一緒に相談室を掃除したり、レイアウトを変えてみたり、絵しりとりをしたり、料理の話をしたり… 暗い話以外も出来たから、グッドニュースだけを伝えようと思わずにしっかりとバッドニュースも伝えることができた。わたしはSCさんにとってたくさんのクライエントのなかの1人だけれど、私はSCさんに本当にたくさんの(気持ち的な意味での)ものをもらった。直接は言えないだろうけれど、進むための勇気をくれたことへの感謝をすごく感じている。

9月と10月、SSWや児相の担当と話をした。その後、病院からのアプローチもあり再度別日にSCさんと児相担当が話した後に、SC+児相担当+私で話をした。私の気持ちは揺れていた。どうにかしなきゃいけない、私にはもうあと1年しかないという焦りと、どこか優しさを見せる母親を見ているとこのままでいいんじゃないかという気持ち、そして母親自身も悩んでいるんだろうなというのが伝わるからこそ児相が家に介入することで母親にとっての"敵"(実際そんなことはないけれど、母親がそう感じるかもしれないという意味で)を増やしてしまうのではないか、母親が崩れてしまうのではないか、色々な感情が入り交じった。前よりはSCさんが隣にいてくれたから話せたものの、上手く言葉に出来なかった部分もあって深くため息をついた私に、SCさんは「よく話したと思います。お疲れ様、頑張ったね」といつもの優しい笑顔で声をかけてくれて、私は今、誰のために、なんのために、必死になっているんだろう、と思った。わからなくなった。自分の支援の場で、自分の首を絞めているような。私が望む、母親も、弟も、あわよくば私も幸せに、なんて無理なのかな、と思った。SCさんも、児相担当も優しくて、私のことを考えてくれていて、それは救いだった。救いだったけれど、支援者にさえ ここまでしてもらったのに、もう後戻りはできない。ちゃんと自分で決めなきゃいけない。どう転がっても自分が悪いんだから、どうにかしなきゃ という気持ちでいた自分に気付かされた。

病院での心理士さんとの面談。放課後、最終下校時刻を過ぎてからも相談室で過ごさせてくれたあの時間の、先生たちとの会話。自分自身での葛藤。悩んで、悩んで、悩んで、方向はまた変わっていった。今はそれがベストだと思っている。ベストとは言わずともベターだと。母親の支援者を増やすほうが先だと、思っている。

母親に対しての感情もアンビバレントではあるけれど、なんとなく定まってきたような気がする。母親の実家は1階が工場で2階が家であり、あまり家族団欒の時間を過ごすことは無かった。だからこそ母親は、ふとしたときに「お小遣いをあげてるのは私がなくて嫌だったから。あんたは恵まれてる」、「行事ごとは家族みんなで過ごすものでしょ。私はそんなふうにしてもらえたことなんてなかったのよ」と言う。母親自身も愛情を渇望していたのかもしれない。愛し方を、愛され方を、知らなかったのかもしれない。そんな背景を見たら、母親を責めることなんて出来なかった。母親も母親なりに必死だから…と、SCさんに言ったときは複雑そうな顔をされたけれど、それでもやっぱり、私は母親の味方が誰もいないのなら母親の味方になりたいとさえ思うほどに、母親の気持ちに寄り添いたいと思った。それはきっと、心理や福祉、児童虐待について勉強をしてきたからこそ理性よりも知識が勝ってしまったんだと思う。それはそれで少し苦しい。本当は、お前が悪い、お前がこんな風にしなければ私はこうならなかった、大嫌いだと、母親に言えたら。そうしたら、ほんの少しは楽になれたかもしれないのに。母親を責めることが出来ない私は、怒りを矛先をどこへ向けたらいいのか分からない。そして結局は自分に向いてしまう、自傷してしまう。兄に対してもそう。兄からの暴力は暴言は怖いけれど、それも愛着形成の時期に母親から十分に愛されなかった兄が外側へと怒りが向いてしまっただけなのかもしれない。私はたまたま内側に向いたけれど、兄のようになった可能性もあるから、なんて思ってしまって、責められない。自分の感情なんて二の次で、まずは自分が悪いということにしてなんとか気持ちを抑えるしか怒りの処理方法を知らない。それはカウンセラーさんやSCさんからも指摘されていて、「人に対しての怒りの感情を人に対しての怒りの感情のまま持っておくことが苦手なんだね」「昔からそうやってきたから、今更変えるのも難しく感じるよね」と。

こうしてみると、やっぱりこの1年気付きが多かったなぁと。摂食障害しかり、解離性障害や他の疾患もしかり、強迫やストイックな部分、手を抜く方法を知らないところも、気付けたというのは大きいと思う。見ないふりをしていたら今もきっと、よくわからないけど不安な陰性の感情に支配されていたんだろうな。

 

あとは色々なことを始めた。始めたというか、極め始めたというか。心理や保育、福祉の勉強もそうだし、料理や裁縫、ピアノもそう。元々絵を描くとか一眼レフで写真を撮るくらいしかしていなかったけれど、たくさん趣味を見つけられた。これは有り余った時間のおかげでもあるし、周りが褒めて伸ばしてくれたからっていうのもあるんだろうな、と。支援者も沢山増えた。元々十分なほどいた私を助けてくれる人達が、また増えた。それはいまを生きる私に安心感を与えた。先生たちが「頑張ってくれてるの知ってるから、こっちも頑張って色々やれてるよ」と言ってくれるから私もまた頑張れた。テストでいい点数を取れば、成績がよければ、先生たちは喜んでくれる。それがまた、少し恩返しができているような気分になれた。何かの代表者に選ばれたり、ポスターを描いたりフェルトでワッペンを作ったり…という頼まれ事をこなしたり。私のやれることで、もっと人から認めてもらえることに安心した。自分で自分を認めることが出来ないからこそではあるけれど。成績に安堵する自分を見ながら、「自分で自分を認めてあげることが出来ないんだね。成績とかでしか自分を信じられないんだね」とSCさんに言われたことを思い出した。数値化された絶対評価でしか自分自身の努力を認められないのは少し厄介だなぁとか、これが過剰なストイックさに繋がっているのかなぁなんて思ったりもした。それと同時に、支援されるたびに、たくさんの人が私を助けてくれていることを実感する度に、未来への不安も増した。

卒業が今まで以上に怖くなった。

高校に入学する前から卒業を恐れていた。それは中学のときに同じような経験をしていたから。そして、入学して想像以上に沢山の人に助けられる中で、卒業がもっと怖くなってしまった。卒業したら、今の病院は児童精神科なのでこのまま主治医やPSWさんや心理士さんと話すことはなくなるだろうし、青少年相談センターも終わり。学校を卒業すれば今までのようにSCさんと話すことも、先生たちと毎日のように話すこともなくなる。児相も誕生日が遅いのでちょうど卒業の頃まで。一人暮らしのため、引っ越すので友達に気軽に会う回数も減ってしまう。今ここまでたくさんの人に支えられて生きている自分が、慣れない場所で、生きていくことが出来るのか。もっとも、もう言い訳なんてできない。いや、言い訳じゃない、今までの過去は確かにあったことだし、それによって傷付けられてきたことは事実だけれど、その過去に縋って、辛いからと甘えていることはできない。もう大人になる、自立する必要がある。優しさに触れるたびに、表面は埋まるものの深層にある母親から愛してもらいたい、認めてもらいたいという気持ちが燻られてまた表面に穴が空く。いたちごっこに付き合わされる先生たちへの申し訳なさも、それをわかっていてもなお支えてくれる人が近くにいないと生きていけない自分を恨んだ。中学の担任が言っていた、「いいんだよ、迷惑かけて。それが仕事なんだから」という言葉を時々思い出す。

支えること、支援することが仕事の人にさえ気を遣うよりも、いつかひとりで自分の足で立ち上がれるように今は頼りながら生きていってもいいんじゃないのか。そんな気持ちと、甘えてるなよ、と思う自分と。いつもそうだ、母親に対しても、兄に対しても、そして、自分に対してもアンビバレントな感情に振り回されている。客観視するほどに嫌になる。本当は、もう嫌だって、ただそれだけなのに。達観したくなんてない、ただ辛いと言えたらいいのに。年齢が上がる事にそれは難しくなるのに、幼い頃からずっとこうして生きてきたからどうしたらいいのかもわからない。今年はそんな感情にもちゃんと向き合っていかなければいけないなと思う。あとはやり残したことを減らしていかなきゃな、あと1年と少ししかないんだから。

向き合うべきは、達観した私、周りから思慮深いという褒め言葉を貰えるわたしじゃなくて、いま、ここにいるわたしだ。ぐちゃぐちゃな感情も、全部、言語化しなくてもいい。わざわざ遠くから自分を見つめなくていい。どうせどう足掻いても、生きているとしたら大人にはならなければいけないから。だから、今はまだ、子どもでいるために。私が全て考えていることを抱きしめて、ひとつひとつ、確かに、わたしのものにしていけたらいい。私自身がわたしを否定する必要は無い。わたしが、私自身を否定する必要も無い。未来を必死になって考えても、どう転がっていくかはわからないから。まずはいまを見て、わたしを見て、また、少しずつ進んでいこうと思う。

艱難辛苦

幼少期からずっと埋まらなかった母親からの愛情を渇望する気持ちは、今も心の中に残っている。ふとしたときにぶり返して、閉めていたはずの蓋が外れてしまう。そうすると、ゴミ箱に入れたはずの「私を見て」「愛して欲しい」「抱きしめて」が溢れ出てきてもうどうしようもなくなってしまう。そして1番悔しいのは、私が求めているのは母親からの愛情、ただそれだけということ。どんなにむごいことをされようと、私の母親は1人しかいないし、確かに愛された記憶もあって、その記憶が余計に私を苦しめる。最初から愛されていなければ、愛された記憶がなければ、知らなければ、まだ幸せだったのかもしれないな、なんてたらればだけれど。知っているからこそ余計に辛い、気がする。

私に手を差し伸べてくれたたくさんの先生たちは、口を揃えて「家で甘えられない分学校では甘えていいんだよ」「私たちはあなたが必要だよ」と言ってくれた。嬉しかったし、心の穴が埋まった気がした。けれど、埋まった穴は表面的でしかなくて、根本の「母親に愛して欲しい」は私の心を燻り続けた。結局、根っこの穴が埋まらなければいくら表面的に穴が埋まろうと最終的にはまた穴が空いてしまう。母親の代わりなんて、誰にもならなかった。私はただ、母親に、母親だけに、愛して欲しかったから。先生たちからの優しさや愛情は、私が求めているそれとは違ったんだと、そう気付いてしまったときの申し訳なさ不甲斐なさ、情けなさは尋常じゃなかった。先生たちを、いたちごっこに付き合わせているようなものだと思った。何も変わらない私に、手を煩わせてしまってごめんなさい。そう思うと、自分から話をすることも出来なかった。そもそも死にたいのに相談するなんて、結局のところ生きたいんじゃないか、とか、死ぬ気でいるのに話を聞いてもらうなんて、どうせ死ぬのに無意味じゃないか、とか、そんなすごく歪んだ思考をしていた。

閉めていた心のゴミ箱の蓋が開いてしまうと、じわじわと過去の出来事が私を侵食する。フラッシュバックを繰り返して、私をそのときに連れ戻す。もう、殴られないのに、蹴られないのに、なのに、今されているかのような臨場感と恐怖が私を襲う。自分のなかで剥離させたはずの記憶が勝手に戻ってきては私を蝕むことが多々ある。暴言、暴力、全て、当時は麻痺していて痛くもなかったはずなのに、フラッシュバックしたときは確かに痛くて、怖くて、「ああ死ぬかもしれない」と確かに思う。こんなときは、何も覚えていなかったら楽なのになと思う。中途半端に解離するくらいなら、最初から全部覚えてなければ今の私は幸せだったかもしれないな、なんて。

 

神経症者にとっては生きていること自体が、そのまま負い目になる。だからこそ、誰からでも褒められると嬉しいし、誰からも認められたい。彼らのその欲求は幼児が欲するそれとは異なり強迫的であり、つまり、認めてもらえなければ生きていられないのである。

 

幼少期から否定され続けて育った子どもが、なんの支援もなしに外向的で自己肯定感が高く、幸せに過ごしていけるわけがない。存在するなというメッセージをいちばん身近な、いちばん信頼していたかった人からかけられ続けたわけで、絶望は底なし沼だろう。誰からでも褒められると嬉しいし、誰からも認められたい一方で、それで満たされることがない。または、満たされたとしても一瞬。だからこそ、何度も何度もそれを求める。承認欲求がとても強い。まさに強迫的な行為だと思う。自分で色々なことに気付いてしまう日々は苦しい。知らないほうが幸せだったと思う瞬間が幾度となくある。虐待だって、全て、知らないときは楽だった。知らなければ、悩まないし、苦しまない。それが当たり前だから。それが自分にとっての日常だから。気付かなければ、絶望することもない。勉強をしながら自分を生きながらえさせている一方で、それが原因での気付きによる苦しさはどうも治まってくれそうにない。気付いてしまったことを受け入れて、それをなんとか落とし込む他ないんだろう。勉強を始めたことで、元々あった離人感、自分を外から見ている感覚もより1層強くなり、自分が経験してきたことも全て本にでてきた事例を1つ読み物として読んでるような感覚に陥る。辛い経験を泣きながら話すことは出来ない。出来事、経験したこと、というより、とある人にそういうことがあった、そういう事例、として口にしている感じ。

私が1番辛かったのは、殴られていたときじゃない。蹴られていたときでもない。真冬に家から締め出されたことでも、毎日のように浴びせられる罵詈雑言に耐えているときでもない。それが虐待だと、知ってしまったときだった。自分が「辛い」と自覚してからは、いつも心のどこかでそれが私を蝕む。楽しいときも、幸せなときも。笑っているときも、どこかで「辛い」が私の邪魔をしている。常に棲み付いているそいつの飼い慣らし方を私はまだ知らない。知らないから、時々急に暴れ出すその感情にどうしようもなくなって自傷に走るんだと思う。根本が満たされないから、何も解決しない。芋ずる式で全部辛い。そんなの望んでなかった。楽になりたかった。楽になれるならなんでもいいと始めた自傷は、余計に私を苦しめるだけだった。汚い腕を必死に隠し、バイトも見付からず、夏は暑い。可愛い裾にレースがあしらわれたデザインの半袖も、上からカーディガンを着るしかないので着れない。この服可愛いな、でも私は着れないや。そんなことを服屋で繰り返した。

 

それから、自分を受け入れたら楽になれる、なんて謳い文句の本を何冊も読んだ。そこに答えがある気がしたから。悟るというか、こう、そういう領域にまでいってしまえたら楽になれると、信じていた。こういう人が宗教とかにどハマりしてしまうんだろうなぁ。

けれど、何も変わらなかった。変わるのが怖かったから。変わってしまったら、何も無くなってしまうと思った。今まで「辛い」と生きてきたから、それがなくなったときのことなんて想像できなかった。それこそ、傷と長年連れ添ってきて情でも湧いたのか、ってくらいに。そもそも、傷(今までの辛い経験)を手放すのが怖かったんだ。どこかで、私はいつも「この傷があるから仕方ない」と思っていた部分があったんだ。どこかでその傷に甘えていたんだと思う。傷に固執して手放さずに待っていたのはただの生き地獄だった。変わりたいのに変われない、変わりたいけど変わりたくない。だけど、今までされてきたこと、全てを恨んでいるわけじゃない。いじめも虐待も性被害も、それが原因で繋がれた支援者もいたから。むしろ、ここまで先生(教師やその他「先生」と呼ばれる人)や専門的な支援者(医者やカウンセラーや心理士、ソーシャルワーカー)と話すことが出来たのは、傷のおかげでもある。時々こうやって痛みを受け入れて、「これでよかったんだ」と思い込むようにするけれど結局は巡り巡って苦しいに戻ってくる。傷があったから出会えた人。貰えた言葉。それに生かされている自分になんとも言えない気持ちになる。自分の力で、自分のために、自分がそうしたいからと決められたことは人生の中でいくつあったんだろうか。生きることでさえ、ただ周りの人が悲しむのを見たくない、なんて考えで続けているだけなのに。後悔のないようにしたためている手紙でさえ、上辺の言葉ばかり。死ぬ前に、死ぬ気で助けを求めればいいのに。現状を、自分のことを、誰かに言えればいいのに。それが出来ないから死ぬなんて生産性のない無駄なことをするなぁなんて自分に対して感じていたりする。

私の根本を創り上げたのは母親であり、それによって歪んだ認知を正そうとしてくれたのは、周りの人達だった。愛着基盤の時点で人生ほとんど決まったようなもんだなぁなんて思っていたけれど、もちろん思考パターンはなかなか変わらないけれど、私はこの環境にいたから変わったことは沢山あったと思う。支援者たちに出会えない環境だったら、もっと早く私は死んでいたんだろうな。

 

きっと、周りからの支援は直接的なものだってもちろんあるけれど、それでも、母親が変わらない限りは、私が変わらない限りは、対処療法でしかないんだ。母親からこう言われて辛かった、それを支援者に話して自分の気持ちを落ち着ける。過覚醒で眠れなければ、睡眠薬が処方されてそれを飲む。全部、なんとか今ある苦痛を和らげるためだけにしている対処療法。ずっと奥にある根っこを変えていかなければ、永遠に対処療法を受け続ける他ないんだろうな、と最近思う。

本を読んだり、自分で思考を巡らせたりしていて気付いたこと(気付いてしまったこと)がたくさんあって、希望を感じたり絶望したり、忙しい毎日。どれが正解なのか分からない。いや、正解を求めること自体間違ってるのかもしれないけれど。正解か不正解か、いいか悪いか、完璧か、怠惰か。私の中ではどちらかしかない。少しでも質が落ちれば不正解で悪くて怠惰になってしまう。手の抜き方が、力の緩め方がわからない。70%好転する可能性があるなら、他の人なら飛び付くはずなのに私には残りの30%が怖くて、それなら変わらなくていいと思ってしまうところがある。テストも、目標点にいかなければいくら平均点が低かろうと、順位が高かろうと、努力不足だ、怠惰だと思う。ずっとずっと私は正解を探している。きっと、完全な正解以外の選択肢は沢山ある。少しは良くなる、悪いところもあるけれど良くなるところもある、ほんの少しだけ変わる。数え切れないほどあるはずの選択肢に手をつけられないのは自分の悪い所。100%の正解なんて、あるかもわからない。そもそもないかもしれないのに。先生たちと話をしたり、勉強をする中で顕在化してきた自分のパターン。

 

  • 0か100、良いか悪いかという考え方
  • 過剰な「しなければいけない」「してはいけない」
  • (そんな器量ないのに)ストイックに追い詰める
  • 何をしても自分を認められない
  • アンビバレントな考え方
  • 変化していくこと、変えることが怖い
  • 考え過ぎる

 

全部、個性でもあるのかもしれないけれど、それでも生きづらいのは事実だ。軌道修正とまではいかなくても、ほんの少しでも生きやすくなる方法を模索したい。

自己肯定と他者肯定について触れてみると、めちゃくちゃ偏りがある。 I'm not OKだけれど、You're OK。なかなか自他肯定にはならない。自己否定、他者肯定。多分人に尽くしてやっと生きがいを感じられるタイプ。むしろ人の役に立ってないと申し訳なくていてもたってもいられなくなってしまう。今思えば中学の何個もの役職を掛け持ちしていたあのときも、なんて、考えてみるとキリがないくらいに色々と出てくる。身を削るような生き方は辞めたいと思いつつももはやそれがルーティンになっているような気もする。交流分析とか、行動分析とかの読み物を見ていると、典型的なパターンだなぁ、なんて思うことも多々。

 

概念としてはHSP寄りなんだろうな、とも。ただ確立された病名という訳でもないし、最近はその言葉だけが独り歩きしている気がするので、どうも自分がHSPだ、という主張はしたくないんだけれど。

私が今1番苦しいのは、自分が怒鳴られているときじゃなくて、弟が怒鳴られているときなんだろうなと思う。自分が怒鳴られるのも、もちろん苦手だけれど人が怒鳴られているところを見るのがてんでダメ。「助けてあげられなくてごめん、見て見ぬふりをしてごめん」という気持ちと、フラッシュバックとが私を苦しめる。基本的に人の感情が移入しやすいので、険悪な雰囲気だったり誰かが怒っていたりするのもとても苦しい。自分に原因がなかったとしてもその負の感情が一気に自分を襲ってくるので、「ごめんなさい」の気持ちになる。ある意味自意識過剰というか、気にしすぎではあると思うけれどなかなか気にするなと言われても難しい。大きい音や怒鳴り声はもちろんフラッシュバックのトリガーであるし、結論から言うとめっちゃ生きにくい。1人で部屋に籠って、布団の中でずっと過ごしていたいくらい。他人との交流が苦痛。もちろん、友達は申し分ないくらいには居るし、人と話しをすることが嫌いなわけでもない。けれど、とにかく摩耗する。身が削れていく感覚。カウンセリングは5年目くらいで、それとはまた違う分断された感じだけれど(そもそも否定されること、怒鳴られることはほとんどないし)。電話が苦手なのも、音が近いから、表情が見れず喜怒哀楽が読み取りづらいから、着信音が怖いから、とか、そういう所から来ている気がする。

 

私は母親に愛して欲しいんだなぁ、と気付いてから、「許さない」と思う自分と、「許すも何も、そんな酷いことされていないだろ」と思う自分と、「許さなくていい、もう諦めよう」と思う自分と、「愛してくれるならなんでもいい」と思う自分と。まだまだたくさんあるけれど、とにかく自分のなかでも葛藤が激しい。母親の話をしているとたびたび出てくる「洗脳」という言葉に、納得せざるを得ない感じ。自分自身を信じることも出来ないので、例えば(もちろん兄や姉も経験しているので、そんなわけないけれど)「今まで私が母親にされたきたと思っていたことはただの妄想なんじゃないか?」と思ったときもあった。母親は怒ると、そんなことしていない、そんな覚えはない、と言うから。自分の記憶さえ疑ってしまうのは悔しい。自分の記憶を確かなものにして、その記憶をしっかりと過去として収めよう、と思い書いたのが先日のブログだった。もう1ヶ月くらい経ったけれど、本当に多くの人から言葉をいただいた。それは賞賛であり、批判であり、同情であり、優しさでもあった。全ての言葉を自分のなかで丸め込んで、結果的には「そうしてよかった」と思えた気がする。それが原因で色々と動いた物事もあるし、心境の変化もあった。初めて、自分を赦すことについて考えた。そもそも赦すも何もあるのかというところもあるけれど、とにかく前に進みたいと思った。進んだ先が生きるのか死ぬのかはわからないけれど、進める、と思った。

ブログを読んで、感想をくれた人の中で数人から「私はあのブログを読んで、過去を過去として受け止めて、迷いなく死のうとしているように見えました。もう、生きる気持ちはないように思えました」と言われた。ハッとした。過去を過去にして前に進む先に、生きるという選択肢の幅がものすごく狭くなっていた。死にしか向かってない、逆に死ぬからこそここまで赤裸々に全てを話せたんじゃないのか、と。心理的視野狭窄。常に生き急いでいるから、周りの人から言われた「赦さなくていい」という言葉も見ずに、私はただ赦すことだけが正義だと、100%正解の答えだと思い込んでいた。そして、その「赦さなくていい」は、母親のことを、という意味なのに、勝手に自分のこととして履き違えていた。そもそも自分が何をした?赦さなければいけないほどのことを、自分にしたのか?きっとそう聞かれても、パッとは答えられないだろう。せいぜい生まれてきてしまった、くらい。けれどそれも自分の意思に反してのことだし、結局前々から言っていた考えすぎてしまうところが裏目に出ているような気がする。

考えて、考えて、考えて考えて考えて、考えすぎて余計にわからなくなって。自分の首を絞めているのは自分だけれど、その基盤を創ったのは母親であって。全てを許さないことで、その憎しみで、自分を保っていたのかもしれない。それがなくなってしまったら、生きる気力もなくなってしまうかもしれない。今の自分は一体何を目指しているのかわからない。迷走している。悩んでも答えが見つからない。そもそも確かな答えがない。答えが分からないものを抱えていると、不安で不安で仕方なくなる。頭の中がそれで占拠される。ずっと、そうやって不安を、見つからない答えばかりの悩みを抱えて生きてきたんだと気付く。苦しい。

 

ずっと無理矢理でも前向きでいたはずだけれど、最近は少し下を向く回数が増えたような気がする。何も考えたくないけれど考えるしかない自分を、どうにか出来たらなあ。それでさえも考えてしまって必死になって苦しくなるのはどうなんだろうな。勉強しすぎた弊害かな。

 

 

 

手放すための、過去の記録

いつもとはほんの少し趣旨を変えて、生い立ちってやつです。どこかで整理して、もうすべて、過去を過去のことにしたいと思ったんです。不幸で幸せを覆い隠してしまうことだけはしたくなかった。幸せは幸せで、しっかりと私の中に残しておきたかった。16年間生きてきたなかでの苦しい記憶は、言葉を紡ぎ、引き出しにしまっておくことにしました。

 

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私は関東のある家に生まれました。父は大手企業に務めていましたが、きょうだいの人数が多かったので、とても裕福というわけでもなく、一般家庭だったと思います。私は3番目に生まれ、4歳上の兄と2歳上の姉、そして8歳下の弟がいます。私のいちばん古い記憶は、母親が怒鳴って、人を蹴りつけているのを後ろから見つめているような記憶。蹴りつけられているのは私でした。小学校を卒業するまで、私は母から身体的・心理的虐待を受けており、この頃の記憶はあまりありません。今思うと、上記の記憶も離人感があったんだと思いますし、今は主治医から"解離"と説明を受けた記憶の切り離しによって、なんとか本能的に自分を守っていたんだと思います。

幼稚園の記憶は、この通りほとんどありません。ただ、数個覚えている記憶の中で、一生忘れられない、贖罪すべきことがあります。私は、姉と共に万引きをしたことがあります。姉が何を盗ったのかは覚えていませんが、私はアンパンマンのチョコと、ドラえもんの飴のなかにラムネが入っていて、持ち手がガムになったお菓子を盗んだと思います(これはもう売っていないと聞きましたが)。母親から理不尽に怒鳴られ、殴られた夜、姉のベッド(2段ベッドで、姉は上で私は下)の布団の中に潜り込み、姉と一緒に「こわかったね」と言いながら、それを頬張りました。姉と私は仲がいいほうではなく、その1度きり、それ以外にそれをすることはありませんでしたが、当時の私はきっと、この出来事がなかったとしたら、正気を保てていなかったと思います。罪を合法化するつもりはありませんし、ずっと覚えていますが、思い出すのは自責の念と、同時にあのときのお菓子の甘さの安堵感でした。

このお菓子を食べた日だけは、今までのなかでいちばん、姉と心が通った気がしたのです。

幼稚園の頃のまた大きな記憶は、父と出かけたことです。父は小さいものが好きです。それは子どもであれ、動物であれ、物であれ、です。なので、幼少期は父とよく出かけていました。バイクの後ろに乗せられ、買い物に行ったり父の畑(父は趣味(?)で、他県に畑を借りていました)まで一緒についていくことが好きでした。父の会社のお祭りや、父の会社に行ったこともあります。当時の記憶は薄いですが、何よりも鮮明に覚えていることは何個かあります。どれも、いいものではないのですが。

あるとき、父と母が会話をしていました。「飲み会でスマホ落とした、探してくる」と、父。そして、私を連れて父と会社の近くへ行きました。少し待っててと声をかけられ私は道端で待ち、店へ入っていった父親を見ていました。いわゆる、成人しか入れない性的なお店でした。またあるとき、父親の解約した携帯電話を、玩具代わりに使っていたときです。父親の受信メールには、今では迷惑メールかもわかりませんが、ゴミ箱に捨てられた、送信主の家の鍵の位置を知らせるメールがありました。ムービーには、ネットにあったものか本人が実際に見て撮影をしたものかはわかりませんが、ストリップのようなものの動画がありました。父は性に奔放な人でした。奔放、という言い方は違うのかもしれませんが、それが原因でこの頃、幼稚園くらいの頃から、私は性に関して激しい嫌悪感がありました。父と母の部屋には、他の家族が見えるような場所に当たり前に性的なものが置いてありました(今は流石にないですが)。深夜帯に聞こえてきた母のいつもとは全く違う声に酷く困惑した覚えがあります。中学に入り、性被害にあうと性嫌悪はもっと酷くなるのですが、それは後述します。性的虐待などは受けていませんでしたが、深夜まで眠れない日があると時々、母と父の声がして(いつもは父は会話なんてしないので、もうこの時点で察するのですが)、それからは耳を塞いで静かになるのを待ちます。そんな生活をしていました。ちなみにこれは今もです。父は単身赴任をしていますが、時々週末に帰ってきては、です。母は何かあるたびに「あんた達がいるから離婚できない」「父は体裁上離婚したがらないから離婚しない」と言っていますが、こういう光景を目の当たりにしていると、ああ、そういうことなんだろうなあ、と思います。友達から「4人きょうだいなら夫婦仲いいでしょ」と言われるとだいぶ複雑な気持ちになりますが。夫婦仲は最悪でもそれだけで繋がっている両親を見る自分のなんとも言えない感情は、さすがに誰にもわかっては貰えません。

 

これからは暗い話が続きますが、先に私の楽しい、明るい思い出を2つ話しておきたいと思います。1つ目、私は父が車で連れていってくれるアイスジェラートのお店が大好きでした。そのジェラートが美味しかったのもありますが、何より、そのお店に連れていってくれるときは母も父もとても優しかったんです。機嫌が良かった。そういう専門店のお店のジェラートって、ひとつでも結構値段がするじゃないですか。でも、私にも、兄にも、姉にも、ひとつずつ好きなものを選ばせてくれたんです。私はその時間が大好きだった。母や父に一口ずつあげていましたが、私は父の一口が大きかろうとなにも気にしていませんでした。それどころか、全部食べてくれたっていいのにと、思っていました。あのお店にいるときはみんなが笑顔だった。私の中での、確かに、幻想ではない愛された記憶です。今も、そのお店を探して時々外を歩きます。そこまで遠くなかった気がしますが(車で行っていたので、実際にどうかはわかりませんが)、マップで調べてしまったら、もしなかったときに絶望してしまう気がして、暇なときに地図も見ずにただふらふらと歩いています。いつか、また見つけられたらいいな、と思っています。

2つ目。私は、残念ながら家には恵まれなかったかもしれませんが、たくさんの優しい大人に出会いました。パッと思い浮かべるだけでも、軽く30人は超えると思います。しっかり数えたら40人くらいでしょうか。周りの同級生とも少し波長が合わないときがありましたが、とにかく先生運だけはいいんです。ここで言う先生と言うのは、学校の先生であり、病院の先生であり、カウンセラーの先生であり、その他、私が尊敬している人のことです。私が、どれだけ苦しい思いをしようとここまで生きてこられたのはそれが理由にあります。私は、そんな大人たちのようになりたいと、支援者になりたいと思っています。今は、夢が少し揺れ動いている部分はありますが、子どもの色々な問題に関わる人になりたい、と強く思っています。先生たちがくれた言葉は、暖かさは、全て私を作り上げてきたものです。私がこうして生きていられているのは、苦しみ以上にたくさんの優しさに包まれていたから。「○○ちゃんの応援団はたくさんいるよ」「○○の味方は、ここに数え切れないくらいいるから」と中学でも、高校でも、言われたことがあります。私には学校という居場所が、安心できる場所がありました。そんな先生たちとの話も、少し折り混ぜられたらいいなと思っています。

 

 

小学生時代の虐待。何個か覚えているエピソードは、どれも今でもフラッシュバックし、じわじわと私の心を蝕みます。あるときは、真冬の夜に、薄手のパジャマに裸足のまま、何時間も外に放置されました。鍵を締め切って、母は暖かそうなリビングの窓を開けて、私に「うちの子じゃないんだから敷地内に入るな」と言うので、私は家の通りの道路に、泣きながら体育座りをして、しゃがみこみました。萌え袖をしながら、衣服に口をつけて息を吹きかけると、ただ手に息を吐くよりも暖かくて、それをしてなんとか凌いでいたのを覚えています。けれどそれも繰り返しているとだんだんと衣服が湿ってきて、逆に寒く感じる。あのときの私は痛みよりも、どう寒さを凌ぐかについて考えていました。

そこから家に入れたとしても、次は玄関で何時間も正座をする時間が始まります。足の感覚がとっくになくなった頃、母は濡れ雑巾を私に投げ、「汚い足拭いてさっさと寝れば」と言い、玄関から立ち去ります。それが、私が部屋に入れる合図でした。冷水でしぼった雑巾は冷たいはずなのに、酷く冷えきった足をふくときには、暖かく感じるほど、手足は冷えてしまっていました。それほどの寒さです、耐えきれず外で粗相してしまえば、今度はそれを見て「汚いな、もう帰ってこなくていいから。さっさと消えろ」と、シャッターを閉められてしまいます。1度それを経験し、それだけはしないでいようと必死に耐えていたこともありました。毎日のように暴力を振るわれていたものの、周囲がそれに気付くことはありませんでした。いや、実際気付いていなかったのかはわかりません、けれど、通告されたり、ということはありませんでした。そして、私もこの生活が、殴られ、虐げられる毎日が「普通」だと思っていたので、誰かに助けを求めることもありませんでした。

母はよく私を叩いたり、殴ったりしました。痛くて泣くと、「お前は自分が可哀想だから泣くんだ」とまた強く暴力をふるうので、必死に泣くまいと耐えました。いつか、泣かずに耐えられるようになりました。その後遺症か、今も私は上手く泣くことができません。苦しいとき、涙が出てくることがない。目が潤んだとしても、「お前は自分が可哀想だから泣くんだ」という言葉が、頭の中で反響して、止まってしまうことも多いです。特に人前ではてんでダメです。自傷を繰り返しているうちに泣けなくなる子も多い、なんて話を松本俊彦さんの書籍で見た気がしますが、それもあるのかもしれません。自分のつらい気持ちを言語化してラベルを貼る前にゴミ箱に押し込めてしまうんですよね。けれど、時々その名前の無い感情がゴミ箱から溢れてきて、どっと不安になる。今私が感じている漠然とした不安は、そういう「名前の無い感情」のフラッシュバックなのかもしれないなあ、とも思います。私は言語化が苦手で可視化に逃げてしまうところがあるので(数値や腕を切るという目に見えるものに変換する)、こうして言語化をする力をつけられる場があることに感謝しています。

話を戻します。ある日、母に叩かれた勢いで鼻血が出た時に、母は笑いながら私に「ブッサイク」と言いました。これは今も忘れられません。母は機嫌がいいと、「うちの子は顔には恵まれた」「私と同じで高い鼻に生まれてくれてよかった」と言って、私たちの顔を褒めます。そのたびに、私は複雑な気持ちになります。そう言われるたびに、私は「ブッサイク」と私を笑った母のことを、思い出してしまうからです。どんな気持ちで母がその言葉を発したのか、今も私は考えています。血だらけになった手を見つめながら、泣くことも出来ず、私は呆然としていました。きっと、母にとってそんなに意味があった言葉では無いのでしょう。母は衝動的になると、言葉が止まらなくなり、溢れてきます。それと同時に手が出る。そのときは、思っていること、思っていないことという話ではなく、ただパッパッと色々な言葉が出てくるんだろうなと思います。それは、多分母自身も止められたものではないんだと、私は解釈しています。

「叩く方だって痛いんだよ」と言っていた母親の気持ちが、私は分かりません。なら、なぜ叩くんだと。私はきっとこれからも母親のことを理解することはできません。それほどに私を愛していたのかもしれません。私には伝わらなかったけれど、ずっと愛してくれていたのかもしれません。それでも、歪んだそれを私は受け止めることが出来ませんでした。愛されたいと渇望している今の私も、もしかしたら愛されているのかもしれませんが、それでも「私が感じ、求めている愛情」と「母が与えている愛情」はどうも違うようなのです。そのすれ違いがあっただけで、もしかしたら私は十分に愛されていたのかもしれませんが。

 

叩かれたり、殴られるのは痛いけれど、蹴られるのは比較的楽でした。楽、というか、痛くない、というか。1番楽だったのは回し蹴りです。あれは、蹴られた勢いで倒れて、痛がっていれば何度もしてくることがなかったから、何か母親が怒っているときは、「どうか今日は回し蹴りだけで済みますように」と思っていました。殴られて鼻血が出るのは不可抗力ですが、それで床を汚せば余計に怒られてしまうので、顔を狙った叩くとか殴るとかは嫌だなあ、なんて思っていました。正直、言葉の暴力なんてもうどうでもよくなっていました。もはやそれが日常だったので、暴力を暴力と感じられなくなっていました。殴られる方が痛いから、心の痛みになんて気付けません。暴力は私を、恐怖で支配しました。痛みに鈍感になり、痛いというか「ぬるい」んです。叩かれた頬はジンジンと熱を帯びますよね、その感覚。じわ〜っとしたその頬に、家から追い出され、冷えきった手を当てると気持ちがいい。その「ぬるい」ところに触れながら、目を瞑って、ぼーっと過ごしていれば、いつかは家に入れてもらえます。私は、静かにその時を待っていました。

 

あるときは、アサリの味噌汁を食べ切ることが出来ず、リビングの隣の部屋に連れていかれ、正座でアサリの味噌汁と向き合いました。次、母親が来るまでに飲み終えなければ殴られる。そう思って、必死になって飲み、吐いてしまいました。今もですが、私はアサリだけは食べることが出来ないのです。アレルギー検査をしたら、もしかしたらアレルギーかもしれません。それくらい、アサリだけは食べることが出来なかった。母は、私が器に吐いた吐瀉物を見て、「飲め」と言いました。私は、とにかく怖くて仕方がなくて、吐いた吐瀉物を必死になって飲みきり、母親に何度も謝り、部屋に戻りました。汚い器を私に触らせる気か、と母は激昴し何度も私を叩き罵ったあとに1階のリビングの窓から、私の髪を思い切り掴み私を引き摺り、投げ捨てました。真っ暗闇に放り出された私は、恐怖と痛み、そして吐瀉物を食べた気持ち悪さでぼろぼろと泣きました。また、それを見て母は「お前は自分が可哀想だから、自分が可愛いから泣くんだ」と鼻で笑いカーテンを締めました。結局1時間ほどで部屋に戻ることが出来、そして母が寝たのを確認したあと、全てを吐き戻してしまいました。どんなに気持ち悪くても、母が起きている間はもう吐けなかった。母親が寝たのを確認してからやっと吐けたんです。そんな、調節できるような話じゃなく、とにかくずっと気持ち悪かったのに。生理的な気持ち悪さよりも、恐怖が打ち勝ったんだろうな、と思います。まだ小学生の頃の話です。そんなふうに、小学生の頃は毎日を過ごしていました。週に2,3度は叩かれない日があったかもしれませんが、そういう日は兄や姉が暴力を振るわれていましたし、家で過ごしている中で、暴言が聞こえない日はなかったと思います。

この時の私には夢がありました、それは、中学生になることでした。兄も姉も、中学に入ったらほとんど暴力をふるわれることがなくなっていたんです。それを見ていたので、私は早く中学生になりたかった。中学生は、とても大人に見えました。大人になるから、殴られなくなるんだと、当時私は思っていました。

この時期くらいから、兄が荒れていきました。荒れていた兄は、私が小学生の頃はほとんど私に物理的には当たってきませんでしたが(母親にだけでした)、後に私に対しても手が出るようになりました。それと、私が小学校中学年になる頃には弟が産まれました。これもまた後にわかることですが、弟はADHDです。それは抜きにしても、私は弟だけは普通に育って、育てられて欲しいと思いました。このとき私は虐待をされている自覚はなかったし、どの家もこうだと思っていたので声を上げることはありませんでした。それでも、なぜか、「普通に育って、育てられて欲しい」と思ったのです。私にとっての「普通」は、殴られ、酷い言葉をかけられる毎日だったはずなのに。

私は弟を母親から守ろうと、必死になっていました。ある意味、当時の生きがいは弟だったかもしれません。弟を母が叩き、弟が泣き叫んでいるところを兄が見たとき、「流石にもうやばいよな。通報しちゃダメかな」と言っていたのを思い出します。しかし、私はそのとき、まだ母親のことが大好きだったので必死に止めました。あれを止めずにいたらどうなっていたんでしょうか。何が正解だったんでしょうか、私には分かりません。少なくとも中学半ばまで、私は母のことが大好きで、いや、今も好きかもしれませんが。盲目的に、愛していました。洗脳に近いような状態だったのかもしれないな、と今は思います。手を出されようと、大好きでした。母の「叩く方も痛い」という言葉を本当に信じきっていたんでしょうね。

余談ですが、母は私たちを虐待しているつもりはありません。兄が1度、「俺達のこと殴って育てたくせに」と言ったとき、母は「そんなことはしていない」と主張しました。けれど、虐待死のニュースを見るたびに「うちもやばいんじゃない」と笑います。またあるときは、目に涙を浮かべながら「虐待して殺しちゃうくらいなら、産まなきゃいいのに。可哀想に」と。嘘のような話ですが、母は二極思考というか、「今まで言ってたことはなんだったの…?」というレベルで話がポンポン変わります。しかしそれも、全て母の考えであって、正しい、正直な言葉なんだと思います。それを理解してはいますが、私は時々苦しくなります。兄も、姉も、私も、確かに覚えている苦しみを、母は何も覚えていない。虐待をしていないと思うのに、虐待死のニュースを見る度発せられる色々な意見。ダブルバインドに挟み撃ちにされて、とても息苦しいときがあります。ふとしたときに見せる優しさも、私の心を殺すには十分でした。母に優しくされるたび、「私は母に愛されている、母が大好きだ」と思う自分と、「私のことを愛しているならどうしてあんなに酷いことをしてきたんだ、母が憎い」と思う自分の二極思考にも苛まれるのです。何度も何度も揺れ動きましたが、結局のところ私は母を手放すことなど、出来ないのかもしれません。

からしたら常に愛情を出しているのかもしれませんが、酷く極端な飴と鞭に、私はどれが正解なのか、未だに困惑してしまうことがあります。

きっと、今の母だけを見ている人達からしたら、「そこまで嫌悪する程じゃないんじゃない?」と思うかもしれませんが、今のただ怒鳴られるだけ(これも一応心理的な虐待には当たるのですが)ではなく、過去にされてきたことが根本にあるので、どうしても拭えない嫌悪感があるのです。

 

話は変わりますが、小学生高学年の頃、私はいじめに遭っていました。教室移動をしているときに階段から落とされたり、「死ね」と書かれた紙が机の中に入っていたり、上履きがなくなったり(探したけれど、結局見つかることはありませんでした)、見知らぬうちにクラスの男子の持ち物が私のバッグに入れられていて、「泥棒だ!」と騒ぎ立てられたり。また、悪口はいつものことでした。それでも、私にとって学校はまだ楽な場所だったんです。直接的な暴力は、怒声は、なかったから。どんなに悪口を言われようと、小学生の悪口なんて易しいものじゃないですか。「うざーい」とか「気持ち悪い」とか「汚い」とか「臭い」とか。そんなの全然耐えられたから、学校を休んだりはしませんでした。家のほうが辛いから、休む理由なんてなかった。そもそも休みたいと言っても休ませてなんてくれなかったと思いますが。

それでも、母からされてきたこと、同級生からされてきたことを責めることは私にはできません。私も、きっと同じような人間だからです。いつだったかは覚えていませんが、小学校で母を待っていたとき(きっと母は学校に用事があったんだと思います)、砂場で大きなお城を作りました。ほぼ完成といったところで、私よりも小さな男の子が「僕もやりたい」といい、残り1割ほどを手伝ってもらい、一緒に完成させました。母が用事を終え、私の元に来たとき、私は「私ひとりでこんなにやったんだよ」と母に褒めてもらおうとしました。母はその小さな男の子を見て、「どうせお前は何もしていないくせに、そうやって人の頑張りを奪うのか。薄情な人間だな。」と、私に言いました。私はそういう、ずる賢い人間なんだと、それは最低で最悪なことだと、そのとき思ったのです。

 

これは私が人を心から信じ、信用することが出来ない根っこだと思っていますが、母から怒鳴られ、殴られ、もし家から追い出されたりしたとしても、兄や姉や父は助けてくれませんでした。それと同じように、兄や姉が追い出されていようと(兄は割と反抗出来ていたので、追い出されていることは少なかったと記憶していますが)、無視をしていました。みんな、自分に被害が行くのが怖かったからです。守ったら、助けたら、自分が標的になるのです。それが怖くて、無視をしました。家のドアの前で、泣いている私を見て、姉は鍵を開け家に入り、また鍵を閉めました。私も、姉がそうなっていても同じようなことをしました。そしてどこかで、姉はあることに気が付いたんだと思います。「先に、悪いやつがいれば私は怒られない」と。そうして、ふとしたことも姉の目に止まれば母親に報告されるようになりました。だから私は、姉と仲が悪かったんです。互いに疑心暗鬼でした。仲良くなったら、私にとっても姉にとっても弊害しかなかったんです。今思えば、とてもとても悲しいことだな、と思います。父は仕事人間で、幼少期こそ出かけたりしていましたが、仕事を終え家に帰ってきたとき、家から追い出され泣いている私がいると、溜息をつきながら兄や姉と同じように鍵を開け、家に入り、また鍵を閉めました。

私はしませんでしたが、姉は時々家出をしました。真冬、塾の帰りに姉が「家出するって言っといて」と言い、立ち去りました。雪が降りそうなくらい、寒い夜のことでした。ヒヤッとして、私はすぐに家に入り、母にその事を話しました。母はこたつに入り、テレビを見ていました。その姿勢を1ミリも変えることなく、「あぁそう。寒いから勝手に帰ってくるでしょ」と。私は、きっと探しに行くと、思っていたんです。姉もそう思っていたと思います。血相を変えて、姉を探して、自分が悪かったと言うと。流石に、こんな母親だろうと、そうするだろうと。そんな期待は打ち砕かれました。その1時間後、姉は帰ってきました。真っ赤な手をさすりながら、涙を貯めて。その涙が、家出を遂行できなかったからなのか、それとも母が探してくれなかったからなのかはわかりませんが、ともかくこの出来事で私は、母のことがよくわからなくなってしまいました。また、別日ですが姉が悪い事をしたとはいえ、伸ばしていた髪を掴み、そのままお風呂場に連れ込んで乱雑にその髪を切った母を見たときの私は、もうなんと言えばいいのかわからないですが、とても苦しい気持ちでいっぱいになりました。姉の「ごめんなさい」と泣き叫ぶ声を、今も思い出します。しばらくは、姉は下を向いて、常にフードを被って過ごしていました。

もっと、色々なことがあったけれど、書ききれないので割愛します。

こんな毎日でしたが、時々行く保健室が私の支えでした。小学校の養護教諭は少し前に異動してしまったものの、その直前まで私が描いたイラストを保健室に飾ってくれていました。虐待やいじめの話はしていませんでしたが、時々仮病を使って保健室に行き(先生もそれをわかっていたんだと思います)、先生の近くに座って、一緒に絵を描くのが大好きでした。少しの居場所をそこに見出しながら過ごしていた小学校生活6年間は、長かったような、あっという間だったような。それでも、これから始まる中学校生活3年間のほうが、もっともっと濃く、苦しい毎日でした。小学校の頃の方が辛かったかもしれませんが、私は中学で「知ってしまった」んです。色々なことを。だからこそ、それと向き合う労力や、苦しみがありました。経験したことは小学校の頃のほうが辛かったかもしれませんが、その「知る苦しみ」がなかったことを考えると、やはりこれから話す中学校時代が1番辛かったのかもしれないな、と思います。

 

 

少しの希死念慮を抱きながら、私は中学校へ入学しました。それと同時に、思っていた通り母からの暴力はなくなりました(もちろん暴言は変わりませんでしたし、突発的に殴られることはしばらくありましたが)。

中学校に入学してからの、3ヶ月ほどは本当に楽しい毎日でした。毎日が、新しいことの連続。いじめなんてない環境、優しい先生たち、ずっと憧れだった制服を来て、私は服装や生活を正す生活向上委員会に所属しました。順風満帆でした。そして、女子ソフトテニス部に入部し、部活に打ち込みました。初めての部活は新鮮でした。兄や姉はバスケをしていましたが、正直兄への反抗心もあったのかもしれません、私はバスケを選ばず自分でソフトテニスをしようと決めたんです。初めてした、自分での選択。この選択を、死ぬほど後悔する日が近しいなんて、そのときは知りませんでした。

率直に言うと、部活内でいじめを受けました。色々なことをされたけれど、一番堪えたのは大会の時間を違う時間に伝えられたこと。その日の私は委員会で、部活のミーティングに出ることが出来ず、予定を他の子に聞く他なくて、当時AとBと仲良くしてた私は近くにいたAに時間と(AとBと私での)集合場所を聞きました。当日、Aから教えてもらった集合場所には誰もいませんでした。そのときは頭が真っ白になり、近くにあった交番に泣きながら立ち寄りました。というのも、その日の大会はとてもとても大切な大会だったんです。選手登録をしてもらい、公式のカードが貰える日。パニックになりながらでしたが、途中の道で他の部員に会うことが出来、車に一緒に乗せてもらい大会会場へ向かいました。このAが中心となって、悪口や色々なことをされました。ほとんどはAだけでしたが。Aはこのとき、「○○が聞き間違えたんじゃないの〜自業自得じゃん」と笑っていましたが。

いじめられた理由は、本当にくだらない理由です。私が仲のいい女の子と、Aが仲良くしたい女の子が同じBだった、それだけです。皮肉にもAは、私が小学生の頃いじめられていても仲良くしてくれていた友人の1人でした。私をいじめから(意識を逸らすという意味で)救ってくれた友人は、いつか私をいじめる側に回っていたのです。毎日毎日、傷付くたびに、頭痛が酷くなりました。ODなんて言葉を知らないこの頃から、頭痛薬、鎮痛剤を2錠、3錠、4錠と飲み、自分の気持ちを誤魔化しながら部活動に行きました。幼い頃から通っていた小児科の先生に「薬が減るペースが早いから、もう少し減らしていこう」と言われ、かかりつけの薬局の薬剤師さんからも、「最近大丈夫?」と聞かれる始末でした。

そのうち、Aを見るだけで酷い頭痛に襲われ、時には吐いてしまうようになりました。それと同時期に、現実逃避(後々、児童精神科へ行ったときに医者からこの言葉を言われ、なるほどなと思ったのですが)のように、過眠になり朝練へ行けなくなりました。毎日13時間以上眠り、やっとのことで学校へ通いを繰り返しました。マシになっていた母親からの暴言はこの頃また酷くなり、それに便乗して兄や姉からもたくさんの暴言を吐かれました。

兄は言いました。「お前が妹で恥ずかしい、バスケ選ばなかった上に朝練サボって仮病、ふざけんな」。兄はずっと、私もバスケをすると信じていたんです。それを裏切った挙句、部活にさえ行けなくなった私を見て何度も罵声をあびせました。「頭痛なんかで部活サボってんじゃねぇよ」と、毎日のように言われました。姉も言いました。「テニス部は朝練サボっても怒られないの羨まし〜私も仮病使いたい〜」。母は毎日、毎朝のように、部屋に入ってきては「ユニフォーム代、道具代、いくらかかったかわかってんの?仮病でサボって、甘えてんなよ。休ませないから、起きろ。行け。」。毎日言われ続けたので、言われたこと全ては覚えていませんが、とにかく辛い日々でした。

そんな私は、行けなくなった朝練にも、行く他ありません。追い詰められ、25分で登校出来るはずの道のりでさえ、歩くのに40分かかるようになり、朝練よりももっと早い時間から家を出るようになりました。朝起きるのが辛いので、3分ごとにアラームをかけて、5時半に起きます。もう、朝練に行かないという選択肢はなくなってしまっていました。いや、少し違いますね。"朝練の時間に、家にいる"という選択肢は、消えました。重い体を引き摺り、「あぁ、この薬ミントの匂いがしてあんまり好きじゃないんだよなぁ」なんて思いながら、カロナールを何錠も飲み学校へ行きました。それでも、彼女に会ってしまえば私は吐いてしまいます。私は朝練の時間に学校へ行き、部活へ行かずに教室に篭もることにしました。苦渋の決断でした。しかし、私の教室へ行くにはまずテニスコートに挟まれた渡り廊下を渡る必要がありました。下を向き、早歩きで、必死に涙を堪えながら渡り廊下を渡ります。そして、私の教室の壁の隣はテニスコートだったので、しゃがみながらカーテンを締め(そうしないとテニスコートから私が見えてしまうのです)、電気は付けず、教室の後ろのストーブの横で、小さく体育座りでうずくまって、テニスラケットを抱きしめながら時間が過ぎるのを待ちました。窓1個隔ててすぐ隣のテニスコートからは、悪口が聞こえます。もう正直、それがわざと私に聞こえるように大きな声で言っていた悪口なのか、それとも幻聴だったのか、私にはわかりませんが、耳を塞いで、時には泣きながら必死にその時間を過ごしました。

家にも学校にも私の居場所はなく、この頃、極限まで追い詰められた末に自傷行為を覚えました。今じゃ笑えてしまうくらい浅い傷でしたが、その腕の傷がなければ、私は生きていられなかっただろうなと思うのです。その傷を知った担任が(元々話をしていたこと、担任がテニス部顧問だったこともあり)、部活に無理に来なくていいということと、SCに通って欲しい、と私に言いました。そして、週に1度、SCに通うようになり、そこから病院を薦められ病院へ通うようになりました。病院でドクターストップのような形で、部活を辞めることが出来ました。そのために、何度か市の青少年相談センターへ足を運び、その日程はいつも行事ごとと被り、全校集会や球技大会にはほとんど参加出来ませんでした。私は、ただ、普通に中学校生活が送りたかっただけなのに。どこから間違えたんだろうな、と笑ってしまったのを覚えています。みんなと一緒に、行事を楽しみたかった。

 

病院に通い始め、学校に診断書を提出したとしても(適応障害により抑うつや倦怠感や過眠、頭痛症状があり定期的な通院が必要である、というようなものでした)、否が応でも、同じ学校、同じ学年なのでその子とは会わなければいけません。そのたびに薬の飲む量は増えていきました。保健室に行くほど頭痛が酷いときはもう既に薬を飲んでいて、「そんなにずっと飲んでると、効かなくなっちゃうよ」と養護教諭から言われたのを覚えています(もっとも、このときはもういくら薬を飲んでも効いてなかったと思いますが)。

通い始めた病院で処方された漢方を飲めない日があると、母は酷く私を怒鳴りつけました。「これを飲まないからお前は治らない」と。母からしたら、ずっと通い続けるには児童精神科は金銭的負担が大きすぎたんです。だからこそ、漢方を魔法の薬とでも思っていたんでしょうか、そうやって責め立てられる日々が続き、大嫌いでまずい漢方を飲んでは、1人で部屋で泣く毎日でした。こんな薬だけで変わったら、今まで何を苦しんでいたんだよ。そう思いましたが、母からの「金食い虫」という言葉が何度も頭で流れるので、嫌ながらも毎日漢方を飲み続けました。

また、部活を辞めてから家に早く帰るようになりましたが、その時期は兄がかなり荒れていました(兄は高校3年でした)。罵詈雑言の毎日です。兄も辛かったんだろうな、と今は思います。遠い学校へ通い、塾にも通い、ストレスの溜まる環境下だったろうと。それでも、家にいた私は耐えられませんでした。毎日聞こえる怒声、飛んでくる拳、会話どころかあっちからぶつかってきただけで「死ねよ、ぶっ殺すぞ」と言われ続ける。母と喧嘩し、土下座を強要してそれに応じない母の頭にお酢をかける。そんな修羅場を毎日のように過ごしました。遠い学校だったので、朝は早くに出るので会わずに済みます。だから、問題は夜だ、と言いたいところですが、朝も兄のことを思い出すと兄が準備をしているガサゴソという音で目が覚めてしまうのです。2時間以上かけて通学していた兄は、5時には家を出ていました。その家から出る音が玄関から聞こえて、やっと私はまた安心して眠りにつける。そんな毎日でした。中2に入ったこのあたりから、過眠は不眠に変わっていきました。

体調不良で早退をすることになったとき、連絡のいった母は私を車で迎えに来ました。怒鳴られる、直感的にそう思いました。保健室につき、母は私を怒鳴り、それを見ていた養護教諭は驚いていました。帰りの車の中、熱が38℃を超えていた私に母は、「仮病使って私を呼ぶな。うちの車はあんた専用のタクシーじゃない。やっと仕事終わって、なのに一息もつけてない。昼もまだ食べてないのよ、ああもう。明日は休ませないから。」と私をミラー越しに睨みながら言いました。母の目が私から逸れた瞬間、声に出さずにぽろぽろ涙を零しました。私は母のお昼よりも大切じゃない存在なんだなと思い、口を噤みました。後日、養護教諭から謝られましたが、むしろこっちが申し訳なく感じました。

それから、熱があっても、家に帰るほうが辛いからと早退することは減っていきました。それに比例するように、毎日のように熱が出るようになりました。心因性発熱のようなものだったと思います、36.8℃~38.8℃程度の熱が、数ヶ月、半年以上、ずっと続きました。母親の様子を養護教諭に話すようになり、あるタイミングで当時の生徒指導である理科担当の先生とも話をするようになりました。3人で、保健室で話をするなかで「あなたが受けているそれは、虐待だよ。」と、とても真っ直ぐ私を見て、先生が言いました。私には居場所はここしかなかったので、このときは毎日のように保健室に通い、理科担当の先生も「来ると思ってたんだ」と事前に保健室に居てくれたり、昼や放課後に話を聞いてくれたりしていました。保健室に人がいるときは、理科室をあけてくれて話をしました。先生たちと相談して、児童相談所へ通告がいったころ、主治医にもその話をしたことで、通院頻度は増えていきました。

 

当たり前ですが、眠れていないので集中出来ません。この頃は、過眠から不眠へと変わっていましたし、勉強なんて何も出来ていなかったので、理科のテストで18点を取りました。先生は、「家にいても辛いでしょ」と、土曜日に補習を開いてくれました。先生にできる恩返しはなにか考え、私は必死に勉強をするようになりました。次のテストでは、64点を取りました。平均点が60点ほどのテストです。そこまでいい点数じゃないかもしれないけれど、私からしたら本当に血の滲むような努力をした結果でした。そのテストを持ち、私は母に笑顔で報告をしました。けれど、母の機嫌は悪く褒めてもらえることはなかったし、それどころか理不尽な理由で酷く怒鳴られました。そのとき、頭が真っ白になって、腕を切った後に、薬を飲みました。初めて、血が止まらなくて焦るくらいに腕を切りました。咄嗟に飲んだ薬は皮肉にも自分が飲んで何とか学校に通っていた、ある意味自己治療的な立ち位置にいた鎮痛剤でした。初めは5錠。でも、次の日になっても落ち着きません。朝起きて、学校についてから、テニス部の練習を見ていて、ああもういいやと自暴自棄になって、65錠を、無心に、何度かに分けて飲み込みました。死生観が未熟だった当時の私はきっとそれで死ねるだろう、まだしも楽になれるだろう、と思い、疑いませんでした。

その日は確か集会か朝会があったんだと思います。途中で気持ち悪くてトイレに駆け込み、学年主任に背中をさすられながら何度も嘔吐し、先生たちに担がれて保健室へ連れていかれました。意地でも、薬を飲んだことは言いませんでしたが、10分に1度は吐いていたと思います。理科担当の先生は、授業が終わるたびに私の様子を見るため保健室へ来てくれました。「吐くのは体力使うししんどいよねぇ」と、ガン治療を受けていた事のある先生のその言葉の説得力は強く、とにかく申し訳なくて仕方ありませんでした。ODの話はせず、昨日の母の話をしました。先生は、「頑張ったよ、お母さんが褒めてくれないなら、先生たちがたくさん褒めてあげるから。」と、養護教諭を呼び、一緒になって褒めてくれました。先生は、窓辺においてあった妖怪ウォッチのキャラクターのぬいぐるみの手を握りながら、私の頭をポンポンとぬいぐるみで撫でてくれました。思わず泣いてしまいました。

そこから、母や兄から何かを言われるたびに、血が流れるほど腕を切るようになりました。そうすれば楽になると、自分でも覚えてしまったんだと思います。アディクションとなった自傷のせいか、酷い言葉を言われると、どんなに慣れたつもりでも、ぼーっとしてきて、それを誤魔化すために腕を切る。そのまま、流れる血をぼーっと見ていると、だんだんと感覚が戻ってくるような気がしました。それがルーティンのようになり、解離しながら自傷する、なんてことも増えていきました。鎮痛剤を少し多めに飲むことでしていた自己治療が、今度はリストカットに本腰が入り、だんだんと消えない傷が増えていきました。母は激怒します。どんなに傷を隠していようと、お風呂に入っているときにドアを開けられてしまったら、手を洗うため一瞬少しだけ腕まくりをしたのを見られてしまったら、私もどうしようもありません。それを見たとき、母は爆発したように、「ママへの当て付けか、私はこんなにあんたに尽くしてやってるのに、あんたにこんな酷い仕打ちされなきゃいけないほどのことをした?してないでしょ?なんでそんなことするの?嫌がらせ?」「本当に気持ち悪い、汚い」と言いました。あるときは「あんたは腕切ってりゃ楽だからいいわよね、こっちが切りたいわよ」と。腕を切ることが気持ち悪いなんてわかってるよ。でも、それをしていないと生きられないほどこの家は私にとって苦しいんだよ。そんなこと、言えませんでした。母は学校へ電話を入れ、先生たちは、その母親からの連絡を聞いて「お母さんはあなたを愛していないわけじゃないんだね」と安堵したような顔で、私に言いました。そうだけど、そうじゃないんです。あなたが見えている母と、私が見ている母は違う。もちろんそれも言うことなんて出来ません。作った笑顔で頷いて、そこからしばらくは先生に話をしに行くことを辞めました。期待をするのは無駄だと思ったからです。

話をしに行くことは辞めましたが(中3に入り時々は話にしに行くようになります)、それでも私がその少し前の時期まで先生たちの言葉に助けられていたことは事実です。生徒指導の先生は、理科担当の先生だったので、生物の授業のときには色々な話をしてくれました。その中でも、1番記憶に残っているのは保健室に私を迎えに来たときに先生が言った、「今日は血液の話が授業に出てくるんだけど…腕を切ったら血が出るじゃない?でも、いつか傷口は塞がって、血は止まるでしょ。血が止まるって言うのは、○○さんの体のなかの細胞が、それを修復していこうとしてるってこと。○○さんの体は○○さんに生きていて欲しいと思ってるんだよ」という言葉でした。解離の話もそうですが、私は死にたいと意識的に思いながらも、無意識下では必死に生きようとしているのかもしれないと気付かされた瞬間でもあります。

 

中3になっても特に何も変わりません。限界ながらも学校を休むことは許されないので、私は無理やり予定を入れて学校に行く理由を作ることにしました。委員会、係4つ、班長パートリーダー。他にも色々と、とにかく毎日駆け回っていました。忙しければ、何も考えなくて済む。ただそれだけの考えでしたが、周りからは「頼れる」と言われ、驚いたのを覚えています。そして、「頼れる人間(価値のある人間)」であることに価値を感じてしまい、のめり込むようになりました。2週間に1度、早退して病院へ向かうので、学校に居る時間はきっと普通に学校に通っている人よりも少なかった。けれど、引けを取らないよに、必死になって毎日動いていました。

担任は2年のまま変わらず、そして私の隣の席には1年間同じ男子が座っていました。彼は私の弟と似たような男の子でした。衝動性が高く、クールダウンに時間がかかるので、暴れたり汚い言葉を使い、逃げ出し、周りは嫌がっていました。それでも私は弟を見ていたので、声をかけたり居なかった間のノートを見せたりして接していて、彼は私を気に入ってくれたようでした。「○○の隣なら頑張れる」と言ってくれたとき、本当に私は嬉しかった。児童福祉の職に就きたいという思いが、より一層強くなった時期でもあります。職場体験での保育園実習や、ボランティア活動(児童福祉施設に関わる街頭募金活動をしていました)よりも、何よりも。近くで成長した彼を見て、私は心動かされたのです。卒業間際は、きっと私の方が支えられていただろうなと思います。私が食べられない給食を食べてくれたり、荷物を保健室に持ってきてくれたり、寒いからとジャージをひざ掛けとして貸してくれたり。

中3という、全ての行事に「最後の」という言葉のつく1年間を、私は満足には過ごせませんでした。壊れた車にエンジンを入れ、無理やり走らせているようなものでしたし、当たり前だよなと今は思いますが、どの行事のときも、私は体調不良でした。ときには児童精神科の通院日が被ってしまい、行事自体に参加できなかったこともありました。でも、だからこその思い出もあります。体調不良で迎えた体育祭で、クラスメイトの15人近くが貸してくれたジャージ。体育部門はほとんど種目に参加が出来なかったけれど、それでも総合優勝が嬉しかった。担任とした、日記での会話。保健室での先生たちとの会話、自傷の手当をしてくれた、養護教諭との2人きりの大切な時間。文化部門(合唱祭)では、体調不良の私を元気づけるために髪の毛を可愛くアレンジしてくれた友達、そして、優秀賞。修学旅行で、帰り道の電車、先生たちに支えられながら帰ったこと。中学3年生の記憶は、苦しいこともあったけれど出来るだけ楽しいことの記録をしておきたいと思います。本当に毎日が、学校が、楽しかった。

養護教諭に申し訳なく、しばらく行ってなかった保健室に、担任に連れていかれたこともあります。担任は、「迷惑だからって言うけど、迷惑かけていいんだよ。そういう仕事したくてしてんだから。」と言いました。迷惑じゃないよと言われるよりも、よっぽど説得力のあるその言葉にハッとしました。そんな素敵な大人に支えられながらも、限界を迎えたのか、あるとき私は食事をすることが出来なくなりました。出来なくなったというか、空腹が消えたんです。食べなくてもいいか、と。2週間で6kg痩せたとき、先生たちは私を見ながら「痩せたよ」と口を揃えて言いました。1ヶ月経ち、また数kg痩せたとき、担任はウィダーインゼリーを私に与えるようになりました。

「俺ん家、ゼリー屋さんなんだよね」と言って差し出した袋は確かにコンビニの袋なのに、その優しさが、わかりやすい嘘が嬉しくて、お昼にはそれを飲むようになりました。1日ウィダーインゼリー1本の生活はいつか限界が来て、数回学校外でですが、倒れたことがあります。そんな次の日は、ウィダーインゼリーがパンになっていたりしました。

余裕がない毎日で、怒鳴られている弟を助ける余力もなく、私は「普通に育って、育てられて欲しい」という弟への願いを叶える力もなくなっていました。ですが、あまりに酷く怒鳴る母の話を聞くと、今までの環境上、児童福祉(や、子ども関連の勉強)などについて勉強をしていた私はどうも引っ掛かりを覚えたんだと思います。母にそれを言うのは気が引けたというか、怖かったけれど、思い切って伝えた「発達障害かもしれない」という私の言葉に、想像通り母は酷く怒ります。私が通っている病院のソーシャルワーカー(PSW)となんとか繋ぎ、同時に弟の通う公文の先生からも発達障害についての指摘をされたこともあり、弟も病院を受診することになり、ADHD/LDと診断されました。薬も服薬しています。が、ふとしたときに母は「あんたがあのときああ言わなければ弟は毎日薬飲むような子じゃなくて済んだ」と言いました。それが当時の私にはどうしようもなく辛かった、私のせいで弟の人生を歪ませてしまったかもしれない、と本当に思ってしまったのです。今思えば、早期発見ができたことはまだしもよかったのではないかと感じますが。

拒食、学校、弟、母、卒業、が重なっていた12月。私は性被害に遭い、自分の価値をいよいよ見い出せなくなっていきました。何度洗っても綺麗にならない体を赤くなるまでこすり、フラッシュバックに耐えかねては腕を切りました。「綺麗だね」という言葉が頭から離れず、「綺麗じゃなくなればいいんだ」とまた腕を切りました。腕の傷が、私を守ってくれるように思えたのです。

この出来事があってから、私は異性から金銭的援助を受けることが数回ありました。性的な関係になったことはありませんが、相手はそのつもりだったと思います。その人たちから言われる「可愛い」「綺麗」はただの犯罪者の言葉でしかないのに、「私はされたんじゃなくて、自分からしたんだ」と性被害に自分の気持ちを上書き保存しているような感覚です。何より、無条件に(いや、無条件ではないですね、きっと最終的に行き着く先はみんな同じだったんでしょうけれど)、私を見てくれたことが嬉しかった。目に見えない何かよりも、20万という与えられたお金が私に私が居る意味をくれたような気がしました。

性被害にあって3ヶ月も経たない頃、卒業前の授業がほぼない毎日で、性教育の講演会がありました。当時の私は喘息が酷く、毎日のように上手く息が吸えずにヒューヒューと発作を起こしていましたが、この日は特に酷かったと思います。そんな話、聞きたくない。性教育なんていらない。辞めてくれ。そう思って、体が拒否反応を起こしていたのかもしれません。担任は事情は知らなかったものの、何かを察したのかその講演会の時間、担任とふたりで別室に移動することになりました。保健室は養護教諭が不在だったので、職員室の近くの移動教室の部屋で一緒に過ごしました。次の日が公立の合格発表だったこともあり、担任と明日のために机を運んだり、ホワイトボードに説明を書いたりしました。少し担任と話したりもして、そこで残りのゼリーの個数を聞かれたのでもうないと答えると、「ちょっとまってて」と部屋から出ていく先生。数分後に、若干息を切らせてコンビニ袋を片手にまた部屋に戻ってきたときに、あ、今買ってきてくれたのか、と驚きました。ゼリー以外食べていないと聞いた担任は、「お前、牛丼買ってくるぞオイ」と笑っていました。

卒業が近付くと、母への感謝の手紙というものを書かなければいけませんでした。私は全く書き進むことがなく、担任や隣の席の男子と一緒にそれらしい文章を書きました。ああ、1/2成人式でも同じようなことをしたなあと思いながら書いた一文を、今も覚えています。私は、「ここまで育ててくれてありがとう、たくさん愛情をかけてくれてありがとう」と書きましたが、そんなもの、思ってもいなかった。周りのクラスメイトが迷うことなく書き進めていく手紙を見て、私は焦燥感に駆られ、苦しくなりました。

 

その他にもきっと、卒業が近付いてきて不安だったのもあったと思います。拒食で頭が働かず、心理的視野狭窄にも陥っていたと思いますが、私は「卒業までに死のう」とどこか心の中で決めていました。それは、今まで私を救ってくれた場所から巣立つ勇気がなかったことが理由です。私の人生そのものだった学校生活が、先生たちとの日々が、なくなってしまうことが怖かった。けれど、どこかで滲み出ていたそれを、担任や養護教諭は気付いていました。養護教諭には、話をする中で「死にたいと思うことは、ある?」と聞かれ、そのときの先生の顔を見て、私は正直に話をしました。先生は私の話を一通り聞いたあとに、「そっか、そうだよね。今までこれだけ苦しんできて、死にたくもなるよね。」と前置きをした後に、「それでも、これは私のエゴでしかないけれど、私はあなたに生きていて欲しいよ」と言いました。

先生は、作業していた手を止めて、私と向き合うように座り、「覚えてる?○○ちゃんが早退するってなったとき、迎えに来たお母さんがすごく怒ってたときがあったじゃない。あのあと、私、「本当に私のしたことはよかったのか」って悩んだの。何年も仕事をしていると、慣れが生じるし、やっぱりどこかで事務的になってしまうときもある。だけどね、○○ちゃんと過ごしていく中で、新しい気付きが本当にたくさんあって。私に学びをくれて本当に感謝してるし、養護教諭って担任を持つわけじゃないから、こうやって話をしてきた○○ちゃんみたいな子のことってずっと覚えてるの。保健室にも来たことなくて、そのまま卒業していくなんて子もたくさんいるから。だから、私、○○ちゃんのこと、○○ちゃんがこの学校から居なくなったとしても忘れないよ。最後に○○ちゃんに会うのが、○○ちゃんのお葬式だったらすごく悲しい。3月末まではうちの学校の生徒だから、亡くなったってなったら私たちに連絡が来ると思うのね?最期に○○ちゃんに会えるのが亡くなったときなんて、それほど悔しいことは無いよ。まだまだ話したいこと、たくさんあるしね。何度も言うけど、これは私のエゴ。○○ちゃんの気持ちなんて考えてない、ただ、私が悲しい、寂しい、悔しいってだけ。だけどね、これは私だけじゃなくて、○○ちゃんと関わってきた先生たちみんなが思ってる事だと思うんだ。」と。泣きそうになりながら、少し俯いた私を見て、先生は「…腕の消毒しよっか」と、いつものように自傷を手当をしてくれました。そのあと卒業アルバムを一緒に見て、先生からも言葉を貰い、迎えに来てくれた英語の先生と手を繋ぎながら相談室に向かい、カウンセリングを受けて帰宅しました。

次の日には、担任が作ったサプライズムービーを見て、みんなと泣きました。その動画の中で、担任は、「また成人式に○人全員で集まって、パーッとやりましょう」と、「卒業式で、呼名のとき、合唱のとき、最高なものを聞かせてください、それが先生からの最後のお願いです」と。泣きながら、ぐしゃぐしゃに泣きながら、動画のBGMに流れていたLemonを聞いて、体調不良のときに担任が車で家まで送ってくれた時のことを、思い出しました。先生の車の色は黄色で、その中で流れるLemonが面白おかしくて笑ってしまったこと。それを流した先生は、私を見ながら「あれ、これで(好きな曲)合ってるよな」と言ったこと。車の中で、体育祭は競技以外はジャージを着れるように話を通したから、もし他の誰かから何か言われたなら、俺がそう言ったと言ってもいいと言われたこと。この先生に、1年間、いや、2年の頃からも含めたら、2年間、支えられてここまで来れたことが、一気に頭に流れて、なんとも言えない気持ちになりました。私のわがままは、「卒業したら日常が思い出になってしまうから、それなら死んでしまいたい」でしたが、それよりも「卒業をして、高校へ入って、そこでも頑張っていくこと」が、先生たちへの1番の恩返しなんじゃないか。そう思ったら、死ぬことなんて出来なくなってしまいました。卒業式のあとのHRで、担任は言いました。「うちの学校はいい子が多い、ほかの学校の人たちも沢山いる高校できっと驚くこともあるかもしれないけれど、それに毒されることなく、ここで培ってきた学びを活かしていける人でいてほしい」と。その言葉を胸に、在校生として最後の、下校をしました。

私は記念写真を撮る間もなく、弟が喘息で大変だということで小学校に向かい、先生たちとの写真はほとんどありませんが、そのときに小学校の養護教諭から「卒業おめでとう」と、多分、唯一卒業当日にお祝いをして貰えたことが嬉しかったことも覚えています。クラスの打ち上げではまた少し泣いてしまいました。

卒業し、多くの先生たちは異動します。養護教諭は産休に入り、中学に今もいる仲のいい、知っている先生は片手で数えられるほどに減ってしまいました。離退任式で担任は、真っ直ぐと前を向きながら「ここでの思い出に、次の学校でも負けません。過去は振り返らず、進みます。」と言っていました。そのあと会ったときには、「△△を頼むぞ。もう、隣の席にはいてやれないけど、それでも支えてやってくれ」と、私に言いました。他の異動する先生たちも、口を揃えて「また会おう」と。私は、先生たちそれぞれにプレゼントを渡し、泣くことなく、笑顔でお別れをしました。

高校への不安を抱きながら、4月まで、家でじっと耐え忍びました。先生たちが心配していたのは、この卒業してからの長い長い1ヶ月の休みの他ありません。それでもそこで死ぬのは失礼だと、申し訳ないと、死にものぐるいで生きました。1度、希死念慮に苛まれている中解離した勢いで駅のホームまで行っていて、焦って家まで帰ったことがありますが死ぬことだけはいけないと、思いました。というか、勇気が出なかった。怖くて1歩が踏み出せないまま、馬鹿らしくなって帰宅しました。そんなこんな、やっとのことで、4月。

母からの酷い怒声も耳に慣れてきた頃、ついに高校生になりました。4月になれば、青少年相談センターにも1人で行くことができます。中学の頃のSCさんが提案してくれ、今も週に1度、話をしに行っています。定期的に会える、中学の頃からの先生はこのカウンセラーさんだけです。

高校は、周りから聞いていたそれとは違い、先生たちは優しい人がほとんどで、不安を他所にクラスメイトも優しく、私をいじめる人達は、どこにもいなくなりました。病院は学校の単位の関係で若干回数は減りましたが、変わらずに支えてくれる主治医と、新たに私を助けてくれる沢山の先生たちに囲まれながら、毎日を過ごしました。体育祭では救護係に徹するあまり倒れて救急搬送、1日経過入院をしたり。父親の単身赴任が決まったり。インターンシップや、バイトを経験したり。

冬にかけて不安定になる私に、担任は辛抱強く接してくれました。放課後に3時間話をしたこともあります。何回もです。私は中学から食事を昼にしていなかったので、特に気にせず高校でも食べずに過ごしていましたが、それに気付いた先生は初めは飲み物や食べ物を買ってくるようになり、次第に奥さんが私にお弁当を作ってくれるようになりました。毎日のその優しさが、とても嬉しかった。あのときに入っていた担任の奥さんからのお手紙も、毎日のお弁当も、いつか私は直接お礼が言いたいな、と思っています。先生と話をするなかで、「客観的に物事を考える力が突出していて、そこは長所かもしれないけれど、本来はもっと甘えていい年齢なんだよ。家で甘えられないなら、学校で甘えよう。先生たちは、みんな○○さんのことを気にかけてるよ」と言われたり、自分が論理的思考が優位なこと、〜しなければいけないという感覚がとても強いことに気付かされました。

色々なことがあったなかでも、何よりも大きかったのは主治医の産休でした。本当に辛い時期に私を長い時間を使った診察で支えてくれた主治医が、しばらく居なくなる。頭が真っ白になりながらも、先生には咄嗟に「おめでとうございます」と笑っていました。その話を聞いた帰り道、病院から家に帰りながらぼろぼろ泣きました。久しぶりに、涙が溢れて止まりませんでした。それからの私は、マスクを外すための練習の日々が始まりました。というのも、私は中学3年生頃からマスクが手離せなくなっており、中学秋頃から卒業式くらいでしかマスクを外していませんでした。これがなければ怖くて仕方がなかった。初めのうちは、朝の1時間だけ学校でマスクを外しました。朝の1時間、と言うのも私は1時間半早く登校しているので、ほぼ人がいない状態での1時間です。それでも、怖くて怖くて、慣らすのなんて無理なんじゃないか、と思いました。だけど、先生とは、最後にマスクを外した状態で、ちゃんと向き合って、お礼を言いたいと思ったので必死になってマスクを外して、授業を受けたりするようになりました。担任に後々「なんであの期間マスク外してたの?」と聞かれたときにこの話をしたら、「健気」とものすごく笑われたのも記憶にあります。結果的に、ちゃんとお別れをすることが出来ました。先生は、「お互いまた会えるときまで頑張ろう」と笑顔で私を送り出してくれた。未練はタラタラでしたが、それでも前を向こうと、思いました。

 

そして、そんなお別れから2ヶ月。母が私の部屋のなかにあった剃刀や血だらけのノートを玄関のゴミ袋に捨てているのを、家に帰宅して直ぐに見つけます(というか、見せてたんでしょうね。見せしめだったんでしょう)。母は弟と姉と出かけていましたが、私は直感的に「あ。次お母さんに会ったら終わる、会うまでに死のう」と思いました。中学の養護教諭とLINEで話し、次の日登校して飛び降りる場所を探すもなかなか見つかりません。当たり前ですよね、人目につかずに飛び降りられるところなんて都合のいいことを考えていたから。諦めて、飛び込みにしようと、今日の授業だけは受けよう、と思い教室に戻ると担任と、仲のいい先生が「いた」と言っていたのが聞こえました。探してくれてたのかな、申し訳ないな、と思いながら、朝学習の間は伏せて、1時間目の準備をしてぼーっとしていると担任から声をかけられ、別室へ移動しました。

養護教諭から連絡をもらったという担任に、色々なことをぽつりぽつりと話したあと、堰を切ったように涙が溢れてきました。先生は、「いいよ、泣こう。沢山泣こう。」と、泣き止むまで私の側にいて、声をかけてくれました。先生のスマホで、中学の養護教諭と久しぶりに電話をして、先生も優しい言葉を沢山かけてくれました。「あとは、大人たちが頑張るから、○○ちゃんはもう頑張らなくていいんだよ。ここまでよく頑張ったね。まだ、息子も抱っこしてもらってないんだから、ね。会おうね、また。謝らなくていいんだよ、○○ちゃんは悪くない。謝ることじゃない。」と、謝る私に言葉をかけてくれました。担任が児相に連絡をするために席を外している間に数人の先生が顔を出してくれて、話をしました。先生たちは、他の生徒にはしないような話をしてくれて、私は数時間前まで本気で死ぬ気でいたけれど、それが少しだけ薄れました。保健室に移動して、養護教諭とベッドで横になりながら話し、そのあと相談室へ行き、1日を過ごしました。

この日は、入試前日ということもあり午後は生徒は校舎内立ち入り禁止、授業も4時間で終わり。けれど、管理職に掛け合ってくれた先生のおかげで、その後も私は相談室で過ごしていました。18時以降は普段は生徒は帰らなければいけないのにも関わらず、19時半まで学校で過ごしました。10分以上1人でいた記憶はありません。仲のいい先生たち、8人ほどが代わる代わる来てくれました。

真剣な話から、どうでもいい笑い話まで。先生の家族の話や、今までのこと。または、私のこと。先生たちは私の話を聞いて、「ストイックだなあ」と笑っていました。「もっと楽に生きようぜ、人生イージーモードよ」と先生に言われたとき、肩の力が抜けた気がしました。

お昼は、担任のお金で社会担当の先生がセレクトして買ってきてくれました。食欲のない私(この時期拒食が酷く、病院に通院し週1で点滴、採血、検尿の他に超音波検査やレントゲン、胃カメラなど色々なことをしていました)に、だいぶハードなパンを買ってきた先生をいじったたくさんの先生たちが、「これは今日だけで終わると思わないでくださいね、学年団はあと2年もあるので」と言っていて、その2年間に私も入っているんだな、と思って少し嬉しかったです。幸せな時間でした。

明日からの作戦会議をして、先生からお守りを貰って(「1週間後、○○の手で返してね」と渡されたお守りは、私がその1週間を頑張る理由として十分でした)、ほんの一瞬過ぎったこのまま帰らずに死んでしまおうかという私の考えは、養護教諭や学年総務、仲のいい先生たちに見送られながら担任と、今の(2年になってからの)担任と3人でバスで帰ったことで消えてなくなりました。

 

そして、なんとか入試休みを乗り切り、試験に向けてどうにか頑張っていかなきゃいけないな、と思っていた矢先の、新型コロナウイルスによる学校の臨時休校。血の気が引きました。たった1週間の休みでさえ、こんなに命懸けだったのに。次は、先の見えない1ヶ月?数ヶ月?どうしてこうなったの?パニックになりながらも、急に私の高校1年の学校生活は終わりました。

担任との作戦会議。担任は、親子関係関連の本を貸してくれたり(○○さんのことで勉強しようと思って、と仰っていました)、お菓子をくれたり、これまでもたくさんの時間を共にしてきましたが、ここで踏ん張らずに終わるのだけは嫌だと思い、「頑張ります」と答えました。けれど、ちゃんと不安だということも話しました。というのも、インターンシップ終了後、担任から「どうだった?子どもたちから頼られて、嬉しかった?」と聞かれ、大きく頷いたところ「それは、先生たちもだからね」と言われたことがあるのです。頼ることは、悪いことじゃない。それを私はその出来事から理解していたので、しっかりと、辛い気持ちも伝えながら、前を向くことにしました。

 

毎日聞こえる怒声。耐えきれないほどうるさい金切り声。そのまま春休みに入ることも考えたら、気が遠くなる毎日でした。母の機嫌を保つために料理を始め、最低5品は作るのに自分は食べない。それをしながらオンラインで課題を提出する日々。元々冬は調子が安定せず、例年精神的にとても不安定ですが、いつも以上に酷く安定しない毎日。課題を、泣きながらこなし提出する。家に居場所はない、だけどそれ以外の場所には行けない。病院は週1になったけれど、主治医が変わったばかりで、しかもフェイスシールドにマスク。怖くて目を合わせることも出来ませんでした。元主治医に会いたいと、毎日のように泣いていました。会うたびに痩せていく私に、主治医は「今日は菓子パン買って帰るんだよ、約束ね?」と、言いました。週に1度の通院とカウンセリングでしか、外に出れない日々が続きます。

春休みが終わる頃、また学校の臨時休校が延びるとなったとき、オンラインでの提出物に、最後のSOSを出しました。「心が折れそうです」。すぐに担任から連絡があり、それから管理職と相談して、1週間に1回ほどなら学校に来てもいいと言われ、それまで必死に耐え、久しぶりの学校へ行きました。先生たちは笑顔で迎えてくれました。「○○さんのための貢物が…」と、机の上に並べられたお菓子や色々なものに、「私はここにいていいんだな」と感じて泣きそうになりました。

学校で勉強をしたり、先生と話をしたりしました。新しく学年に入った先生と顔合わせをしたりもしました。相談室で過ごすその時間は、私にとってとても大切なものでした。コロナ関連でのポスターを作らなければいけないけれど、絵が…と、先生たちからポスターの作成をお願いされたこともあります。お礼は、コロナが収束してから養護教諭からの100回のハグ。そんな話もしたな、と思い出しました。とある先生から、「今日も相談室は大盛況で、来るタイミング逃しちゃったよ。先生たちは本当に○○のことが好きだね。人柄だよ、こんなにたくさんの先生が気にかけてくれてる。もちろん俺もね。」と言われたときには、私が生きている意味を感じました。

また、SCさんが異動されたので、新しいSCさんとも話をしました。他に生徒は誰もいない学校でした教室でのカウンセリングや、相談室の掃除。お礼にとレモンティーを買ってくれたことを今も覚えています。絵しりとりをしたことも、全て宝物です。

SCさんはとても話しやすくて、ほとんどの話をすることが出来ました。その話を聞いて、「だいぶ情報量が多いねえ」と笑いながら、「こんな中で、よくここまで生きてきたね」と言われました。料理の話をすると、「今度会うまでに作る」と言って、本当に料理をして感想を言われたり、もちろん、SCさんと話す中での気付きもたくさんあったと思います。活動モニタリングシートという毎日の生活記録を始め、自傷や食事について自分を客観的に見れるようになったこと。そして、そのモニタリングシートを私はとても大切にしていて(口に出すよりも言葉にして分に書く方が私は好きなので)、自傷をしなかった日にシールを貼ってみると、SCさんはとても褒めてくださいました。学校のSC訪問は月2回。行事ごとなどがあり、1ヶ月後になるときにはいつも何かを貸してくれます。「これ、すっごく続き気になってるけど、○○さんに貸すから、絶対直接返してね。次も会おうね、来なかったら僕のこと気持ち悪いって思ってたのかな〜とか勘違いしちゃうかもなあ」と、笑いながら言うSCさんと、また会うために、と結局生き続けてしまうんです。策士だなあ、なんて思いながら。月に2回、1時間のSCさんと話せる時間が私は大好きです。

また、新しい主治医もとても優しくて、元主治医と違い男性でしたが、穏やかで話のしやすい人でした。物腰が柔らかくて、「よく頑張ってるなぁ、生きてて偉いよ。それ以外なんもしなくていいくらい頑張ってる。」と、診察のたびに言ってくれます。元主治医とはまた違うけれど、頼れる大人の1人だと思います。

 

新たに加わったたくさんの頼れる人たちとの毎日を噛み締めながら、私は今日も生きています。元主治医とのお別れのために必死に外していたマスクも、今は必須になってしまいまた外すことが怖い気持ちが強くなってしまいましたし、母への期待も、恐怖も、全て、何も変わってはいません。今もずっと、私は母のことを嫌いにはなれていないのです。それは、多分きっとこれからも、です。コロナ禍で、色々なものを失い、悪化させ、苦しむことがありました。けれど、それも乗り越えて、円満に離れるために、離れてから私も変わっていくために、色々な人と話をして、これからを過ごしていくつもりでいます。母から離れることは、変わることは、怖い。だけど、そうしていかなければいけないことは過去を見ていても強く思います。

先生たちが褒めてくれた、絵を描くことも、写真を撮ることも、料理やお菓子作りも、こうして文章を書くことも、子どもと接することも。全て大好きなことは、私じゃないとなりえなかったことだと思うので、ずっと後悔してきた「生まれてきてしまった」という気持ちは、今はほんの少しだけ薄れたような気がしています。

 

後半は前向きな話を多く入れましたが、正直なところ卒業までに死ぬつもりでいることは事実です。高校に入ってからは、余計にそう思うようになりました。変わるのが怖い、変わらなければいけないのが怖い。何より大人になることが怖い。「子どもを守っていく義務が、大人にはあるんだよ」と多くの先生から言われました。だからこそ、私は子どもという状態に縋りついているんだと思います。子どものままでいたい、きっと過去のことも手離したくない、そうしていれば同情という優しさに触れていられるから。

母さんがどんなに僕を嫌いでも、という本があります。そこに書かれている一文に、とても感銘を受けたので、ここに記しておきます。

 

心の傷は、確かにある。何もかも、なかったことにはできない。それでも、傷に固執して、傷を抱え込み、傷を手放すまいとしてきた自分がいることも確かだ。生きづらいと感じることがあると、何もかも傷のせいにしてしまおうとしてきた。だから、傷を手放せなかったんだ。そんな自分をさっさと卒業して、自由に生きていくことができないものだろうか。

 

似たような文ですが、

 

自分を愛することには、被害者の役割をやめることも含まれます。被害者の役割を担うことには、注目と承認が得られるという恩恵もあります。私たちは、他人からの関心や哀れみを愛と誤解し、それを得ることが私たちが愛を感じる唯一の方法になり始めます。

 

自分を愛せなくなってしまった人へ、という本です。

 

 

今生きていること自体、少し不思議な感覚で、なんだか生きる予定になかったおまけを生きているような気もするのです。多くの人は、「自分のために人生を生きて」と言います。それは、夢を叶えて欲しいだとか、家を出て欲しいだとかそういうことなんだと思います。けれど、私にとっての自分のために、は、きっと死ぬことです。今までずっと他人本意で生きてきたのに、急に自分のために何かしろなんて無理な話ですし、自分で色々なことを選択していかなければいけない今がとても苦痛です。それでも、辛くても。どれだけ辛くても、毎日を生きていくことが、私を今まで支えてくれた人達に出来る恩返しであることも理解しています。天秤にかけたとき、あと卒業までの1年半で、私は何を選択するんでしょうか。今もまだ、分かりません。

 

振り返り、立ち止まり、1歩進んでは、また1歩下がりなんていうことを繰り返していくかもしれませんが、自分にとって最善の選択をして(0か100か思考で、100点の答えしか認められないところがあることに最近気が付きましたが、ここでいう最善の選択は「100点の選択」ではなく、「私にとって、少しでもより善いもの」だと考えています)、どんな形であれ1年半後、後悔のないようにしていけたらいいな、と思っています。

長い長い昔話と、これからのこと。自分と向き合うための整理のお話に、付き合って下さりありがとうございました。

日々勉強

発達障害/自傷行為(と自死)/HSPについての論文や書籍を読み漁っている。社会福祉制度/精神疾患/虐待/貧困なども勉強しつつだけれどそこはまだ浅いので、夏休みが終わる前にでもまたまとめる。貧困と虐待、発達障害精神疾患、それに加えて社会福祉制度も全て繋がりが強いと思っている子である程度理解をした上でまた全体的に整理しようと思う。

インプット出来てるかの確認の書きだめなので多分すっごい読みにくいです、悪しからず。

 

発達障害

自分がすごく興味がある分野。というのも、児童養護施設に入所している子供のうち37%に心身の疾患があるという厚労省の調査結果がある。内訳は知的障害(14%)が最も多く、自閉症スペクトラム(9%)、注意欠陥・多動性障害のADHD(9%)、反応性愛着障害(6%)の順。児童養護施設義援金募金を募る街頭募金活動をしていたこともあり、直接児童養護施設の施設長の方と話をする機会が2度ほどと、児童福祉に携わっている方と話をする機会が数回あったけれど、口を揃えて「実際はもっと(グレーゾーンの子が特に)多い」と言っていた。特に多いのは多動や衝動性を呈するADHDのような行動をする子。ただ、愛着障害含め虐待などの不適切な養育環境に置かれている子どもはそういう行動をしやすい部分があり、病名をつけるのが必ず正しいかと聞かれると分からない、とも。確かに児童養護施設に入所している子どものうち66%に虐待経験があることを考えればそうだよな、と納得した。またはその発達障害など自体が育てにくさに繋がり、ディフィカルトチャイルドの子どもを虐待をしてしまうという場合もあるので切っては切り離せない問題だと思う。

将来児童指導員になりたいと思い始めた頃から学ぶべき分野だとは思っていたけれど、現場の声を聞くとかなり多いんだなぁと実感した。それに加えて自分の弟がADHD・LDであることもこれらを勉強するようになった要因だと思う。論文は同時進行で読みつつだけれど本については読み終えたものも数冊あるのでまとめておく。

発達障害の子どもを伸ばす 魔法の言葉かけ

・LD(学習症) 学習障害の本

・赤ちゃん〜学齢期 発達障害の子どもの心がわかる本

・イラスト図解 発達障害の子どもの心と行動がわかる本

発達障害 生きづらさを抱える少数派の「種族」たち

元々購入していて読み直したのも含めて最近読んだのはこの5冊。「ふつう」と「発達障害」に境界線はないということ、その子と支援を結びつけるためのひとつの方法として、「発達障害」という診断名があること。これは特に頭に残った。最近やたらと愛着障害発達障害という言葉が蔓延している気がしてならない。実際に大事なことは発達障害であるか否かよりも、本人の苦痛をどれだけ軽減できるか、そのための環境調整の方法を考えることだと私は思っているし、発達障害という言葉が貰えたから何かが変わる訳ではない。なおさら、通院をしていない、自己診断での安易な判断は危険だろう。思春期のうちは特に、私はこれかもしれない と思ったらだんだんと症状がそれに似てきてしまう、または他の病気や障害が隠れているとしてもそれに気付かない可能性がある、かなりリスクの高い行為だと感じる。愛着障害発達障害だけでなく、環境調整による苦痛の軽減の必要性は疾患全般で言えることじゃないかと思う。

 

・読みとワーキングメモリー:「学習障害」 研究と認知科学

・ワーキングメモリと発達障害

・聴覚優位で書字運動に困難を示す発達障害児への漢字学習支援

論文に関しては完全に弟寄り。ADHDの弟について調べるついでに見てたものなのでここからはそんなに学ぶというよりは実践って感じ。

 

本のなかでも自分にはなかった感覚やなるほどなと改めて思ったものを何個かまとめておく。

 

  • 子どもを理解する道しるべとして、「気づき→仮の理解→仮説→対応」
  • 二次障害は内在化(うつや不登校やひきこもりなど)と外在化(家庭内暴力や非行など)
  • 「見る」「聞く」の得意不得意の見極めにより支援方法を変える(視覚的に伝えるか、聴覚で伝えるか)
  • 叱る、罰する、がんばらせるでは周囲を困らせる行動は改善しない
  • 学習方法や生活での工夫を心がける

 

実際どうかはわからないけれど、個人的に二次障害を防ぐにはまず早期発見・早期介入が大切だと思う。そもそもに発達障害ということがわかっていなければ「叱ってやらせようとする」ことも多いんじゃないかなと。それを減らすというか、そもそも養育者に発達障害という概念に気付いてもらうのは大切なことだと思う。周りとサポート(環境調整)によって、早期から生きやすい環境にあればそれがない子どもに比べればダメージを極限まで少なく出来る可能性が高い。WAISなどの検査によって、得意不得意がわかればもっと(例えば視覚優位であれば言葉よりも図や表を用いての説明など)いい環境を作っていけるのではないかと思う。気づきが1番大切な部分であるけれど、そもそも発達障害を知らなければ発達障害を疑うこともないので発達障害という可能性を頭に入れておく必要はある。ただ医者でもないのに発達障害と決めつけるのは違くて、支援に結びつけるまでの役割を担う、継続的な関わりを持つことが何より大切なんだろうなと思う。これは発達障害だけじゃなく、虐待などについてもそうで、知らなければ疑えないし、知っていることで出来ることはかなり増えていくんだろうなあ。

 

 

自傷行為

基本の自傷に至るプロセス、アディクション(嗜癖)としての自傷、ボディモディフィケーション(身体改造)としての自傷自傷行為と絶対的居場所欠陥状態、自死自傷の関連性についてひたすらに(特に松本俊彦さんの)本や論文を読み進める毎日だった

・自分を傷つけずにいられない 自傷から回復するためのヒント

自傷行為の理解と援助

リストカット 自傷行為を乗り越える

・「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか

本はこの4冊。4冊目はどちらかと言うとそこまで自傷行為ばかりの内容ではないが、援助方法の理解は自傷行為根本の理解に繋がるということで一応掲載。

 

・青年期における 『故意に自分の健康を害する』 行為に関する研究

自傷行為の実態について

・母からの負情動・身体感覚否定経験が自傷行為に及ぼす影響: 解離性体験尺度 DES-Ⅱ との関係

・自己切傷患者における致死的な 「故意に自分を傷つける行為」 のリスク要因: 3 年間の追跡調査

・自殺関連行動と文化: 自傷とボディモディフィケーションに関する文化精神医学的考察

・青少年の自殺予防のために何ができるか

自傷行為をする中学・高校生は, 友人との関わりをどのように捉えているか―自傷経験者のブログを用いて―

・児童・青年期の非自殺性自傷

論文。自傷全般の話と自傷行為のリスク、自傷とボディモディフィケーション、自殺関連行動、自傷から考える自殺予防、が主な内容。

 

・自分を傷つけずにはいられない人へ 「決して良いことではないけれど、悪いことでもない」

・「いのちの大切さ」を説くだけでは子どもは救えない

自傷のことを誤解しないで~自傷理解の基本

生きるための「孤独な対処スキル」としての子どもの自傷。大人ができることは?

リストカット「気持ちいい」と言ってしまう理由 自傷との向き合い方
 ・ピアスとタトゥー、そして自傷の傷痕

・「死にたい」と向き合う

・もしも身近な人の自傷に気づいたら

ネット記事は最近読んだものだけ。

自傷行為についての記事や論文や書籍はもっぱら松本俊彦さんのもの。偏りが出てしまうかと思い一応色々な人の論文を読んでみたりしたけれど、文献資料でだいたいは松本俊彦さんの本などが出ていたのとだいたいは同じようなことを述べているので多分偏りはない、はず。

当事者であるからこそ読んでいてなるほどなと思うことが沢山あった。

 

  • 若者の約1割に自傷の経験あり
  • 自傷は傷の手当をしないことも含め自傷。傷の手当を求めることは「反・自傷的行動」として称賛されるべき行為
  • 自傷の本質は「誰にも頼らずに自分自身で苦痛を緩和すること
  • 見える傷」の背後には「見えない傷」がある
  • 自傷行為の背後には絶対的居場所欠陥状態がある
  • 自傷行為とは単に自らの皮膚を切る(cut)だけでなく、自分の意識から「つらい感情」「つらい出来事の記憶」も切り離して(cut away)、「何も起こらなかった」「何も感じなかった」ことにする行為
  • 同時に「体の痛み」によって「心の痛み」に蓋をする行為
  • リストカットでは死なない」としても「リストカットする奴は死なない」とは言えない
  • 自傷行為経験者は10年以内の自殺既遂により死亡する確率が自傷行為未経験者と比べ400~700倍高い自傷死への迂回路である。
  • 助けを求めないこと」自体が自傷行為自傷を繰り返す人は特に援助希求能力が低い
  • 自傷とボディモディフィケーションの境界は曖昧
  • 自傷行為のあと、血液中にエンケファリン(脳内モルヒネ物質)分泌が促され、それが不快感情の軽減に繋がっているのでないか
  • 自傷の鎮痛作用は麻薬と同じように耐性を生じやすいエスカレートしやすい
  • 「ストレスへの脆弱性により自殺リスクが高まる
  • 自傷行為をしている人たちはそうでない人たちよりも、摂食障害の傾向が顕著(飲酒や過量服薬なども同様)
  • 自傷行為と虐待、生育環境の関連性
  • 自傷への対応の基本「Respond medically, not emotionally(感情的に反応するな、医学的に反応せよ)」
  • 習慣的な自傷アディクション(嗜癖)の可能性ーアディクションとなりやすい物質や行動の共通点①物質や行動による快楽の増幅または不快の解消②使用による即効性があるか③それは他者を介在しないか(1人でできるものか)ーに全て当てはまる

 

自傷行為経験者の自殺リスクが高いのは、自傷行為によって死へのハードルが下がっていること(痛みや自分を傷つけることに対しての抵抗度が下がっていること)もあるけれど、それ以上にそもそもに助けを求める力(援助希求能力)が低いからではないかと前々から考えていた。自傷をしなければ生きていけない状況ということ自体がまず問題で、周りに頼れない、頼り方がわからないからこそ自傷で孤独の対処をする他ないのではないか。頼れる人がいたとしても、過去の虐待など不適切な養育環境にあったことを考えると「自分なんて居なければよかった」と考えるからこそ頼ることが出来ないのではないか、と。

あとは記憶も切り離している(cut away)からこそ(見えない)傷が余計に見えにくくなってるんだなぁと色々なものを読み進めていてつくづく思った。切り離さないと普通に過ごせないほどの苦痛だからこそ、それを切り離すことが間違いだとは思わないけれど切り離すことでむしろ恐怖心だけのフラッシュバック(言葉にしないまま無理やり蓋をした感情が溢れ出ている状態)をするのかなぁ。それが意味もなく死にたいとかよくわからないけど死にたいとかに繋がるのかな。あとこれはTwitterで他の人を見ていたり、まあ自分も含め、顕著だなぁと思っていたこと。自傷行為をしている人は他の自己破壊的な行為をしていることがすごく多い。自分を傷つけることに対して抵抗がないというか、自傷の種類を多く持っている、ような感覚。同じものを使っていると鈍るから、複数のものを用いてなんとか対処している。リストカットなどで外部を、飲酒や過量服薬、摂食障害的な行為で内部からも自分を傷付ける状態なのではないか。それも全て鈍った結果が自殺なのではないか(死への迂回路、という考え方はこういうことなのかな)。

死への迂回路、と言うけれど私はそれ自体が悪いことではないと思っている。迂回することで見つかるものもあるから。迂回しているうちに出会ったもので生きることができるようになるかもしれないから。けれど、死を手繰り寄せてしまっているというのは事実で、難しいなぁと思う。まだまだ吸収しきれてない消化不良な感じ。勉強しながらなるほどなぁと思うことも多いのでまだまだ続けていく、つもり。

 

 

HSP

HSPとは、生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」という意味。HSPは環境や性格などの後天的なものではなく、先天的な気質、即生まれ持った性質であり、統計的には人口の15%~20%。5人に1人があてはまる『性質』であると言われている。

自分はHSPの症状(HSPは性質であって病気では無いので、この言い方が正しいのか分からないけれど)に当てはまってはいるもののなんだかそれを自分でHSPだと言い切るのが変な感じがして噛み切れないような感覚を持っている。ので、本を読んでみた。何冊か。

ただ自分の考えとしてはHSPというものが確立された何かだとか思えていない。しっかりとしたエビデンスがあり、研究が進められているというわけでもないので概念としては存在していてもこの言葉を例えば医療の現場で使ってる医者も少ないんじゃないかなぁと。なので、こういうものもあるんだなぁ、くらいの気持ちで。重く受け止めるものと言うよりは、「明るい性格」「恥ずかしがり屋な性格」とか、そういうのの1つとして「敏感すぎて生きづらい性格」くらいの感覚として受け取りながら本を読み進めてみた。

 

・鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

・過敏で傷つきやすい人たち

HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン) の教科書

・敏感な人や内向的な人がラクに生きるヒント

読み進めていてどれもだいたい言ってることは同じだったので軽くまとめてみる。5人に1人って考えると(その5人に1人のHSP全員が生きづらいというわけではないけれど、生きづらさを感じやすいのは事実だと思う)世に生きづらい人って何人いるんだろうなぁと呆気に取られてしまう感じ。

 

・感覚処理感受性とソーシャルスキル,精神的回復力の関連性の検討
心理的敏感さに対するレジリエンスの緩衝効果の検討
・Highly Sensitive Person Scale日本版(HSPS-J19)の作成

 

こういうのを見てるとやっぱり病気とか障害とかではなく一種の特性、性格として見るべきものだなぁと。根本としてその気質があったとしてもそれが現れるかどうかって結構環境因子的な要因も大きい気がする。

 

 

  • HSPの特徴 DOES深く処理する過剰に刺激を受けやすい全体的に感情の反応が強く、特に共感力が高い些細な刺激を察知す
  • HSPには70%の内向的なタイプと30%の外向的なタイプが存在する
  • 外向的なタイプは生育環境に恵まれ育った場合が多く、内向的なタイプはその逆
  • HSPは安心感のない家庭で育つと特に恐怖や憂鬱を感じやすい
  • 自己肯定感が低くなりがちで自分を追い込みやすい
  • 無意識な自分ルール、自分自身がどうあるべきかについて高い基準を設けている
  • 自尊心が低いからこそ優秀でいようとする
  • 憂鬱になりやすい
  • 相手の気持ちも過敏に感じてしまう故に怒りが上手く放出できない
  • ネガティブな自己像を持ちやすい

 

 

周りからストイックだ、と言われる原因がわかった。これだ。これだった。「そうしなければいけない」という感覚さえも自分ルールだ、と。自分自身への高い基準を設けることは自己肯定感や自尊心が低いことに繋がっているというのはものすごく共感した。自分をよく思っていない人は、それを補うために努力し、様々な分野で優秀であろうとする(そうしていないと自分の価値を見いだせない)。しかしその一方で心の奥底では、自分がちゃんとうまくできているか酷く不安に思っている。下記は読んでいて自分のことだと手が止まってしまった部分。

 

低い自尊心と高い基準は補い合う関係にあります。

「自分は高い基準を設けなければ、だれからも愛されない」と思っていても、きっと現実が、その考えが間違っていることを証明するでしょう。いつかはありのままの自分を愛してくれる人が現れます。

しかし、自分に高い基準を設けることで誰かに好かれた経験があって、低い自尊心を高い基準により補うという方法をずっととり続けてきたなら、相手は「あなた自身」を好きなのか、「あなたの親切心」が好きなのか、どちらなのか知ることができません。だから、「自分は愛されないんだ」という思いこみが心に巣くったまま離れないのです。 HSPはこれまでの人生で愛された経験が幾度となくあるにもかかわらず、心のなかではひそかに「愛してくれたのは、自分が自分であるからではなく、高い基準を設けているからにすぎない」と思うのかもしれません

自分で自分のハードルを上げ、逃げ道をなくしてしまっている。奥底にある「頑張らないと好いてもらえない」が、努力の結果好かれると「頑張ったから好いてもらえている、ただの自分には価値がない」という考えに変わっていく。そして、「頑張り続けなければいけない」、または、「頑張らなければ見捨てられる、頑張ったからこそ好いてもらえた」と思ってしまうのではないか。今までの自分の行動パターンもだいたいこれ。自分からハードル上げて、達成して褒められたら余計にもっと上を目指して自分でも戻ることが出来なくなってしまう。自尊心が低いからこそ自己顕示欲が強く、その自己顕示欲を満たす方法もすごく不健康(無理をしてまで頑張り続ける)なんだろうなと。

また、怒りを察知しやすいが相手の気持ちを考えてしまうがために怒りを放出することもできないというのはそういうことか!と思った。で、相手に怒りをぶつけずになんとか怒りを放出する方法と言えば1個前に取り上げた自傷だろう。あれは自分で怒りを処理できる方法だ。また、過敏すぎるからこそネガティブになりやすい。自分が怒られていなくても怒られているような感覚、その場の空気に圧倒され、飲まれてしまうんだと思う。

HSPのなかでも外向的なタイプと内向的なタイプが存在していて、それは先天的なものというより後天的なものらしい。家庭環境に恵まれていれば外向的なタイプ(敏感さを強みにしていける)になるが、その逆であれば内向的なタイプになる。あとは外向的なタイプの中にも「そうせざるを得なかった、そうすることしか認められずに育ったために」外向的、という場合もあると。そう考えると、HSPという気質だけがどうという話ではなく育ちの過程で起こったことも複合して関係しているんだな、と。虐待や貧困に関しても言えることだけれど、HSPの生きづらさに関しても原因はひとつじゃないんだなと思う。ただ発達障害の話題でも話した通り、「その病名か」(HSPは病気じゃないとわかった上で、発達障害などと比較する意味でこう表記します)よりも、もっとも大切なのは「じゃあどう支援するか、変えていくか」。それが難しいんだけどね。自分はHSPだ、おしまい。じゃなく、それならどうしたら生きやすくなるんだろうか、何かヒントはないか?と考えるまでが自分がHSPだと感じたときにすべき行動なのかな、と思う。それもあるから自分はいつまで経っても明らかに共通点があっても自分をHSPだと思えない(思いたくない)のかもなぁ。

 

 

最近は社会福祉士(精神保健福祉士)のことやそれに関連した精神疾患社会的入院、他にも色々な社会制度だったり児童養護施設のこと、児童相談所の1時保護の環境とかも含めて勉強しているところ。ちょっと開いた口が塞がらないような事例も結構な数あったりしてすごく重たい気持ちになるところはあるんだけれど、いい面も悪い面も加味した上で色々考えつつまたまとめたいなと。

 

思考のお裾分け

動画や本でインプットした情報を自分なりにアウトプットしておく。腑に落ちたものの記録。

 

 

「死んじゃダメ」じゃなくて「生きていて欲しい」

死にたいと思ったときに、「こんなふうに思ってはいけないのに」とか、死にたいと思ってしまう自分にさえ嫌気がさす、って人がいるけれど(そういう道徳的な教育だったり、育ちだったりでそう思ってしまうのは致し方ない部分はあると思う)、死にたいと思ってはいけないということはないんだなぁと。死ぬことが悪いことなんじゃなくて、ただ「生きていて欲しい」だけなんだろうな。知りもしない人、それこそ会ったことも見たこともない人が自殺したニュースを見たとしても心を痛めたりはするかもしれないけど、「死んじゃダメでしょ!」とはならないと思う。ニュースになるような自殺ってなると理由が明らかな場合ーーいじめだったり虐待だったりーーも多いからなのかな、とも感じるけれど。私は全世界の人間が死んではいけない、全員が全員生きていなければいけないとは思わない。私と関わってきた人、とりわけ私の支えになってくれた人や陽性の感情を抱いた人、好きとか尊敬とか憧れとか、単純に一緒にいたいとか、話してて楽しいとか。そういう人には、生きていて欲しいと思う。生きていて欲しいというか、死んで欲しくないというか。死ぬことは悪い事じゃない、死んでしまいたいほど辛いのもわかる、それもわかるけれど、それでも生きていて欲しい、そんな気持ち。死んだら地獄行きだよとかそういう胡散臭いのじゃなくて、本能というか、なんていえばいいのか分からないけれど、ただ「生きていて欲しい」だけ。エゴです。相手のことを考えず、自分がただその人がいなくなることに耐えられないから、って気持ちを優先しただけの自己中心的な考え。それでも、私は生きていて欲しい、と思う。

だからこそ私は、死ぬことが悪いことだとか生きていればいいことがある、生きてさえいればいいって気持ちはわからないけれどとにかく 死ぬのだけは辞めて欲しい って言うのはものすごく分かる。わかるからこそ、それを周りから言われるのが苦しい。自分だけはダメ、それ以外はよし、みたいな感じ。相手に関しては落とし込めるのに自分になるとめっぽうダメ。それは死にたい以外でも、自分以外が休むことはいいと思うしゆっくり休んでって思うけれど自分だけはそれが許されないとか、そういうところもなんだろうなぁ。むしろ自分を許すことが出来ている人なんて居るんだろうか、わからないけれど。

頭の中では理解している、周りの人の心情もわかる、なのに死にたい自分がいる、その両価性が余計に自分の首を締めているのかなと感じる。これもまた知りすぎた、学びすぎたの弊害なんだろうな、若干余裕が出てくると一気に苦しくなってしまう。今なら、中学養護教諭が卒業間際に言っていた、「死なないで欲しいよ、それは私のエゴでしかないけれど」って言葉がすごくよくわかる。そう、エゴでしかない。エゴでしかないけれど、生きていて欲しい。わかる、それがわかるから。だからこそ、わかっているのにどうしようもなく死にたい自分が許せない、けれど死にたいが悪いことじゃないと頭では理解していて、またアンビバレントで苦しくなってしまうのかな、と。考え始めると不毛でしかないし、意味もないんだけれど思考を止めるのは難しい。ずっと考えて、悩んで、ぐるぐる堂々巡りを繰り返す。そうなることを理解しているのに、また考えてしまって…の繰り返しで疲れる。常に頭が働いていて、自分でもどうしたらいいのかわからないような気持ち悪い感覚は何度経験しても慣れない。

 

「自立は、依存先を増やすこと、希望は、絶望を分かち合うこと」

上記は新生児仮死の後遺症により脳性まひの障害を持つ熊谷晋一郎さんの言葉。

自分の中で何となく「もう高校生なんだから」「もう子どものままではいられない」って気持ちがずっとあって(中学のときはそれはそれで、義務教育も今年で終わるんだから頼りすぎは良くないとか、結局いつも自分に縛りをつけてしまっている感じは否めないんだけれど)。そもそも私にとって大人ってどういうものなんだろうなと思って、考えていて。(広義でいう自立ではなくて、自分の中だけの意味としての)「自立している人」なのかな、と。でもその私の思う 自立 は人に頼らず、たった1人で生きていくもはや綱渡りみたいな言葉。調べてみたけれど、「自立ー自分以外のものの助けなしで、または支配を受けずに、自分の力で物事をやって行くこと。」と、ある意味間違っては無いのかな?と思うところはあるけれど自分以外の助けなしで って言うのが情動的なつながりも無しとしてなのか、最終的には自分で選択していくこと(そこまでのプロセスでは人に頼り、悩むこと)なのかで違うのかなーと思った。支配を受けずにと言う部分を見ると、頼りはするし、悩むーーその作業は1人であれ他の人と共にであれーーということもアリで、それでも最後は自分自身で選択すること、自分の行動に責任を持つこと。そこまでが自立なのかな。

1人に頼るだけでは(または頼らず1人きりで生きていくだけでは)必ずどこかでボロが出ると思う。その1人が24時間フル稼働なんて無理な話だろうし、頼る人さえいない状況では結局自分の中での固定観念でしか物事を考えることは出来ない、視野狭窄になりやすい状態であるだろうし(自分の中での固定観念って自分ではわかっていないけれど結構根強かったりするし、それを自分だけで軌道修正というか、こだわりとしての固定観念やこうでなければいけないという感情を変えていくのは難しいと思う)。細くたくさんの繋がりを持つこと、そしてそれを続けていくこと。それが何よりも大切なのかもしれない。どんなに細くても、継続していく。その頼みの綱がたくさんあればあるほど、ある意味自立に近付いているのかなと思う。それこそ自立は依存先を増やしていくことという言葉の真理なのかな。

 

 

“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。

実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。

 

これはまた違う熊谷晋一郎さんのネット記事からの引用。

身体障害者だけでなく精神障害者であったり、障害と区分されなかったとしても「AC(アダルトチルドレン)」だったり「機能不全家族育ち」だったり「愛着に問題がある人」にも当てはまることなのかな、と。そういう人は顕著に頼れない、依存ができない。または偏りが激しく、1人に依存しすぎてしまったり依存する先が適切でなかったり(繋がりを求めるための援助交際など)、そもそも安心して依存できないからこそ「行為」に依存してしまったり(アディクションとしての自傷行為、飲酒、過量服薬などはここの部類に入るのかな)。そもそも「依存すること」に関して人一倍敏感で、また人一倍鈍感なんだろうなと思う。育ちの過程で適切な(自立としての)依存をする経験がなかったのかなと安易に想像できるし、本当に基盤としての愛着やそういう(頼ったりとかの)経験は大切なんだなと感じる。

 

「自立」と「依存」という言葉の関係によく似ていますが、「希望」の反対語は「絶望」ではないと思います。絶望を分かち合うことができた先に、希望があるんです。話や思いを共有できたからといって、実際には問題は何も解決していないのだけど、それで得られる心の変化はとても大きいんです。

絶望が、深ければ深いほど、それを共有できたときに生まれる希望は力強いんですよ。

この方の言葉を頭の中に入れてみると対義語こそ真理というか、形容しがたいような感情を抱く。けれど、本当にそうだなと納得する。自助グループとかもこの類なのかなと。絶望を理解して貰えた、またはその絶望を共有できたときに感じる希望や前を向く原動力になるような、生きていく糧になるような、そんな気持ちは絶望が大きければ大きいほど(いい意味でも悪い意味でも)自分の中での大切な何かになっていくと思う。カウンセリングとかもそうで、結局はあれは話をしていく中で自分の中で理解出来ていなかったものを理解していく、言葉にすることでインプットしていく作業なんだろうな。逆にそれ(絶望を分かち合うこと)がないからこそ生きていくのが辛い人も多いのかもしれない。「居場所がない」だったり、「誰も私を理解してくれない」と悲観している人はそういう経験がない、または乏しい、またはその共有の経験以上に根深く、深い絶望があったりーーなのかなと。色々と考えさせられたというか、本当に言葉を紡ぐのが上手い人の文章を読むとたくさんのことを吸収することが出来てとにかく楽しい。内容が内容だけにこの言い方だとちょっと不謹慎だけれど、楽しい。

 

最近は色々なものを読み漁ってはインプットして、アウトプット(自分の言葉で言語化してそれを文章にしたり、自分のものとして落とし込んだり)するのに熱中しているのでまたこんな感じの雑多なものも書きたいなーと思う。

 

楽になる方法を模索する、決意。

死にたいとか生きたいとか、死んだらどうなるとかそういう哲学的なことは私には分からないしそれによって自死を選ぶことを辞めようと思えることはないと思う。けれど、最近の頭の中は「楽になるには」ーーが、巡り巡って居る気がする。それはスクールカウンセラー(以下、SC)から言われた「楽になる方法を探していこう」という言葉が原因だったと思う。

今まで死に関して(自分から語ることは無かったけれど、切迫した状態だったりするとだいたいは支援者、とりわけ周りの大人から話を始めてくれる)、「それだけは辞めてくれ」と言われることがほとんどだった気がする。間違ってはいないし、確かにその「死んだら全てが終わりなんだよ」という言葉にも頷けた。ただ、まぁ、その全てが終わり を期待している自分からしたら、あまり響くものではなかったかもしれない(必死にその言葉をかけてくれた人たちには本当に申し訳ないの一言です)。私にとってはその言葉の重みよりも、その言葉を発した周りの大人ーー自分の信頼できる人、自分を生かそうとしてくれている人が悲しむのが嫌だなぁ、とか、そういう感じ。それもまた、SCから言われた「自分の未来じゃなくて他人の未来を考えちゃうのは大変だね」なんて言葉は、自分の中で すとんと腑に落ちた気がする。

自分が死ぬのが嫌だとか、苦しいとか、怖いとか。多分そういうのじゃなくて、自分をここまで生かしてくれていた人に申し訳ないとか、最期までそういう考えなんだろうな、と。楽になる方法も、周りは「生きる前提で考えること」なのかもしれないけれど、私にとっては「まあ死ぬ前提で考えて、何か落とし込めるものがあったら、許せるものがあったら、生きていてもいいと思えるかもしれない」くらいの感覚。生きる前提で話を進めると自分の死生観とのギャップが激しすぎて吐き気がする、から多分これが自分にはあってるんだと思う。いつだかに同級生に言われた「ポジティブにネガティブだよね」って言葉も今なら「えぇ、よく私のこと見てるね」って返すだろうな、確かにそう。その言葉をかけてくれた彼はなんだかんだいちばん私のことを理解していたかもしれない。低空飛行でいれば、もし落ちたとしてもダメージは少ないだろうなぁとかそういう、打算的というかなんというか、そういうところが自分にはあると思うから、意を突かれた。

 

そもそもここに文章を書き留め始めたのも、Twitterじゃもし死んでログインしてなかったらいつか消えるんだろうな〜せめて何かしらは遺したいよなぁ、みたいな。死ぬつもりなのに逆に色々考えて楽観的で(というか、人一倍認めて欲しいーー自己顕示欲が強いんだろうな、と思う)自分のしたいことをしてからにしよう、と。そして自分のしたいことはなんだろうと考えたときに浮かんできたのは、こうやって今まで幾度となく救われてきた「言葉」を自分なりに、残すことなんだろうなと感じたからで。過去の自分は多分本気で他人のために生きていたと思う、節々でそう感じるときがあった。生きているのは他人を悲しませたくないからで、迷惑をかけたくないからで(とはいえ生きてても迷惑だろうなぁと思うと堂々巡りで溜息だったけれど)。または他人のために力になれる部分が自分にもほんの少しはあると感じられていたから。それは街頭募金のボランティアをしたり、保育園でのインターンシップ、ボランティアをしたり、弟(ADHD)のために色々な調べ物をしたりーーとか、そういうところで。まあそれも結局は自己顕示欲だとか自己満足とか偽善だとかなんだけれど、何もやらないよりはマシだしそれである種救われた部分がある、自分も、それを必要としていた人も。

ある意味、「死ぬって面倒だな。生きていても死ぬとしても迷惑をかけてしまうなら、いっそ生きていたほうがまだマシなんじゃないのか」と思っていた、と思う。死にたい人は視野狭窄で死ぬしか方法がないと、死が唯一の救いだと思っていると、どこかの専門書で読んだ気がするけれど私は逆で、自分を客観的に見つめる中でそう思った(死ぬこと自体は救いというか、自分にとっての助け(?)にはなると思っているけれど)。客観的、は自分にとってのキーワードで、ある意味ここまで客観的に物事を見ていなければ楽だったろうなぁとか、勉強してしまったからこそ触れなくてもいいような起爆剤に自分から触れ、拾い集めてしまった感じは否めないんだけれど。例えば、「それが当たり前だ」と思っていた幼少期は殴られようがなんだろうが辛くはなかった。それでも、しばらくしてそれらの勉強をするようになったり、周りの人から「それは虐待だ」と言われてからそれを 当たり前じゃない と自覚する。多分、されている当時よりもそれは苦しい事だった。受け止める、自分の中で理解する。その行為は、何よりも私を苦しめたのは事実だ。こうして少しずつ、様々なことを学び、客観的に自分を見ては、色々と気付いてしまってじわじわ心が負の方向に侵食されていくような感じもしたけれど、それもまた生き方であって、私なんだろうな、と思う。自分のアイデンティティについて考えることはよくあったけれど、なんとなく、もうそういう自虐的というか自分で自分を壊していくような、それでさえも自分なんだろうな、と。生きるのに向いてないなぁ、とよく思った。

やっぱり、いると思う。皮肉だけれど、生きるのが向いていない人は少なからず存在するはずだ、と自分は思っている。そして自分はそのうちの1人なんだろうな、とも。けれどそれは(実際そうかそうじゃないかとかは置いておいて)それを言い訳にしておけば、逃げ場を作っておけば自分を守れるから、というのもあるんだろうなと、そこまで考えていて。それこそまた一周回って客観的に物事を見るーーの弊害なんだろうなあ。誰だか忘れたけれど、誰かに言われた記憶がある、「これくらいの歳の子なんてみんなそこまで考えていないよ。思慮深いのはあなたの良いところだけれど、それがあなたにとっての生きづらさになっているのは事実なんだろうね」という言葉。そう、そうなんだよなぁ、そうなんだ。もっと適当に、鈍感に、それこそ「しんどい!」とかでいい。その言葉の意味とか、深さとか、そういうのはどうでもよくて、言葉にすることが大切なんだと思う。言葉にするまでに「その言葉が正しいのか」「本当にそう思っているのか」「この場でそれを言うのが適切なのか」「言う相手は間違っていないか」とか、よくわかんないこと考えてはつっかえてしまうのは如何なものかと思う。大人だねと言われるのは嬉しいけれど、逆に子どもでいられるのは今だけなのに。大人になってしまったら、子どもで許されはしない。今しかない特権である子どもを隠して大人に成ろうとするのはそうすることが正しいと疑わなかったもっと幼い頃からやり直したいなぁと思う部分がある。

周りの人は私が「生きやすくなるために」(もうそこが大前提)色々な策を考えてくれた。正直それが、怖かった。私にとって過ごしやすい環境になったとして、それでも死にたいと思っていたらそれまでの周りの人の努力は無駄になるし自分はきっと自責の念で押し潰されそうになるし、不幸をアイデンティティとするーーというわけではないけれど、不幸じゃなくなったとき、今あるものが崩れることが、または不幸じゃなくなったのに何も変わらない自分がいるかもしれないことが、怖かった。周りの酷い環境に甘えていた、それを言い訳にしていられるのが幸せだった。恵まれない子でいれば、辛くても、死にたくてもそれを理由にしていられるから。そんな考えをしているうちは変われないんだろうなと思い、最近は色々と考えを巡らせている。何より支援者と私の温度差がすごい、何故か私のことなのに私以上に手を尽くしてくれる人達が周りには沢山いた。それは幸せなことで、恵まれていることで、生きる理由になることだと思う。それでも死にたいと思う自分への「どうして」という気持ち、逆に恵まれているからこその葛藤(だいぶ贅沢な話だけど)はあるけれど。

 

まあ、それでも。いい意味で、変わった。他人のために生きていた人生を、少しだけ、ほんの少しだけ自分のために生きている感じがする、今は。

自分のために楽になれる方法を模索する

自分のために勉強をする、自分を知ろうとする

こんなの、過去の自分では考えられなかったから。勉強をするのは私を支えてくれていた先生たちが喜んでくれるから、または見捨てられない(見捨てるなんてことないって今ではわかるけれど)ためだったし、福祉や発達障害について勉強するのは弟や母親のため、または家庭の平和、穏便を保つため、だったし。

それを、自分のために生きる、考えるーーを、出来るようにしてくれたのは、私をここまで生かしてくれた支援者たちのおかげだと思う。中学の私を助けてくれたたくさんの先生たち然り、病院の主治医や市のカウンセラー然り。高校で出会った先生たちだってそうだろうな。ミリ単位でも「自分のために」を考えられるようになっただけ大きな成長だと勝手に自負している。それまでの自分は、わからなかったから。今まで他人のために生きてきたのに、急に自分の人生を考えるなんて無理な話だったし、そもそもそれまではそれが許されていたのに年齢が上がるにつれて当たり前に自分のことを考えなさいと言われることが苦痛だった(いや本当に、自分の人生を生きましょうなんて当たり前のことだしそりゃそうだ、って感じなんだけれど)。

「あなたが幸せにならなきゃ、あなたの人生なんだから」と言われても返答に困った。どうして今までは他人のために生きて、それが許されていた、それでいいと認められていたのに急に私がいちばん嫌いな私を中心に世界を生きなければいけないのか、わからなかった。というか、そんな自分のためなんかに生きるなら死んでやろうと思っていた。死のうとしたけど死ねなくて、結局先生たちと1日を過ごした日に、色々な話をした中で私は「私のこと好きな人が気持ち悪いんですよ。私でさえ好きになれない私のことを好きなんですよ。どこがいいのか、自分自身でも分からないような人間のことを好く人だと思うと、今まで仲良くしてきていたとしても気持ち悪いと思うんです」と言った気がする。驚いた顔をしながらも、「確かに理にかなってはいるな」とか、「そういう考えになるんだ」と先生たちは言っていた。自分を好きになれなければ他人を好きになることも出来ないーーという言葉も、あながち間違ってはいないんだろうなと思う。この世で私のことをいちばん嫌っているのは間違いなく私だから。そんな私のために、私がやれることを探している。もうそれだけで、今までとは全く違うし頑張ったほうなんじゃないかなぁと思うのだ。

 

私にとって、死は救済なのかはわからない。でも、少なくとも生きるのを放棄できる唯一の方法だとは思っている(当たり前だけど)。ふとしたときに「生きていればいい」とか「生きてさえいればなんでもいい」という言葉を思い出すけれど、そんな言葉は私にとって(というか、誰にとっても)瞞しでしかない、と思う。結局その人生を生きていくのは自分なわけで、何もしなくていい、なんでもいいなんてものは通用しない。生きていくためには仕事をしなければいけないし、人それぞれのバランスはあれど3大欲求を満たしてあげる必要もある。多分それが、私にとって1番面倒なんだろうな。食欲は、拒食と過食の繰り返し、不安になっては下剤乱用をしている私にとって切っても切れないけれど、1番向き合いたくないものでしかないし、睡眠欲は薬を飲もうとも上手く眠れない自分に自信を持って自分の必要なだけ取れるものですとは言えやしない。性欲に至っては性被害に遭ってから完全に停止しているどころかその話題になるだけでフラッシュバックが辛くて死にたくなる。あの時のことは正直今はあまり覚えていない、それこそ若干解離していた部分はあるだろう。だからこそ今こうして普通でいられているわけで、なんとか解離に救われて生きている部分も私にはあるんだろうな、と。3大欲求全てにおいて不十分で、バランスが悪くて、本当に生きるの向いてないなぁ〜と逆に面白い。いや、面白がるとこではないんだけれど。こうも自分を見ていると、ここまでよく生きてきたなぁと(自虐的な意味で)思う。頑張ったねとか、労わってあげなきゃとかそういうのじゃなく、「え、ウケる。」みたいな。なんというか、自分の人生を生きていると言うよりは長い長い物語を遠目から見つめているような。自分の人生だけれど、自分で歩んでいる気がしない部分がある。遠目から見ている傍観者、なかなか壮大な物語だなぁ、なんて、そんな気分。

3大欲求の話を続けると、楽になる を考えた結果、私は自由に眠れること(眠りたいときに眠れるだけ、苦労をせずにという意)と、普通に食事ができることが再難関だけれど私がいちばん楽になれる方法だろうなと思っている。ほぼ確実に今は叶わないことだろうけれど、眠れるようになればメンタルはある程度は安定するだろうし、というか嫌なことがあっても寝逃げしてやればいいし。何より普通に食事ができるようになるというのは私が1番渇望していることに違いないだろうから。ここ数年は普通の食事がわからないままでいる、過食と拒食、そして「姉(過食嘔吐)のようにはなりたくない」ーーと思うから。だから、いくら過食しても私は嘔吐しない。若干嘔吐にトラウマがあるのも理由としてはなくはないけれど(アサリの味噌汁をどうしても飲めなかった幼稚園の頃、食べさせられて吐いて、その吐いたものを食べさせられたことがあってなかなかに嘔吐への嫌悪感が拭えないのは事実としてある)。つまり楽になるってなんだろうと考えたときに、健常者(という言い方が正しいのかと言われると微妙だけど)のような生活をしたいんだろうなと。今のご時世、逆に普通っていうものがどれほど難しいのかと考えてしまうとまた話が変わってきちゃう部分はあるので割愛するが、やっぱり普通に過ごせるなら普通に過ごしたい。普通に過ごせていればある程度の生活の質は約束されていると思うし、そもそもそんなことを考えること自体が普通なのかどうかと言ったところなんだけれど。

 

意識せずに普通になりたい。

意味わからないくらいハードル高いことを言ってる自分に笑えてくるな。いや、でも、死んでやろうと思っているような人間が発する言葉でもない気がするけど、それでも。こうして、渇望することーーそれ自体が、生きる、なのかなぁと思うし、悩み続けること が確かに生きること、進んでいくことなんだろうなと思う。視野狭窄になっていて死にたいと感じているなら、進む必要は無いし、考える必要は無いから(無いというか、もうそんな方法残されていないと、死しか自分にはないと思ってしまうんだろうな)。それこそ、ポジティブにネガティブで、低空飛行で楽観的で、しばらくは色々なことを考えながら生きてみようと思う。突発的な死にたいは、もう付き合っていくしかない。そういう病気なんだから。でも、たとえ死ぬと決めたとしても、その選択に後悔しないように。全うに過ごせていたなら、それも1つの選択肢だろうと自分は思うから。

いつか死ぬまでーーその死ぬ、が自死になるならばあと1年半と少しだろうし、自死にならない、生きることを選ぶようになれたならばそれはもっと先の話、何十年後、の話になるだろうし、わからないけれど。でも、「楽になる」を模索するのは、しばらくは続けていこうと思う。

死なないで生きることにした

「今は」の話だけれど。

 

居場所だった学校へ行けなくなり2ヶ月、色々なことがあった。それは親のことだったり、弟のことだったり、兄のことだったり、姉のことだったり、はたまた自分のことだったり。何度か本気で「ああもう死のう」と思ったこともあったと思う。今思い返せば、死ぬほどのことじゃないのかもしれないけれどやっぱりそう思っているときはそれしかないと視野狭窄になっている部分はある。

紆余曲折はあったんだけれど、心理士・カウンセラー・社会福祉士の3人と数回電話で話す機会があった(SNS相談みたいなもの)。そこでは色々話をした。学校のこと、家のこと、将来の夢の話。くだらない話も沢山したけれど、そのなかで初めのほうに言われた「自分と向き合うことが出来るのはすごくいいことだけれど、その作業は1人じゃしんどいよ。誰かとやるから出来ることだと思うんだ」と言うのはなかなかなるほどと思った。今まで自分がなんとなくでも自分と向き合えていたのは、支援者があってこそだったのかもしれないな、と。そして、「わがままでいいんだよ。高校2年生なんて、まだまだ子どもで、人に頼っていい年齢なんだから」と言う言葉には驚いた。私のなかにはもう高校2年生なんだ、人に頼って生きていくべきじゃない。自立しなければいけない。という意識がずっとあった。義務教育も終わり、高校生活も1年経験し、気付けば卒業に向かっているような年齢。そんな自分が、人に頼ることが正しいのかどうかわからずにいた。というか、頼り方もわからずじまいだったときに比べると援助希求が増してきていたというかやっと頼るとはなにかが少しわかってきていたからこそ、余計に「自分に時間をかけさせるのは……」みたいな気持ちがあったのかもしれない。だからこそ、たくさんの支援者が居るものの自分から声をかけられたことはほとんどない(贅沢な話なんだけど)。私は自分でSOSを出す能力がめっぽう弱い。唯一出せているのは中学養護教諭へのLINEくらいなのかなあとも思う、それ以外ではだいたい頼れる人たちが「大丈夫?」と声をかけてくれるから。私はいつも受け身だったし、それが当たり前だった。今となっては元担任に言われた「少しずつ人に自分から頼りに行く練習をしよう。あなたは時間とか話すこととかを約束しておかないと、自分から来ないでしょ。本当は、自分から頼れるようになって欲しいんだよ」って言葉もよくわかる。本当にそう、自分から助けを求められるようになれば、自傷も少しは落ち着くのかなぁとか思ったりもする。

頼らないことを美徳としているうちは、自分から頼ることが出来ない。頼ることをやめよう、1人で生きていこう、なんて出来るわけもないのに無理やり我慢して抑え込んで、振り返ってみると中学もそんなで今は少し後悔している。ある意味自己満足でしかない、それをしている自分に酔っているだけ。頼れる人がいるうちに、頼れるだけ頼るべきだったんだ。当たり前が、当たり前じゃなくなった今それをひしひしと痛感している。どうしようもなくなったとき、そのまま死へと向かうのではなくて、周りに助けを求められるようになること。すごく大切な事だと思う。「自分から言葉にすることが大切だから、断られたりとかももちろんあると思う、でも、何よりもまず言葉にすることが1番大切。主張をもっとしていい」と言われてからは、なんとなく自分の中で思っていることを口にする、と言うのを意識して過ごすようにしている(とはいえやっぱり難しい)。

元々児童養護施設で働きたいと思っていた手前なので、ある程度の知識を持って勉強をしていたし、インターンシップにも行った。その話を心理士さんたちにすると、「自分たちは発達の子の相談に乗ったりしている仕事だから、そうやって夢を持ってくれて嬉しい」と言ってくれた。私が私の中でやりたいと決めたことを、褒められたことが何よりも嬉しかった。この休みの間、やれることが一気に減った。お風呂には毎日は入れないし、頭は働かないし、動画は情報量が多くて見ていられなくなった(文字だけ、音だけ、じゃないと脳内処理が上手くいかずに苦しくなってしまう)。もちろん、映像授業のある教科は泣きながらノートをまとめたし、一時停止してはまた再生して、問題は解けずに悔しくて何度も泣いた。今思えば極限状態だったかもしれない。

それでもやれることを見つけて、少しずつ形にして。ペースは遅いけれど、ちゃんと自分にもやれることはある、と思えるようになったと思う。Twitterで描いているノンフィクションの漫画も全て、「何か形に残したい」という気持ちがあってこそなんだろうなぁ。どこかで私がいた証を残したい。今までは、忘れて欲しい、なくなってほしい、それこそ「死にたい」よりも「消えたい」ーーような、感覚が強かった気がするけれど。でも今は違う、必死に自分を模索しているところなのかな、と思う。

 

また、この期間中は通院回数も週に1回で(どうにか外に出るために、今の期間頼れる人は主治医だけだから)、色々な話をする機会があった。休みが長くなっていくにつれて露呈してきた解離やフラッシュバックのこと。先生に解離をする理由がわかるか尋ねられたとき、なんとなくわかってはいたけれど、自分で言葉にするのが怖かったから、言葉を有耶無耶にしながら「まあ、聞きたくもないしいいかな」と笑いながら言ったら、「まともに聞いてたら壊れちゃうから、だから自分を守るためにそうなるんだと思うんだ」と言われたのを覚えている。中学のときに理科の先生が言っていた「あなたがこうやって腕を切っても、血が止まって傷が痕が残る残らない関係なく治っていくのは、あなたの組織細胞が必死だから。あなたの身体はあなたに生きて欲しがっているんだよ」と言う言葉を思い出して、少し懐かしかった。どう転がっても自分は無意識下では「生きたい」と思っているのかな、と。そもそも自傷でさえ、生きるためにしている行為だと思っている。1番初めに腕を切ったときは確かに死にたくて、死ねるんじゃないかと思って切ったけれど、今はそうじゃない。なんとか感情に蓋をして、その一瞬一瞬を生きていくためにしていること。言語化をする前に全てを切り離して、楽になるためにしていること、だから。

そもそも「死にたい」と思うほどに悩むこと、向き合おうとすること。それは全部、生きるためにする行為なんだろうな、と思う。生きるーーを考えていなければ、死ぬなんてことは浮かばない。誰よりも生きるに固執していて、生きるを望んでいるのかもしれない。食事をすること、眠ること、人と話すこと、または通院したり、薬を飲んだりすること。それらは全て、生きるためにしていることだ。本当に死にたかったなら、通院なんかしない。する必要がない。死ねばいいだけだから。でも、「死なないために、どうにかその気持ちを緩やかにして生きていくために」私は通院している。通院をしていたから劇的になにかが変わったということは正直ないけれど、通院をしていなかったら今の私はこんなじゃなかったろうと思う。もっと酷かっただろうな。ある意味、通院はそれ自体に意味があるというよりはなんとかそれで生きながらえて、出会えるものーー生きていたら、生き延びていたら得られるものに触れられるまでの延命なんだろうな、と。

 

「親の気分変動には慣れた」と人に話すと、結構人それぞれの反応がある。主治医は「慣れるのか、強いなぁ。いや、強いんじゃなくて頑張ってるんだろうな」と。強くなるしか選択肢がなかったけれど、でも。それを認めて貰えたことで、なんだかすっと心が楽になった気がした。肯定というか、ただ聞いて貰えるだけでよかったんだ。私は聞いて欲しかったんだ、と思った。カウンセリングに関する本を読んでいて、受容だったり傾聴だったり色々なことを見ていて、学ぶことは多いけれどやっぱりそれが手法だとわかっていたとしても実際にカウンセリングでそれをされるとわかってもらえたような気がする。わかってもらえた、という感覚はほんの少しだけだけれどここまで生きていてよかったと思える。

元担任に言ったときは確か「慣れていいことじゃないよ、慣れなくていいんだよ、本当はその歳でそんな思いする必要ないんだよ」と悲しそうに言ってくれたんだっけ。そのときは、だってそうするしかなかったんだよ、と言いかけながらも愛想笑いすることしか出来なかった。他の先生の反応も「いいことではないけど(自分の)メンタルを保つためにはいいことなのかな」とか「そんなに必死に生きてるんだね」とか「聞いてて悲しくなるけれど、そうやってあなたは生きてきたんだよね」とか。多分私は、そういう言葉を拾い集めながら、頭の引き出しにしまっては生活をしている。

何かがあったときは、その引き出しをそっと開けて、「先生たちはこう言ってた」「また話せるから大丈夫」とその言葉を抱きしめている。それが私にとっての自分を保つ手立てだった。何かを言われたとき、何かがあったとき。離人感、自分を少し後ろから見つめながら、「だいじょうぶ」を唱えている。唱えているというか、流れてくるというか。だいじょうぶ、だいじょうぶ。そうして言っていれば、本当に大丈夫な気がしていた。流れてくるそのだいじょうぶの声は、時々によって違っていたけれど、私を支えてくれていた先生たちの声ばかりだった気がする。

「お前の大丈夫は大丈夫じゃないからなぁ」って私を見て笑った体育担も、「あなたの大丈夫は信用してません」って笑いかけてくれた元担任も、「すぐに大丈夫って言わなくていいよ、もっとわがままになろう」って私の手を握りしめてくれた中学養護教諭も。「それが癖になってると思うから、大丈夫って言うのは止めないよ。それでも、大丈夫じゃないって言ってもいいってことは忘れないでね。泣いたっていいんだよ」って、ティッシュを差し出してくれた元主治医も。私の記憶の中にいる先生たちの姿や言葉はふとしたときに現れて、私を生かしてくれていたんです。ずっと、そうして生きてきた。

 

 

どうしようもなく辛い2ヶ月間、何度も先生たちとの会話や、貰ったものや、言葉や、手紙や、色々なものを見返していた。高校での思い出だけじゃなく、久しぶりに開いた中学卒業アルバムや、中学元担任が作った動画、当時の日記。どれもそんなに昔なことではないのにすごくすごく遠いものに見えた。あのときはあれ以上の幸せはないと思っていたし、先生たちと話せなくなるなら、先生たちとの毎日が過去のことになるなら、思い出になってしまうなら、死ねばいい。忘れちゃう前に、自分から終わらせようと思っていた(死のうと思って向かった駅のホーム、結局飛び込めることは無かったけれど)。

私も、私以外もあれからたくさん成長した。髪を切ったのも、自立するため。腰下まであった長い髪は、駅前でも「あ!」と、中学の先生たちから声をかけてもらえることがあって、大切な先生たちと繋がるものだった。また、髪が伸びている間の記憶ーー中学入学から中学卒業までの3年間。髪の手入れをしている間は、なんだかそれも思い出せるような気がしていた。だけど、その髪の毛は夏に36cm切った。中学では考えつかないほど、変わった。少し寂しい気持ちがありながらも、切った髪の毛をヘアドネーションのために郵送を終えたときには中学のときの辛い記憶も少し軽くなった気がした。断髪式じゃないけれど、少なくとも後悔はしていない。

楽しいことばかりじゃなかった。中学も、高校に入ってからも。でもそれを思い出して、必死に縋るくらいには自分には何もなかった。違う、私が私でいられたのは、そこが学校だったから。頼れる人がいたから。だから、今の環境は少し苦しい。そんななかでネットでも色々あり、暴言を投げかけられたり。自粛ムードのなか、みんなストレスが溜まっているんだろうなあと思う。でも、それを人にぶつけて楽になる人にはなりたくないな、と改めて感じた。全てを自分にぶつけることは正しいことじゃない。それこそ、自傷行為そのものは推奨されたものではない。けれど、人を傷付けてまで自分が幸せになろう、落ち着こうなんてどうしても思えない。そもそもの感覚の違いなんだろうな。それでも、それをバネにもっと頑張っていく決心が着いたから感謝すべき部分もあるのかもしれない。

今の自分のまま、児童指導員になれるとは思っていないのは変わらない事実で。どんな道に進んでいくのかはわからないしまだ考えている途中だけれど、やっぱり向き合うのはひとりじゃしんどいので、今は考えるのは少しお休みにしてみることにした。また、先生たちに会えたらたくさん話をして、向き合って、進む道を決めていこう。下手に進もうとしても、空回りしかしない。そもそも今のこの時期は、進むべきじゃないのかもしれない。イレギュラーが続く中、無理に進もうとすればまた調子を悪くしてしまうかもしれない。だんだんと自分がどんなときにどうすればどうなる、がわかるようになってきたなぁ。

とりあえず、今は。今だけは。また、先生たちに会いたいから。ちゃんと生きて、来週も主治医に会いたいから。だから、少しだけ生きようと思っている。それが正しいのかは、やってみないとわからないから。なんとなくでも、生きていくことにした。