自分を保つ手立てを見つける

自分で生きやすい道を模索して過ごすのが無難で幸せになれる一番の近道なのかもしれないなぁと最近思う。自分が置かれている状況を理解し、それをどう切り抜けていくのか考えていく作業はやっぱりしんどい。でもそれをすることで楽になれることもあるから、どうにかそんなしんどい作業からも逃げずに立ち向かって行けたらいいなぁと思うのだ。自分と向き合うこと 別にする必要がある訳ではない。一生それをせずに、楽しく生きていける人もいるだろうし向き合えば向き合うほどいい所がポロポロ出てくるような人もいるんだろう。自分を知ることは何よりも苦しいけれど、「やらなくてもいいことを必死にやって、生きようと頑張っているあなたは本当にすごいんだよ。」と言ってくれたSCの言葉を受け止めて毎日を生きている。

 

コロナで唐突に休みに入る少し前、本当に死ぬつもりだったけれど学校で先生たちに止められ夜まで話をしていた日。あの日以来、死にたいとは思うもののどうにか行動はしないように生活をしてきた。その中で衝動的になったり辛いなと思ったときどうにか腕を切ること以外での対処法が見つけられないかと考え続けた。同時に自分の「人に褒められたい」という気持ちもなんとか処理出来たらなぁと思った結果、お菓子作りと料理が趣味になった。分量まで細かく見たお菓子作りは時間を忘れて無心になれるし友達からも好評。料理は親も作る手間が省けて機嫌が良くなることに気が付いた。

ピアノを弾くことや絵を描くこと、写真を撮ることもそうだ。この1年間で、少しずつやれること(気が紛れること)を増やしていけたと思う。中学のときは自傷行為以外のストレス発散を探そうだとか腕を切る前になにか出来ないかと考える余裕なんてなかった、あのときはただ生きるのに必死で生きてるなら別に何をしたっていいと思っていた。だから毎日のように腕を切り、涙を流し、死にたいと思いながら過ごしていた。毎日が地獄でしかなかった。頼れる人はいるのに拒絶して、自分から離れていっていたのを振り返ると、ある意味あれも自傷行為というか、自滅的な部分もあったのかもしれない。幸せになることが怖かった、自分は不幸で居なければいけないと思っていた。それは、幸せの後に必ずやってくる気分の沈みやそれ以上の不幸、苦しみに耐えきれる自信が当時の自分にはなかったから。

変わることが怖かったし、変わらずにいて欲しかった。それでも、変わらずに毎日が過ぎていくなんて無理な話で、やっと慣れたと思えばその場が変わっていき、また苦しみを繰り返していた。少しの変化で精神的に参ってしまい、熱を出したり吐き気が出たり、はたまた肋間神経痛が酷くなったり。保健室を避けた一時期を除いて、中2の半ばはほぼ毎日のように保健室に行っていたかもしれない。平熱が36.2℃くらいなのに、心因性発熱が続き37.0℃で「今日はまだマシだね」なんて言われるくらいになっていた。修学旅行も後半は体調を崩し嘔吐したり発熱したり、食べれずにフラフラで先生たちに支えられながら自宅へ帰宅したし、体育祭も最初から熱があって種目に1度参加しただけであとは救護室で毛布を被りぼーっとしていた。合唱祭でも熱があり立っているのがやっとな状態で、まともに歌えてもいなかった。

そんなこんなで私には、「中学校生活最後の」とか「義務教育の集大成」みたいな行事ごとは見事に完璧にこなせたことはない。それでも、やっぱり友達や先生は優しくて保健室に連れて行ってくれたり話を聞いてくれたり様子を見に来てくれたり荷物を届けてくれたり、車で家まで送ってくれたりした。その優しさがあったからこそ私は中学を長らく休むこともなく、苦しみながらも毎日通えていたんだと思う。どれだけ恵まれていたのか、そして今の生活もどれだけ恵まれているのか、考え始めると止まらないくらいには周囲の人たちはいつもあたたかかった。

 

死ぬと決めたとき。中学校卒業間際と、今年の2月。2度とも先生たちに気付かれて(というか連絡されて)しまったけれど、どっちでも先生たちは優しかった。死ぬなんて馬鹿なこと言わないで、なんて言われもしなかった。それほど辛かったんだね、気付けなくてごめんね、これからは一緒に生きていこう、もう頑張らなくていいよ、そんな言葉に複雑な気持ちを覚えた。

亡くなった生徒の話をしてくれた先生2人。そして、家のことや他の生徒には話していないような話をしてくれた先生たちはもっとたくさんいる。その話を聞いているうちに、「死にたいと思うことは自由だけどそれを行動に移してしまったとき、どれだけ沢山の人が悲しむんだろう」と思った。誰からも必要とされていない、誰からも愛してもらえていないなんてただの勘違いで、私にはたくさんのものを与えてくれた人達がいる。死のうと決めたときでさえ「ああ、最後に話したかったな」と頭に浮かぶ人はたくさんいた。それは、中学の先生たちだったり、高校の先生たちだったり、主治医やカウンセラー、私を傍で支えてくれた人達。そう思うと、本当は死にたくなんてなかったのかもしれない。ただ、死にたい気持ち、終わりにしたい、どうしようもないぐちゃぐちゃな気持ちに気付いて欲しかっただけなのかもしれない。

どんなに先生たちから練習をさせてもらっても、SOSを出すことは苦手だ。幸い、周りの人達がそれを出さなくても気付いてくれるから、それで生きていけていたけれどいつまでもそれに甘えていくわけにはいかない。いつかは成長しなきゃいけないし、私が変わらなければいけない。変わることは怖い、それは自分が変わることでもそうだ。だけど、これからもこうして生きていくならばそれは必須な発達課題だと思う。乗り越えなければいけない課題。乗り越えることで、進める課題。それに適応できずに何度も苦しんだ。

 

 

フラッシュバック。

知らない言葉だったし、縁もゆかりも無かった。

ただ、保健の教科書のストレス関連の単元のときに申し訳程度に書かれた「フラッシュバック」と言う言葉とその解説に、今までの自分との辻褄があって泣きそうになったのを覚えている。当時の私は怖かった。何度経験しても、頭の中で突如として流れる映像のような、実際に今経験してるかのような気持ちの悪い感覚になれることは出来なかった。それはいつも突然現れた(今思えば、怒鳴り声や大きな音など特定の条件で現れていたけれど、そのときはそんなこと振り返っている間もなかったし、それをフラッシュバックとして認識してなかったんだろうな)。内容は、その時々によって変わった。母親からの怒声、際限なく殴られたとき。ルールを破ったからと笑いながら回し蹴りをされたときや、髪を掴んで外へ追い出されたときの記憶が一気に蘇った。蘇るというか、流れてくる。流れてくるから、止めることが出来ない。周りからしたら不思議な光景だったと思う。ふとしたときに、固まってどこかを見つめながら動けなくなっている私を見た友人は、笑いながら「いい精神科紹介してあげようか」と言った。その後、精神科への通院が決まったけれど友人に話せたことは1度もない。何度もこういう、「精神科いじり」があって、しかもそれが悪意のない、自然なものとして彼女達の口から出てることを私は知っていたから。

症状の意味を知り、私は楽になったと同時に母親の言動に違和感を覚えるようになった。その時の私にとって、母親は絶対であり私の全てだった。母親の期限を損ねたらもうその1日は終わったも同然だったし、母親の機嫌を取ることだけが私が平凡に暮らせる手段だった。だけど、それが可笑しいことを私は気付いていた。それでも見て見ぬふりをしていたんだと思う。私は小学3年生のときから児童指導員になりたいと思っていて、虐待や施設に関しての本をかなり読んでいた。読んでいる中で我が家に似ている事例を見るたびに違和感を感じてはいたものの必死に目を背けていた。それが虐待だと受け止めるのに、時間はかからなかったけれど、当時の私は先生たちから言われる「虐待」の言葉も、全て閉ざして自分に向けていた。

 

解離が出てきたのは確か中学の終わりあたり。それでも、回数も少なく離人感のほうが多かったので「まあ受験もあったし疲れてるのかなー」なんて呑気に考えていた。ふわふわとするその感覚は気持ち悪いけれど嫌なものではなかったし、そのままでいた。最近になってそれが出てきて、なんとなくそういうものなんだろうなと思いつつも主治医から言われた言葉に泣きそうになった。

「そうしないといられないから、ぼーっとしていないとまともにそんな言葉を受けていたら壊れてしまうから、自分を守るために現れている」。

私はどうしてもどうしても周りからどんなに言葉をかけられても死にたくて仕方がなくて、それでも頭の中ではどこかで生きたがっているのかもしれない。それは、中学時代に信頼していた理科教諭から言われた「あなたがどんなに腕を切ってもいつか血が止まり、こうして傷痕として残っているのはあなたの体の組織が必死にあなたに生きてもらおうとしているからだよ」に近いものがあったと思う。先生からの言葉を思い出し、少し泣きそうになった。あの頃から、ずっと、私はただ生きたかったのかもしれない。

 

死にたいとか、そういう言葉をずっと使ってきた。多分それはこれからも変わらないんだろうし、もうそういうものなんだろうと思う。どれだけ助けられようが、結局はそういう感情に戻ってきてしまって苦しくて仕方がなかった。それでも、それはただ「死にたいほど辛いことに気付いて欲しかった」というだけで、なんだかんだ「生きたい」の裏返しだったのかな。生きたくて、生きたくて、仕方がなかったのかもしれない。腕を切ることで、薬を飲むことで、はたまた人に話をすることでそれを必死に伝えようとしていたのかもしれない。死にたいと泣きながら、頭の中では生きたいと、思っていた。

私はただ生きたかった。

生き延びて、幸せになりたかった。

 

たった15年間ほどしか生きていないけれど、それでもだいたいのことでは傷ついてきた気がする。それを乗り越えるために、それでも生きていくために、今の私には何が出来るんだろうか。幸せになるためには、普通になるためには、まだまだその方法を見つけることは出来ないけれど。それでも、いつか普通になれるように。自分の言う普通が本来の普通だとは限らないけれど、自分の望む普通になれたのならばそれでいいのかもしれない。落ち着こう、先を見据えよう。また死にたくなるかもしれないし、それこそ死のうと実行することがあるかもしれないけれど、それでも生きているから、どんな形であれ生き終えるまでは進むと思う。頑張る。

 

変わっていく、適応する。

ついに高校生1年目が終わったと同時に誕生日を迎えた。3月31日、私はこの日が大嫌いだった。大切な人との別れを感じながらの誕生日はいつもどこか苦しかったし、弟と誕生日が近いので家で特段祝われるわけでもないただの1日。

去年はこの日を超えるのが、怖くて怖くて堪らなかった。中学生、義務教育が終わるということが嫌で仕方なかったし、とにかく先生たちとのお別れをしたくなくて泣き続けた。当時の自分には中学校しかなかった、中学校だけが居場所だった、その居場所から、守ってくれる場所から、私を認めてくれる人達の近くから意に反して巣立たなければいけない苦痛は計り知れなかった。3月に入った辺りから不安定は続いて、養護教諭に自殺企図の是非を問われ正直に答えてしまうくらいには、担任が土日に死んでないか家に電話をしてくるくらいには、落ち着きがなかった。いつ死ぬか、それだけが頭の中にあった感情。当時の自分の目標は「卒業までに死ぬこと」だったし、去年のこの日、生きているつもりなんてなかった。

それでも今、私はこうして生きている。中学以上にたくさんの場所から、たくさんの支援を受けながら。そして、また死のうとした自分を必死に止めてくれた大切な新しい居場所 高校に通い続けている。私にとってそれ以上にないと思っていた居場所を、恋しく思いながら涙で枕を濡らす夜は少しずつ減って行った。今でも日記や先生から貰ったメモ、手紙を読むと苦しくなる部分はあるけれど、思い描いていたような地獄絵図なんかじゃなくて。高校は、中学とはまた違った大切な場所になった。

「頼ることは悪いことだ」と頭の中に刷り込まれた私に何度も何度も「頼ることは悪いことじゃない」と伝えてくれ、週に1度は必ず話す機会を作ってくれたSCや生徒指導、養護教諭のお陰で。「3月は別れの季節だけど4月は出会いの季節だから お前なら平気だよ」と言ってくれた担任のお陰で。「あなたはあなたのままでいい」と毎朝早く登校してくる私のいる教室に顔を出しては、優しく抱きしめてくれた学年主任のお陰で、私は、高校に入り人に頼ることが出来た。自分から、通院のことについてや長袖交渉をすることが出来た。頼ることを何度も何度も練習させてくれたあの場所があったからこそ今の居場所である高校がある。中学校でのあの経験がなければ、きっと今ももがき苦しんでいたと思う。

 

成長することがずっと怖かった。子どもでいないと護られないと、助けて貰えないと、今までのように過ごせないと思っていた。それと同時に、ずっと大人になりたかった。大人になって、自由になって、夢を叶えて、自分のしたいことが出来るようになりたかった。双極する感情に葛藤しながら、ここまで成長した。どんなに嫌でも苦しくても時は進んでいくし、幾度となく別れはある。それはどうしようもないことだし、頼れていただけ別れは苦しい。それでも私は、成人式でまた先生たちに会うことが本当に楽しみで生きがいだ。きっとそれまでに「あのときはありがとうございました」と言えるくらいに成長出来るから。胸を張って、お礼を言える日が来て欲しいと思う。

別れを経験したとき、辛くて仕方がなくてそれしか考えられなくなる。何度繰り返しても、別れには慣れない。だけど、新しい環境もきっといい場所であると信じて。そして、自分から行動していくしかない。時は進んでいくし、過去を見ていても何も変わらないから。そこまでに頼ってきた人達は、ここで私が立ち止まり過去ばかり見て立ち止まることは望んでいないから。

中学のとき担任が離任式で「この学校での毎日は本当に楽しかったです。次の中学ではもっと楽しい思い出を作ります。過去は振り返りません、思い出に負けません」と言っていたのを、やっと理解することが出来た。綺麗事に聞こえるかもしれないけれど、進むしかない。時間は止まってくれないし、死ぬ事で先生たちの出来事が思い出になってしまうことを防ごうとしていた自分だったけれど思い出になったからと言って今までの出来事が全て消えてしまう訳では無い。むしろ、ずっと頭の中に残っている先生たちからの言葉は生きていく上での大きな財産になっていると思う。

 

今年は運良く、大きなお別れもなかった。いや、年度末になかっただけで主治医が変わったりはあったけれど。そこでも何度も悩んだ。主治医が原因で涙を流したり腕を切った夜もあった。時が進むのが嫌で怖くて、それでも適応しようと努力した。今、新しい主治医は前の主治医に負けないくらい頼れる存在で、最初は恐れていたけれどそんなに怖がる必要は無いと気付くことが出来た。今の自分を育んでいるのは先生たちがインナーチャイルドをある程度のところまで育ててくれたからだし、いつかその恩返しがしたい。恩返しをするために必要なのは、立ち止まることでも振り返ることでもなく今までの思い出を糧に努力を続けることだと、私は思う。いつまで経っても別れは怖い。それでも、別れがあるから出会いがある。また巡り会える誰かとの出会いのために、別れを惜しんではいけないと思う。私が私であるために、そして私が今まで以上に大きくなっていくためにこれからも善処していく。

「自分だけ取り残された感覚」がずっとあった。周りはどんどん進んでいくのに、自分だけは進めずにその場で足踏みをしているような感じ。とにかく辛くて、自分はどうして周りのように出来ないんだろうかと思った。でも、自分を取り残していたのは紛れもなく自分だった。ある種、不幸に慣れたというか、不幸であることでやっと自分を保てていた部分があったからなんだろうなと思う。無意識ながらに「取り残された自分」に酔いしれていたのかもしれない。前を向くことの意味が全然わからなかったし、現在が過去になることが、日常が非日常になっていくことが怖くてそれだけを恐れていた。自分が自分を止めているんだと気付けたのはしばらく後だったけれど、その間の悩みも今の自分を育てたのかもしれない。陽性の感情も、陰性の感情も、経験しないとわかることは出来ないから。あのときの、苦しみ、憎しみ、悲しみ、怒り、拒絶もきっとどこかで私の役に立っているんだろうな。

 

誕生日と同時に学年末を迎えて、1年を振り返った。4月から、たくさんのことがあった。数え切れないほどの困難を乗り越えられたのはきっと周りの人の力があるからで、周りの支えてくれている人が口を揃えて言う「あなただから私はあなたのそばに居る」と言う言葉は、私に頑張ろうという気持ちを与えるには十分で。4月から、留年危機で通院日数を減らしたり新しいSCに会ったり市のカウンセリングルームに通い始めたり、テストに向けて何時間も勉強して結果を残したり、体育祭で倒れて救急搬送されて入院したり死のうとして先生たちと夜まで過ごしたり母親との関係に葛藤したり。父が単身赴任したり主治医が産休に入り変わったり、姉を心配したり弟の発達障害について必死に勉強したり、自分から人に助けを求めたり。たくさんの人と笑いあったり悩みを共有したり、涙を流したり。多くの経験は、きっとあのとき私の全てだった中学校以上に濃かったと思う。そして、これからの1年もまたそれ以上に濃くなっていくんだと思う。

慌ただしい毎日は気付けば終わっていて、不思議な感覚がするけれどそれでもそれほどに充実していたんだと思う。ふと振り返ると思い出すのは支援者がくれた言葉や、友達からのあたたかい優しさ。もう死んでしまおうと何度も思ったし、実行しようとした。そんな1年で私の周りにはたくさんの優しさが溢れていたし、その優しさに触れながら自分も少し変われた気がした。4月、肋間神経痛に苦しみながらも気付けば痛みは消えていて、周りには友達がいて、話を聞いてくれる先生がいて、保健室という居場所があった。来年もきっと変わらない、何かが変わって普通じゃなくなったとしても、日常じゃなくなったとしても、また何かが変わってそれが普通になり、日常になっていく。適応しなければと思っているうちに気付けば適応しているから、今はまだ思い出に浸りながら過ごしていようと思う。進むからと言って、忘れる必要は無い。ずっと心の中に思い出として留めておけばいいし、思い出になることを恐れてはいけない。その思い出をバネにもっと頑張れる日がきっと来るから、その日まではこうしてしたためておこう。

言葉に生かされ言葉に殺され

ふとしたときに普通では想像できないほどに頭を働かせ色々なことを考えるときがある。脳内多動と言うわけではないけれど、常に色々なことが頭を駆け巡っていてそれはだいたい悩みだったりいいことではないことが殆どで、締め付けられるような痛みに耐えながら必死に思考を凝らす。考え始めてしまうと底なし沼というか、どうしようもないことをどうにかしようとして結局何も出来ない自分へ感じる無力感だとかに襲われてしまう。そう考えると本当に不毛な作業でしかないけれど、それでも辞められないんだから無意識って怖いなぁと思う。

必死に1つのことを考えることが好きだった。それ以外のことは何も考えなくて済むし、アイデアを練ることも好きだから。いい案だね!と言われると嬉しくなるし、発想力はないほうではないと思う。けれど、それがどうも自分の悩みになるとポンコツになってしまう。それは多分常に頭の端にいる「死にたい」という感情だとか、自己肯定感の低さとか、そういうもののせいなんだとは思うけれどそいつらは下手に手を出すと余計に引き摺り込んでくるので何も出来ない。ただ漠然と「いるなぁ」って感じ。手出しは出来ないし、逆にそちらから近付いてくることもあって厄介な他ない。

考えることが苦痛になったのはいつからだろうか。多分、それは「考えても無駄なこと」が増えた現実を知った頃からなんだろうな。どうしようもないことは世の中に溢れていて、それに身体を蝕まれながら生活していることをひしひしと感じるときがある。それは頭の中のたくさんの考えていることが全て意味がなくて、どうしようもないことだと気付かせるには十分で毎日増えていく整理整頓ができない感情に圧力をかけて蓋をかけてしまう。「どうしようもない」と気付いたときから考えることは億劫になるし、それを放棄する。放棄してとりあえず蓋をしておけば気持ちは楽だ。それでも、いつかそれが溢れたとき、蓋が外れてしまったときにはとにかく辛くて仕方がなくなる。涙を流そうと、現実は変わらないから。結局は自分でどうにかするしかないし、その不快感は底知れぬものがある。

 

けれど、そんな密封された何かに蛇口をつけて、少しずつ少しずつそこから感情を流してくれるのが精神科医やカウンセラーがしていることなのかなぁと思う。自分は専門家でもなんでもないから蛇口をつけることは出来ないけれど、それを熟知した人に話をすることで糸口が見つかる。本当にすごいなぁと思う、自分は蛇口をつける側になれるかはわからないけど、なれるのであればそんな大人になりたいと思っている。

考えを巡らせているとき、1人だとだいたい気分が落ちてどうしようもなくなる。考えるときは一緒になって考えてくれる人が近くにいるのが1番いい。それは病院だったし保健室だったり相談室だったり職員室だったりするんだろう。行き詰まったときに「ああだめだ」と止まってしまうことがあるけれど、誰か理解者が近くにいるとまた違った視点を見つけられることがある。というか、周りに信用できる人がいると必死に考える。見捨てられたくない、何も考えていないと思われたくない、褒められたい…きっと、色々な感情があるんだろうけれど、それがまた原動力になったりする。辛い気持ちはどうしようもないけれど、そうして先延ばしして先延ばししてを繰り返していけば、気付けば気持ちは薄れてるかもしれないしもしかしたら消えているかもしれない。それが無意識のうちに起きているかもしれないから、期待して先延ばししていこうと思っている。死にたいも消えたいも全て先延ばしで、とりあえず今を生きている。

 

「生きている意味がない」と嘆く人がいる。私もどちらかと言うとそちら側の人間だと思う。むしろ生きている意味が無いから生きているというか、生きている意味を探すのが生きている理由というか、なんていえばいいのか難しいけれどある意味生きている理由を見付けてしまったらもうそれで終わりな気もするのだ。全てがいっぱいいっぱいになるまで頭を働かせることはいいことではないけれど、何も考えずに過ごしていくのはある意味不健康な気もする。少しでもなにかぼーっと考えられるものがあるというのは幸せな事だと思う。それをなくしてしまうのは、いいこととは思えない。

そもそも一生大切にしていくべき生きている意味がこんな早くにわかって溜まるものか。どれほど大人ぶっていようが自分はまだだいたい16年間しかこの世を生きていないのな。そんな人間が生きている意味を模索し見つけ出すことなんて不可能だと思う。死なないでいる理由はたくさんあるけれど、それは生きている意味とは同義ではない。他人のためにただ生きているだけだ。

 

「あなたが死んだら私は悲しい」

「一緒に生きていこう」

 

という周りの言葉に生かされているだけ。自分に意思があるわけじゃなく、ただ漠然としたままとりあえずで生きているだけ。人を傷付けてしまうのが怖いから死ねない。自分が死ぬ事で悲しむ人がいて、その人が私が死にたいと思っていることを知っているから死ねないだけ。でもその効力はなかなかに強いものみたいで、中学から高校でそうやって言葉をかけてくれるたくさんの人に出会えたけれど、苦しいものは消えないものの生きていようと思えてはいるのだ。急にくる希死念慮に耐えられるかと言われるとそうでもなくて、「先延ばし」のために腕を切って凌ぐ毎日だけれど、それでもいいのかなと思えている。汚い腕で狭まった道はたくさんある、それでもこうして生きているからこそ得られたものもたくさんあって、それは今の自分の生きる糧になっているんだろうなと思う。

 

母親やいじめっ子。加害者からの言葉には何度も殴られるような感覚を覚えたし死のうと決意するには十分すぎるほどだった。だけど、例えば先生や主治医やカウンセラー。支援者からの言葉は何度も今死ぬべきではないのかもしれない、自分は生きていてもいいのかもしれないと思わせてくれた。自分に価値がないと嘆くことは、頼れる人がいるのに頼らないことは独り善がりで自己満足であって、裏切りな気もする。上手に人に頼ることはとにかく大切なことだしそれで楽になるなら万々歳なのかもなぁ。ある意味頼ることの出来なかったときの自分は頼らないことで頼らない自分に酔いしれていたのかもしれない。単純に頼ってこなかったから頼り方を知らなかったって言うのもあるかもしれないけど。

 

急に始まる脳内会議はすぐには辞められそうにない。きっとこれが原因で苦しむことも沢山あるだろうし、現に今はこれのせいで集中なんて出来たもんじゃない。だけど、こうして文章にまとめることで落ち着いたり頭の整理がつくのはいいことなのかもな。今の自分の目標は可視化でないと認められなかったものを言語化で理解していくこと。

腕を切ることでしか自分の心の痛みがわからない今を、少しずつ言葉にすることでどうして、どれくらい痛いのかを理解していけたら。死のうとするまでしんどいのを溜め込み実際に行動しようとしていたことを、これからはそれまでに言葉にして伝えられるようになれたら。そう簡単な事じゃないけれどいつかはそれをマスターして自分を乗り越え誰かを助けられる側になれたらな、と思う。自分が支援者になるならば、自分の逆境を乗り越える他ないと思うから。特に自分の場合はだけれど、自分が乗り越えられてないのに支援者になるとクライエントに対して感情移入してしっかりとした意思が通せなくなりそうだし、どうにか克服したいところ。

今日も1歩ずつ少しずつ頑張ってみる。

 

生き延びる

経験しなくてもいいようなことをたくさん経験してきた。それは良いことであったり悪いことであったり。思い返してみれば悪いことのほうが圧倒的に多かった気がする。それでも、その経験は今の私を作っているんだと思うとなんだか皮肉めいていて笑ってしまうけれど。

幼少期、幾度となく繰り返される母親からの暴力や暴言はどこの家にもあるものだと思っていた。私が外に追い出されたタイミングで誰が帰ってこようと、関わったら自分もそうなるから と思うのか、父親も姉も兄も、私が居ないかのようにドアを閉めて鍵をする。それは私もそうだった。毎日のように誰かを見殺しにするような日々を送っていた。殴られるたびに自分が悪いからとじっと我慢した(というか、泣き止まないと殴るの辞めない と怒鳴られながらだったので自分でも必死だった

今思い返すと離人感も酷く、されている感覚はほとんどなかった)。回し蹴りくらいのときは楽だった、あれは殴られるよりも叩かれるよりも痛くないから。ただ少し痛いふりをして、必死に謝っていればよかった。髪を掴んで窓から外に投げられたときは1階とはいえ少し傷んだ。身体が痛んだのか、心が傷んだのか当時の私にはわからなかったけどきっとあのときはとても心が痛かった。食べられないもの(苦手なもの)を食べさせられ吐いてしまったらそのまま狂ったように怒鳴られ続け、1人リビングから部屋を移動させられその吐瀉物を食べさせられたこともある。親が部屋に来るたびに、全く手が進まず減らないそれに怒鳴られる、殺されると身構えて必死で飲んでは吐いてを繰り返した。

またある時は、鼻血が出るまで殴られた。そのときに母親が笑いながら言った「ブッサイクな顔」という言葉は今も私の脳裏にこべりついて離れそうにない。確か、殴られたときに身構えたから。そんな理由で、何度も何度も殴られたのだ。「汚いな。血で床汚さないでくれる?」と言われ、泣きながら血を拭いた。泣けば泣くほどに「あんたは自分が可哀想だから泣くんだ」と、母親の行動はエスカレートした。私が当時泣いていたのは勢いよく怒る母親の気迫と、空気が怖くて仕方なかったから。そして、殴られた頬がじわりと熱かったから。自分を可哀想だと思い泣いたことなんて1度もなかった。どれだけ理不尽なことを言われようと、どれだけ殴られ続けようと「私が悪いことをしたから」と思い続けていた。

外にいる時間は楽だった。怒鳴られることはあるものの、手が出ることはほとんどなかったから。外にさえいれば安全だと思っていた。外では人が変わったように"優しいお母さん"になる母親に、当時は喜んでいた。今は嫌悪感しかないけれど、とにかくそのときは嬉しかった。愛されている、やっぱり私は愛されている。私のことを愛しているからああして躾をしているんだーーと思い続けていた。そうして小学4年までを過ごした。

 

「明日、ママがいない」

 

当時見たドラマの中で1番衝撃的で、それこそ私の人生を変えたものの1つだった。そのときから、児童虐待や児童福祉について小学生とは思えないほどに調べるようになった。それにのめり込むことで全てを忘れられた気がした。そのときから少しひねくれ始めた私は殴られながら「本当は母親は私のことが好きじゃないのかもしれない」「こんな娘いらないから殴るのかもしれない」と思っていた。当時の自分は虐待という言葉を使いたくなくて目を背けていたけれど、そんなものだったと思う。毎日の理不尽な暴力と暴言に耐える日々は辛かった。だけど、痣が出来るのはいつも洋服で見えない部分で、外面のいいお母さんを見た先生たちはみんな「いいお母さんだね、優しいお母さんだね」と言う。もう、期待なんてしていなかった。

母親にとってのこだわりなのか、中学に入ると格段に暴力が減る。兄や姉がそうだったから、私はとにかく早く中学生になりたかった。小学校高学年に入り、だんだんと「お母さんの期待通りの子」になっていれば殴られる回数は減ることを覚えた。弟の面倒を見たり、部屋の掃除をしたり、買い物へ行ったり。必死にいい子になろう努力をし続けた。

今思い返すと小学校でもかなりのことをされていたけれど(親に怒鳴られ家を追い出された日はお風呂に入れないまま学校へ行ったりしていて、汚いと思われたのが初めの原因だったと思う)、家でのことに比べたら全然辛くなかった。上履きがなくなれば上辺でみんな一緒に探してくれたし階段から落とされても保健室という居場所があった。机の中に死ねと書いてある紙が入っていれば別室で先生が話を聞いてくれた。どんなに悪口を言われても家で言われていることと比にならないほど易しいものだったし、自分の手提げの中に身に覚えのないもの(同じクラスの男子の持ち物)が入っていて、「泥棒だ!」と言われたときは困惑したあまり泣いてしまったが、先生が助けてくれた。遠回しに色々なことをされたなぁと思うけれど、それはまぁもう忘れたくらいのことだ。小学生って残酷だなぁ、くらい。こんなことをされていようと、私にとって学校は居場所だったから。保健室は暖かくて休みに行けばいっしょに絵を描いてくれたし、その絵は今も保管されているらしい。保健室があったからこそ毎日通えていたのかもしれないな。

 

そんなこんなで中学へ入学し、平凡な日々を過ごしていた。けれど、楽しい毎日は半年もしないうちに崩れた。仲間割れというか、いわゆる標的にされてしまい部活内でのいじめが始まった。全員からいじめられているわけでもなく、仲のいい子もいたしもちろん私は部活動(ソフトテニス)がとにかく好きだった。女子だけという殺伐とした独特な雰囲気はあったけれど、しばらくはそのまま続けていた。大会の時間や待ち合わせの場所を委員会でミーティングに参加出来なかったときに全く違うように教えられたり、LINEで悪口を言われたりステータスメッセージに色々と書き込まれたり、色々なことがあったけれど耐えていた。でも、どこかでぷつんと糸が切れてしまった。多分その最後の追い打ちをかけたのは、私をいじめていた本人ではなく私の家族だったと思う。

兄と姉はバスケ部に所属していて、どちらも優秀な成績を収めていた。兄はバスケをしなかった私を嫌っていたし、だからこそ部活に時々行けない私に「お前が妹で恥ずかしい 部活くらい行け」と度々文句を言った。それに乗るように姉は「テニス部は朝練行かなくていいんだね 羨ましい」と、そして母親は「せっかく高い金払ってユニフォームもラケット買ったのに」と言った。そこから本格的に部活動に行けなくなったが、家にいるわけにも行かず毎朝部活動の時間に学校へ登校しては教室であかりも付けず、カーテンを締め切って過ごす日々が始まった。不運なことに、私の教室は窓を挟んですぐ隣にテニスコートがあり、ソフトテニスのボールを打返すときの独特なあの音や、メンバーの声が聞こえた。もちろんそれは、私への悪口もそうで、全てが筒抜けだった。とにかく苦しかったし、死ねたらいいなと思った。

部活動の時間が近付くと、特定の人が近くにいると、頭痛や吐き気が出るようになった。そうして、自傷行為をするようになった。ただ腕を優しくカッターでなぞるだけ。血も出ない、ただ蚯蚓脹れだらけになった腕を見るだけで最初は満足だった。けれど段々とエスカレートして、ひょんなことで担任(当時の顧問)にバレてしまった。そこからはトントン拍子で物事は進んでいき、毎週のSCとの面談の中で精神科への通院を薦められた。今通っているのがその紹介された病院だ。

 

大人なんて誰も信じていなかったし、不信感のあるまま連れてこられた初めての児童精神科。穏やかな雰囲気の待合室は私を緊張させるには十分だった。主治医は若い女の先生で、白衣を着ているのを見て「ああ、医者なんだなぁ」とぼんやり思っていた。通院回数もたいして多くなく、処方されるのは漢方のみで。変わらない毎日が苦しくて仕方がなかった。ドクターストップの勢いで辞めた部活動のおかげで家に居る時間が増え、今度は家でのトラブルが増えていった。

当時兄は家から遠い高校へ毎日通っていた。そのストレスを私や母親にぶつけ、母親のそのストレスを私にぶつけた。死にたいと思う回数が増え、何度も腕を切りTwitterで言葉を発しているうちにそのアカウントが学校に知られた。当時の生徒指導と養護教諭からその話をされ、泣きながら家の現状を話すと次の日呼び出され、児相へ連絡が行くことになった。私が早退したときに「うちの車はあんた専用のタクシーじゃないんだよ サボってんな、調子乗るな」と熱がある私に言っていた母親のことを少し気にかけていた先生たちはすぐに行動をしてくれた。ここから、人に頼ることを覚えて言ったと思う。毎日話す時間を作ってくれた先生たち。母親が荒れているときには学校の携帯電話を生徒指導が常備していてくれて、もし何かあったら連絡してね と電話番号を教えてくれた。それがどれだけ心強かったか。

その話をして、通院回数も増え、また他の先生と話をする機会も増え、だんだんと居場所が増えた。学校は楽しかったけれど、私をいじめていた人が平然と過ごしているのを見るだけで嘔吐を繰り返し、なかなかに苦しい日々だった。学年集会や球技大会、体育祭や合唱祭。嫌でも目を合わせる機会はあって、そのたびに倒れそうになりながらも耐え続けた。

中3になり、母親からの言葉の暴力に耐えきれなくなった私は食事が出来なくなった。2週間で6kg落ちた私を見て先生たちは焦り、担任はゼリーを買ってきて毎昼食私に与えるようになった。卒業アルバムには「働いたらゼリーを高い肉にして返すこと!」と書かれたけれど、あのとき先生からのゼリーがなかったら本当に生き延びることは出来なかったと思う。束の間、性被害にあったことで一時期は担任でさえも怖かった。服を脱がされ、下着を剥ぎ取られた感覚がずっと残っていたし大きな男性の手はみんな同じに見えて、とにかく自分は汚いと思っていた。いくら洗っても落ちない感覚は気持ち悪くて仕方がなくて、狭い空間や異性が怖くなった。触れられるだけで涙が出そうになり、まともに話せないときもあった。それでも根気強く接してくれる先生たちに、だんだんと頼れる人は近くにいても大丈夫になった。相談室や保健室に通いながら卒業を迎え、たくさんの先生に見守られながら無事に高校に入ることが出来た。

 

高校は中学とはまるで違っていた。欠時数が原因で通院の回数を減らさざるを得なかったし、誰なら頼れるのか最初はわからなかった。だけど、たくさんの人と関わり頼れる人は着実に増えていった。中学の養護教諭が産休に入ったり、主治医が産休に入ったり、父親が単身赴任になったり。はたまた私が熱中症で倒れ1日入院することになったり、自殺企図を立て先生と別室で丸1日過ごすことになったり、とにかく色々なことがあった。色々と濃い1年になったと思う。勉強面でも努力を覚え、成績には5が並びテストでも物によっては90点を超えた。その中で、数字に固執する自分というのも見つけることが出来た。気付けば広がっていた支援の輪に甘えながら、1年を過ごした。過去の自分では考えられないほどに未来を思ったり、これからどうするのかについて思いを馳せた。

何度もあったお別れ。特に主治医とのお別れは強烈なものだったと思う。自分にとって1番弱い部分を見せていた人が1人居なくなる、しかも急に。全くついていけないまま、「おめでとうございます」と言いつつも帰りの電車では涙が止まらなかったし裏切られたという感覚さえ覚えた。それでも、最後はこの人に診てもらえてよかったと思いながら「お互い頑張りましょう」とお別れすることが出来た。いい別れだったと思う。

新しい主治医も本当にいい人で、性被害から男性は苦手だったけれどそれを誰かに言うこともなかったのでとにかく会うまでは不安だったけれど穏やかで優しそうで物腰の柔らかい先生で、とても落ち着いた。主治医が変わるまでの間頭の中では「前みたいに先生が喜びそうなことばかりを言うのは辞めよう。辛いときは辛いと言えるようになろう」と思っていたので、新しい主治医にはいい話も悪い話もたくさんした。その結果で今とても過ごしやすくなっているから、良かったと思うし別れは辛い事ばかりではないんだなと実感した。

 

今、ここまで私が生き延びてきた記録。たくさんの人がいて、支えられて過ごしてきた記憶。全部全部大切にしていかなければいけないと思う。苦しい毎日を過ごしたことをどれほど悔やんでも進めることは無いけれど、それを糧にして努力して前に進むことは出来るから。

すぐに全てを成し遂げようとせず、残りの2年間で少しずつ成長し、大きくなっていけたらいいなと思う。

 

 

 

 

痛みの経験と成長

私は痛いことが本当に嫌いだ。その割には縫合とか内視鏡検査とかの経験があって(縫合は縫われてるときよりも麻酔が1番痛かったんだけど)、なんかなぁって思う。生理痛も今は落ち着いてきているものの中学時代はとにかく酷いものだった。顔真っ白で貧血になって倒れるなんて1度や2度ではなかったし、嘔吐も何度もしたと思う。ただ当時の自分は「痛み」を嫌っていて、どれくらいの「痛み」がどれほどの苦しさなのかをわかっていなかったからみんなそれくらいなんだと、自分が弱いんだと思っていた。

16年間で色々な痛みを経験して、過去を振り返ってみるとあの時我慢してたけど全然あんなの辛くないや って時もあれば、よくあの時表面に出さずに耐えてたな、相当な痛みだったぞ って時もある。たくさんの痛みを経験する中で自分の中での「痛み」の基準が出来てきた。それはいい事なのか悪いことなのかわからないけれど、個人的に数値化されていたり基準がないものには混乱してしまう傾向があるのでいい事なのかなぁと思う。とはいえ何度経験しようと痛いものは怖い。腕を切るようになるまで、自分から痛みを自分に与えようなんて考えたこともなかった。まだピアス穴も開けたことはないし、わざわざ自分を痛みに晒そうとも思わない。

初めて自傷行為をしたのはいつだったか。そのときは、確か血も出ないくらい浅く浅く、ゆっくりと優しくカッターの刃先を腕になぞらせただけだった。それでもそのときはスーッと気持ちが楽になったし、何より痛かった。その痛みが現実に自分を引き戻してくれるような感覚だった。そうして自分を保っていた部分はあるのかもしれない。少しずつ傷が深くなり、血が出るようになる。ぷつぷつと見える少しの血だったものは、だんだん腕から滴り落ちていくほどになっていく。気付くと自傷行為をするときに下に血をうけるティッシュや紙がなければ腕を切れないほどになっていた。

エスカレートしていくうちに、痛みの感覚は鈍くなっていった。皮膚も分厚くなったような気がする、結構勢いをつけてみても以前のようには切れない。そして消えない傷痕も随分と増えた。ふとしたときにその傷痕を見ながら、過去の記憶を思い出す。傷痕は私の中での思い出のような、記録のようなものだったのかもしれない。心の痛みを身体に変換して自分を取り戻していた作業が、いつしか麻痺して見た目で判断するようになってしまった。痛みで自分を取り戻していたときはまだ楽だった。少しの傷でも、痛いと思えば落ち着けたから。だけど今は違う。腕を切りながら「まだ、まだ、まだ、私の痛みはこれだけじゃなかった」と考える。血の流れる量や傷の深さで痛みを可視化しようとするのは終わりが見えない。一通り切ってから「ああ、これほど私は傷付いていたのか 知らなかった」と自分の腕を見て思う。

自分でも分からない心の痛みを見えるものにすることで取り戻そうなんて、健康的な方法とは言えない。それでも私にとって自分を取り戻し、可視化し、苦しみを評価する手段はそれしかなかったのだ。今となれば無心で腕を切っている間、痛いという感覚はない。どちらかと言うと「熱い」かな。腕から流れる生暖かい血液や、腕と剃刀の摩擦(?)に不思議な気持ちになる。自分が何をしているのか、自分でもよくわからず切り続けて始めて「もう辞めなきゃなぁ」くらいの気持ちで手を止める。その気持ちがなければ際限なく切っていることだろう、少し恐ろしいな。

 

腕を切り始めてからだいぶ痛みに鈍くなった。いや、逆に過敏になった部分もあるか。ふとしたときに出来た浅い傷が痛むと、「これよりも深く故意に切っている腕は痛くないなんて」と面白くなる。なんでなんだろう、自分で自分をくすぐってもくすぐったくないみたいなそういう感じ。不思議だけど、ふとしたときに感じる痛みで「ああ生きてるんだな」と思う。腕を切っている間には感じることのない痛みを感じると、まだ自分にはそういう感覚があったんだなと思う。

友達に腕のことがバレてしまわないように、そういう話題になると「痛いの嫌いだからなぁ」と言う。切ってないとは言ってないし痛みが嫌いなのも事実だ、嘘はついていない。そうするとだいたいの友達は「琥珀はほんと痛いの苦手だよね 切り傷とか見ただけで倒れそう」と。自分で与える傷と他者から与えられたりふとしたときに出来る傷はまた違うんだけどなぁと思いつつ、そんなの誰も経験しなくていい事なのでへらへら笑いながら頷く。痛みに耐えられる強さはなかなかに強くなったんじゃないだろうか。

 

最後に痛みで泣いたのはいつだろうと思うと、割と最近だったりする。確か2月頭くらいにやった胃カメラ(内視鏡検査)だったかな。いや、とにかくあれは不意打ちだった。事前に看護師からは「若いので眠った状態でやりましょう、点滴で鎮静剤入れて」と言われていたので私は嬉々としていた。寝て起きたら終わってるのか、と思って軽い足取りでベッドに転がると、医師は「とりあえずなしでやってみよう」と。え?と思ってるうちに喉の麻酔は終わり、入っていくカメラ。気持ちの悪い感覚、痛いというか、とにかく気持ち悪い。自分の体に確実に異物が入っていく感覚は耐えられたもんじゃなかった。それでも泣かずに必死に呼吸をして検査を終えた。直後に(また違う看護師から)「3月31日生まれの高1で胃カメラ!?辛かったね、よく頑張った」と手を握られ肩を優しく撫でられた瞬間に一気に涙が溢れた。

怖かった?痛かった?わからないけれど、とにかく涙は止まらなくて。それはきっと、看護師からの優しい言葉に気持ちが持っていかれたというのもあるだろう。あまりに止まらない涙に、そのまま待合室に行かせるのも気が引けたのか別室でしばらく休ませてくれた。その優しさもまた身に染みた。経験したことのないことはとにかく怖い。それに慣れるのは、あまりいいことじゃない。慣れてしまうことで「こんなものか」と思えるのはいいことかもしれないけれど、腕を切っている自分を見るとそうもいかないのかなぁと思う。

 

あと大抵の痛みには人の優しさが伴う。例えば、自傷行為だってそうだ。私は中学のとき、養護教諭自傷した腕を消毒しながら傷が減ったことを褒めてくれたり、何があったのか聞いてくれ、アドバイスをくれるあの時間が大好きだった。痛みを感じるとき、ほとんどの場合はいいことはないけれどそういう人の優しさに触れるとなんだかあたたかい。痛みを我慢して「頑張った!」と言われる風潮はちょっとよくわからないけれど、それでも褒められることや慰められることは人間にとって落ち着くというか、元気の出ることなんだろうなぁ。

他人の痛みを請け負うことは出来ないけれど、他人の痛みを理解しようとしたり、それを少しでもいやそうとすることはきっと自分にも出来ること。痛みの経験が豊富だとそういう時は有利なのかな。これからまた生きていく中で経験する痛みは増えていくんだろう。それも全てひっくるめて成長と言えるんだろうなと思いつつ、でも痛いのは嫌だなぁとやっぱり思う。

 

 

日進月歩で成長を重ねる

私が生きていくためにどれほどの大人が力を尽くしてくれただろうか、そして、何度それに救われただろうか。私と向き合ってくれた大人たちはいつも優しく、強く、頼れる人だった。中学時代の担任や養護教諭、カウンセラーや教科担を初めとする学年団や主治医から始まり、高校へ入ってもからもその支援は続いた。

当時、どれほど頼らせてもらったかわからないほどにお世話になった。そもそも頼り方さえ知らなかった私に何度も何度も根気強く接してくれた先生や主治医には感謝してもしきれない。「助けて」と言うことは悪いことじゃない、頼ることはいいことだと気付かせてくれた、義務教育最後の3年間で、私のインナーチャイルドを育ててくれた人達だ。

 

義務教育は終わり、高校へ入ったとき私は何も期待をしていなかった。もう1人で生きていくんだと、頑張ろうと思っていた。それでも、高校ではまた違った支援者が待ち受けていた。担任、養護教諭、SC、教科担を初めとする学年団、主治医、PSW、支援センターの担当者。驚くことに、支援者は増え続けた。中学から変わらずにカウンセラーや養護教諭とは連絡を取ったり会う機会があり、どんどんとその輪は広がって行ったし互いの連携も強く、何度も救われた。

もちろん高校に入ってからも希死念慮は消えることはなく、何度も死のうとしたけれどそれでも今こうして生きているのは私を支えてくれている人達のおかげだ。そうした人達は、数えてみると20人を超える。たった1人の私のために、それだけの人数の大人たちが行動をしてくれている。母が原因で最初は不信感も強かったが、段々と「頼れる大人」の存在を認められるようになった。むしろ、母からの虐待やいじめの経験には感謝している。これだけたくさんの信用出来る大人たちに出会えたのはそのお陰でもあるから。私の中で浮かぶ思い出にはいつも近くに支援者がいた。

中学、高校と過ごしていく中で変わったことはたくさんある。通院頻度や元主治医や元養護教諭の産休、父親の単身赴任、「欠時数」に苦しめられる毎日。そして、先生たちの異動や毎日会っていた人達との別れ。私にとって、別れは本当に怖いことだった。予測出来ないこと、いつものものがなくなることを異様に恐れている私にとって、別れや「思い出」になることはとにか恐怖でしかなかった。それでも、根気強く私と向き合ってくれた人達のおかげで「いつかまた会える、思い出になっても忘れるわけじゃない」と思えるようになった。

 

私の人生は支援者の元成り立っている。

 

そう言っても過言ではないと思う。そんな他人任せな生き方を、と思われるかもしれないが私が生きている理由はいつも「誰かのため」だった。今まで私を生かそうと必死にここまで頑張ってくれた人達の努力を、私が命を終えることで無駄にしてしまう。それはとても苦しいことだし、私が1番避けたいことだった。もう駄目だ、もうどうしようもないと思っても支援者と話をすると客観的に物事を見ることが出来る。私を導いてくれた恩師は数え切れないほどだし、私を作ってくれたのもそんな人たちだろう。(身体的と言うよりは精神的に)より一層私を強くしてくれた。

 

全てが限界になり、涙を流しながら話をした日。中学、高校、病院でそれぞれ1回ずつある。

中学ではリストカットをしていることがバレてしまい、学年主任に呼ばれ養護教諭とSCと話をしたとき。優しい声でどうして切ったのか聞かれたとき、堰を切ったように涙が溢れた。次の日には信頼している生徒指導の先生とも話をし、結果的に児童相談所へ連絡を入れることになった。先生たちはずっと「琥珀さんは悪くない。ここまで1人で頑張ってきたね 生きていてくれてありがとう」と言ってくれていた。本当に、大好きな先生たちだった。

高校では死ぬことを決意したものの先生たちに見つかり別室で話をしたとき。自暴自棄で、視野狭窄で。どうしようもなくなって、言葉を発しようとした瞬間に涙が溢れた。先生たちが話をしてくれた、きっと他の生徒にはしていないであろう話も、私の涙を持続させるには十分だった。落ち着いてからも、夜まで先生たちは私と一緒にいて、笑わせてくれた。死ぬことを決心した日だったけれど、同時に生きていてよかったと思えた日でもある。

病院では毒親である母親の言動、母親に似た兄の私への暴言、姉の過食嘔吐、弟のADHDのことで頭がいっぱいになって話をしながら全てがこぼれてしまったとき。止まらない涙が落ち着くまで、1時間以上話を聞いてくれた元主治医には頭が上がらない。「抱え込んで辛かったね 教えてくれてありがとう。泣けるときにたくさん泣こう」と、ティッシュを差し出してくれた。流れる涙と一緒に苦しい記憶も浄化されていったような気がした。

 

死にたいと思うほどに私を苦しめたのは身内だったし、私のことをいちばん知らないのは私の家族というのは少し悲しいものがあるけれど、生きていてよかったと私が思える日があったのはそういうことがあったからこそだ。人を傷つけるのは人だし、それを癒すのもまた人なんだろうなと思う。小学校時代のいじめや中学時代の性被害についてこれまで人と深く話をすることは無かったけれど、(そういうもの関連の話をしていなくても)なんだか人と接していく中で昔の傷は少し言えた気もする。話をすることは頭の整理にもなるし、自分を見つめ直す機会にもなる。大人になると言うことは見切りをつけることでもあるのかなあと人と話す中で学んだ。「それでいい」と認められるようになること。それは、今の私にはまだ難しい。そう簡単に出来ることではない。だけど、いつまでも過去に縋り前を向かない訳にはいかない。向き合うことだって、必要になる。

頭の整理がついたところで「きみはいい子」と言う映画を見たり、児童虐待などに関する実用書、性被害の体験記などに目を通したことがある。

フラッシュバックのトリガーとしては十分だったし、パニックになり泣きながら手を止めたりを繰り返した。けれど、幼少期私が鼻血が出るまで殴られていたことも、真冬に髪を掴まれ窓から裸足で薄着のまま外に追い出され放置されたことも、食べられずに吐いてしまった吐瀉物を食べさせられたことも。必死に抵抗しても直前まで行為に追い込まれたことも、震えながら来ていた服や下着を全て捨てたことも、汚くなった身体を泣きながら何度も洗ったことも 全て、「仕方ない」と、「私が悪かった」と割り切っていいことではないということ、それに気付くことが出来た。それはきっと、向き合う機会をくれた支援者たちなしには出来なかったことだろう。

どれほど悔やんでも、過去は変えられない。その現実からずっと目を背けていたけれど、目を背けることで余計に傷を深めてしまうことに繋がっていたのかもしれない。生きていくことはしんどいし、死にたいと思うことがなくなることもない。きっとそれはしばらくは続くことだと思う。でも、それでもいいと少しでも自分を認められるようになってきたのではないんだろうか。自分を認めることは、私が私であるためには必要なことであっていつかは経験しなければ、乗り越えなければいけないことだ。

担任に「いつかはみんな経験することだけれど、琥珀さんは早く大人になるしかなかったから みんなよりもそのしなければいけないことが多くて苦しくなってしまうんだと思う」と言われたときに腑に落ちた。ただついていけていなかっただけで、ただ少しその経験が早かっただけで、私は何も可笑しくなかった。勝手に少数派だと、自分は苦しいと思っていただけだったのかもしれない。そうして自分を悲観してみることでどうにか保っていた部分もあったと思う。

「自分はどうしようもない人間だ」と思えば無駄なことは考えなくて済むし、考えを巡らせる必要もなくなるから。それでもそれは、気持ちを言葉にすることを、苦しむことを後回しにしているだけのただの迂回ルートでしかなかった。ツケは後々の自分にやってくる。それに気付くことが出来たのはかなり最近なんじゃないかなと思う。それもまた成長なんだろうなぁ。

 

たくさんの人と色々話をする中で見えてきた自分の思考パターンも、なかなか面倒な奴だな、と思うような内容ばかりだけれどそれをどう対処していくかと考えていくと結構楽しい。

 

  • 0か100かの思考になりがちで数字や基準に固執
  • 不確かなものを嫌い、目に見えないものは不快
  • 「自分基準」が出来ず人からの言葉で生きている

 

特にこの3つは大きな気付きだと思う。テストの点数や成績は「確かなもの」であるから信用出来る。逆に、「しんどい」は自分基準でしかないし目に見えるものでもないから信用出来ない。目に見えるものにするために腕を切る。切った腕から流れる血を見ることで、「これほど辛かったのか」と可視化し、そのしんどさの程度を評価(?)することで頭を整理している。自分をこうして客観的に見てみると本当になんとも言えない気持ちになるけれど、自分で自分を理解することは生きていく上で大切なことなんだと思う。

 

まだまだ自分の気付くことが出来ていない自分の一面をこれからも支援者の元で獲得していこう。それで、少しでも生きやすく、過ごしやすくなっていけばいいな。

 

 

匿名は何を守るか

いつだかの情報の授業でやった「インターネットは便利な反面、匿名により攻撃性が増す」だとか「ネットモラル」という言葉を最近よく思い出す。私はどちらかと言うと、リアルの世界に疲れてネットに居場所を求めて始めたTwitterだったので(不純な動機)、こういう人達に出会う機会は割と多かったりする。そういうとき、匿名でしかこういうことを言えないんだろうなと改めて思う。それは、直接(リプとかで)言ってこいよ!というわけじゃなく、例えば住所や本名が全て開示され、面と向かって言えと言われたらそういう人は黙り込むんだろうなとかそういう感じ。

でも結局のところ、そういう匿名で救われている人や憂さ晴らしをして毎日を生きている人もいるわけで、それを全て制限をかけて、ハイ綺麗になりましたって言うのもなんだかおかしな話な気がしてならない。臭いものに蓋をするじゃないけれど、匿名でしか言葉を発せない人を封じ込めてしまうのはまた違うんじゃないかなぁと。匿名性って意味では今の私のTwitterだってそうだ。リア友とかに見られたりはしてるらしいけれど、実際に私と話している人の半数が私のアカウントなんて知らない。ネットの中の、たくさんのアカウントの、そのたった1つ。それだけだ。

インターネットで「常識を弁えて、他の人のことを考えて」なんてやれと言われても難しいとは思う。特に、リアルに疲れてネットにやってきた人達にとってはそれが完全に守れる人と全く守れない、守る気などない人と綺麗にふたつに別れるから。リアルでそれをし続けて、周りの目を気にすることに疲れてやってきた人からしたら「なぜここでもそうしなきゃいけない、やっと自分が自分らしく出来る場所が生まれたのに」と思うのかもしれない(憶測でしかないけれど)。

 

病み垢 闘病垢 日常垢 趣味垢 勉強垢

色々なアカウントを見てきたし経験してきたけれど、結局どれでも見ている人数が増えるほどに「綺麗な言葉」しか使えなくなったし匿名性は薄れていくような感覚だった。自分が信頼していた人に裏切られるとかそんなの日常茶飯事で、仲良くしていた人が急に浮上しなくなっても死んでしまったのか、ただTwitterに飽きてしまったのかでさえわからない、そんな世界。それでもそれに依存するような理由が私にはきっとあるんだろうし、悔しいけれどインターネット、Twitterがなくなったら自分はどうなるのかわからない。今となってはこれがある前提で生活が成り立っている部分もあるから。

私が何よりも落ち着くのは共感してもらえること。1人じゃないと、思えるから。だけどそれには同じくらいの量の批判や文句をつけてくる人もいて、時々どちらを取るべきなのかわからなくなってしまうことがある。優しい言葉よりも悪意のある言葉のほうが記憶に残ってしまうのは確かで、それは人間がそういうものだから仕方の無いことなのかもしれないけれど少し悲しい。せっかく私に言葉をくれた人達の善意が全て沈んでいって(沈めていって)しまっているようで、申し訳ない気持ちにさえなる。

匿名じゃなくなれば、どちらの意見もなくなるだろう。共感も、批判も。だけど、それではインターネットは意味を成さなくなる。特に私のような使い方をしている人達からしたら、なんの意味もなくなるだろう。

Twitterでさえいい子にしていて質問箱などもっと匿名として守られた場で荒む人もいるだろうし、何度も見てきた。なんというか、苦しかった。そういう人たちに私は手を出すことが出来ないから。私をいじめていた人は、LINEのステータスメッセージにわざわざご丁寧に私の悪口を書いていたけれどそれを私が指摘すると「別に琥珀の名前は書いてないじゃん、勘違いしないで」と。でも、確かに書かれている悪口は私のもので(思い出だとかと一致するような内容が書かれていた)、そう言われてしまうと何も言えない。匿名は守られたものであるし、その守られたものだからこそ相手からしたら腹立たしいほどのものでもあるんだと思う。私はそうだった。それこそ、殴られているような感覚。それがインターネットでは誰かも分からない知りもしない人間にされるのだ。見知らぬ人に殴られていくような感覚、そんなの味わいたくもない。けれど私はTwitterも質問箱も辞めれることはないんだろうな。

 

「どうしてまだ続けるんですか」と何度か聞かれたことがあるけれど、むしろなぜ私が辞めなければいけないのかわからない。相手は未知の人間で、例えば返信をしなくなれば、ブロックをすれば逃げたとはやしたててくるような奴らだ。そんなのに対抗していたら疲れてしまう。きっと辞めるのが正解なんだろう。けれど、匿名でしか言葉を出せない人からの応援や優しい言葉に私は何度も救われたから。攻撃的な言葉よりも、もっともっとたくさんの優しい言葉は私を潤してくれた。それによって頑張ろうと思えたことも沢山ある。(良いことであっても悪いことであっても)面と向かって言うことが出来ないことを言える場面もまた匿名なんだと思うし、それをなくしてしまうのはなんだか乱暴だなぁと少なくとも私はそう感じるのだ。

だから今日も私はそれらを利用しているし、こうして文章を書いている。それで救われる人がいるなんて、私には思えなかったけれど実際救われたと言ってくれる人もいる。匿名で守られた場所で、大切な自分の意見をしたためながらこうして公表することが出来ることが嬉しいし私はこういう自分を見つめて反省したり進んでいくことの出来る時間は大切だと思っている。文章にすることで頭の整理をして、思考を周りにお裾分け出来るならそれ以上に幸せなことはないんじゃないかなぁ。