閉鎖病棟から

蝉の声が聞こえる。空調の効いた病室のベッドの上で、ぼんやりと天井を見つめていると、ホールのテレビから聞こえる「夏日」「オリンピック」「コロナウイルス」なんていう言葉が、なんだか違う世界の話なような気がする。

高校3年の夏、受験に青春に忙しいはずのこの時期に、私は精神科急性期の閉鎖病棟に居る。外から断絶された病棟は居心地がいい。苦しい毎日から少し距離を置いたこの場所では、私は「普通」だ。マジョリティが居るからこそマイノリティが存在するのだと強く実感させられる。

7月下旬から10月初旬までの約2ヶ月半。たくさんのものを得ては失った大切な毎日。まだ記憶が新しいうちに、記録しておこうと思う。

 

2月から3月。私の気分は高揚していた。児相との話し合いも経過観察になり、晴れて自分のやりたかったことを目の前にして(受験、子ども食堂のボランティア、3年からの保育科の授業など)、期待だらけの毎日。4月。新しく仲良くなった数人の友達。慣れない環境と新生活。ぼんやりと考えていた未来は、まだ確かにそこにあった。若干の疲れを感じながら、欠席もせずに毎日学校へ通った。5月から6月。若干の違和感。止まらない涙に、朝体が重くて起き上がれない日々。世界の全てから拒絶されているような感覚に、心そこに在らずというような感覚。自分が自分なのかわからなかった。ただ能動的に生きていた毎日が、いつしか受動的になっていった。いや、受動でさえなかった。わたしは世界の誰からも嫌われていて、もう救いようがないと思っていたし、全てのことが自分のせいなように感じて悲しかった。とにかく悲しかった。死ぬしかないと、そう思った。

私は9月に受験をするつもりだった。学費免除入試。それさえ成功すれば、私の未来は明るかった。一人暮らしできるし、大学生になれる。たくさんの先生たちから言われた「あなたには大学が向いてる」「大学に行かないのはもったいない」という言葉から見えた進学への期待。大丈夫、やれる…無意識の自分へのプレッシャー。それが、私を潰してしまった。

 考えてもいなかった高校3年。わたしが、高校3年生になれるなんて。義務教育を終えて高校へ上がることをあんなに不安がっていた自分が、もうその高校さえ卒業を意識する学年になった。いや、嘘だ。入学したときからずっと卒業は意識していた。ただそれが現実味を帯びてきたのが、最近なんだと思う。なにか行事ごとがあるたびに聞こえる”最後の”という言葉。中学卒業間際のあの感覚を思い出して、なんとも言えない不快感に襲われる。変わらない自分に嫌気がさしつつも、なんだかんだこれが私だしなぁと楽観視している部分もある。入院生活でいい意味でも悪い意味でも様々なことに対して鈍感になった気がする。それは生きるための術で、仕方の無いことなのかもしれないけれど。

 

忙しさで自分の苦しさをかき消そうとするのはいつもの私のクセだ。中学のときもそうだった。役職を掛け持ち忙しなく過ごしている間は、未来の不安や過去のしがらみから抜けて、とにかく今を見ていればよかったから。きっとその感覚が今も抜けていないのだ。必死になって勉強をした甲斐もあり、一学期の成績は、体育以外は全て最高評価で、A+に溢れていた。その成績表を見たときの私はもう既に入院が決まっていて、成績に喜ぶよりも安堵の気持ちが大きかった。「いい成績だ、嬉しい」だとか、そんな気持ちじゃなく、「ああ、よかった…」という気持ち。鬱で起き上がれない日も泣きながら勉強した日も、報われた…そう思った。

入院中に仲良くなったお兄さんが読んでいた本に、”嬉しいと楽しい、前者ばかり優先する人は鬱病になりやすい”というフレーズがあった。なるほど、前者は他者がいることでなり得るものであり、後者は自身で完結することだ。つまり、他者承認を前提とした努力と自分自身をセルフケアできる能力というのは、似て非なるものである、ということだ。

 

入院生活で、覚えておきたいもの。忘れたくないもの。特に印象に残っているのは、入院中に仲良くなったお兄さん。私にとって、とてもとても大切な人。色褪せた毎日の彩りを取り戻してくれたのは、病棟で出会った彼だった。彼は、明るくて、優しくて、面倒見がよくて、運動神経がよくて、ヒーローみたいな人だった。いや、あの人はヒーローだった。確かに、ヒーローだったのだ。ヒーローは孤独。そう言って笑う彼は、とてもとても、悲しい目をしていた。いつも笑顔なのに、ふとしたときに見せるその目に、私は引き込まれた。上手く言葉が出なくて、何度も自殺未遂を繰り返した彼の話を聞くたびに、わたしは「死なせてくれないですよ、神様は。ヒーローに死なれたら、困りますもん」と静かに微笑んだ。夜19時から20時半。1時間半、歩きながら毎日話をした。多岐に渡る議論のなかで、初めて、”同じ経験をして、同じ目線で、似たような思考の人と言葉を重ねる”という経験は、私にとって回復の糸口となった。

母親からの連絡。学校との面談。外泊前や、退院前。不安で不安で堪らなくて、泣きそうになりながら頓服をもらうためにナースステーションの前で待っている私に、「大丈夫?歩くか」と声をかけてくれて、ぽつりぽつりと歩きながら話をする。少しの変化も見逃さない彼の優しさの根本は、きっと自分自身が何度も何度も何度も苦しんできたからなんだと思う。病棟で優しい人に出会うたびに、なんて優しくて、素直で、暖かい人達なんだろうと、ああどうしてみんな幸せになれないんだろう、幸せになって欲しい、もっともっと、幸せになってくれたらいいのに…と、思った。

「頑張る人は、痛いんだよ。本人も、見てる側も痛い。痛くなるほど、頑張らなくていいんだよ」。お兄さんから言われた言葉。私には崇高すぎるその言葉の意味は、すぐにはわからなかった。痛い?私は必死なのに。どういうこと?私は思考をめぐらせた。そして、また彼と話をするたびに、やっと気付いた。頑張る人は痛い。頑張りすぎていて、だんだんと尖っていく。それは無意識だし、他の人も尖っていると感じる訳では無いんだけれど、どこかで他者に痛みを感じさせる。そして、それに痛む他者。頑張りを止める苦しさを知っているから、上手く頑張らなくていいという言葉をかけるのもはばかれる。頑張らなくていい、あなたのままでいい、頑張りすぎなくても、あなたはあなたなんだよ。あの言葉は、そういう意味だったんだと思う。今でも申し訳なく思う。そんな言葉をかけてもらうほどに、わたしはできた人間ではない。逃げて、甘えて、恵まれた環境に身を置いて、流されて、流されて、生きてきた。わたしには、もったいない言葉。それでも、私は嬉しかった。私を、私として見てくれた彼と、同じ目線で会話をすることで、生きている意味を見いだせた気がする。

彼がアルコール依存症として入院してきたという話を聞いたときは、酔うと暴力を振るう兄を思い出して自然に体に力が入ったけれど、話をするたびに、兄とは全然違うじゃないかという気持ちと、兄も同じように、苦しんだ故にお酒を選択してしまったのではないか…私は、内側に向いて自傷をしていたけれど、それがたまたま兄は外側に向いただけなんじゃないか…そう、思った。

なんだか少し前に読んだ本を思い出した。人は人を浴びて人になる。私の大好きな言葉であり、大好きな本の題名。児童精神科医で、自身も精神疾患の当事者であり、ヤングケアラーだった夏苅先生。たくさんの出会いで、前を向き、少しずつ歩み始めるという本(よければ読んでみてください)。この入院生活で、あああの言葉の意味はそういうことだったのか、としみじみ思うようになった。

 

そして、覚えているのは、うまく食事がとれずに、点滴をする毎日のこと。点滴のルートを採れる血管さえなくて、足に刺した留置針が取れないようにベッドの上で過ごす日々。食事がこのまま摂れないなら、経鼻栄養を…と担当医に言われたとき、「まだ頑張るから、待って欲しい」と伝えた。そのときの担当医との会話は、今も覚えている。

 

「あなたは、もうたくさん頑張ってきました。もう頑張らなくていいんです。ただベッドの上で横になってるだけでいいんですよ、僕はそう思ってます。何をそんなに頑張り続けようとするんだろう。〇〇さんの言葉で、教えて欲しい」

「…やればできるはずなんです。それに、……それに…、栄養入れたら、また頭の中がぐちゃぐちゃになる」

「食べると、頭が回って嫌なことが浮かぶ?」

「そう、なら食べないほうが楽だった」

「〇〇さんのなかで、治りたい気持ちと治りたくない気持ちがあるのかな」

「治りたくない……またそれは違うけど、ええと、なんて言えばいいんだろう。頑張りたくないけど、頑張らなきゃいけないんです」

「これはね、あくまで提案なんだけど。入院、もう少し期間延ばそうよ。1ヶ月の予定だったけど、今の〇〇さんが外の世界で頑張ったら、すぐにまた再入院になる。任意とはいえ今の状態でハイ退院していいですよ!とは言えない。3ヶ月すればまたここ(の病棟)に戻ってこれるから、3ヶ月分のエネルギーを今貯めておこうよ」

「……いいんでしょうか」

「少し延ばしたって短いくらいだよ。あなたの傷ついてきた心が、たった1ヶ月で完璧に治るなんてことはないです。それでも、マイナスをゼロにするくらいまでは…まだ、治療を続けてもいいんじゃないかなあと思うんです、僕は」

 

「僕は、強制はしたくありません。だから、〇〇さんが嫌だということはしません。経鼻栄養も。だけどね、〇〇さんに元気になって欲しいと、思ってるんです」

「じゃあ、ゼリーを出して欲しいです。エンシュア(経口栄養剤)も。自分で、頑張りたいから。」

「わかりました。〇〇さんは頑張り屋さんだね。頑張れなくなったらいつでも教えてください。経鼻栄養の準備はしておきます」

「経鼻栄養は怖いです、無理です笑」

「痛そうで?」

「そうです、気持ち悪くなりそう」

「1番上手い人にやってもらいますよ、なんなら僕がやります笑 だから、安心してください。頑張れなくなったら、そういう手もあるから。頑張りすぎずに頑張ってくださいね」

 

エンジョイゼリー。ふざけた名前だなあなんて思いながらも、退院前最後にゼリーを食べたときには泣いてしまいそうだった。1本(紙パックに入っているので、数え方は1本で合ってると思う)300kcalのゼリー。プレーン、レモン、ストロベリー。3種類しか病院の在庫にないのか、味はいつも決まった味。豆腐みたいにデカくて、見た目が悪くて。きっと高齢者や食が細くなった人に向けた、栄養補助食品だったんだと思う。もう退院した今は食べることはないし、食べたいとも思わない。だけど、今もふと思い出すのは、ゼリーを紙パックから出してくれる看護師さんと交わす言葉の優しさだ。

飲水量の少なさから、10時と15時に看護師がお茶を持って部屋へやって来る。こんなんじゃいつ退院できるか分からないな…そう思いながらも、暖かい淹れたてのお茶に溶け込んだ愛情を感じた。

 

点滴を打ちながらの生活は、普通の入院生活よりもずっとずっと看護師さんが費やしてくれる時間が長かった。わたしは針を20回刺してやっと1回成功するかどうかだったので、代わるがわるやってくる看護師さんと、色々な話をした。そんな日常会話も、はっきりと思い出せるのだ。2ヶ月半の入院生活で、病棟の作業療法士さんや、Nsたちや、看護助手。担当医に、外来のスタッフに、主治医に、担当の精神保健福祉士。気付けばたくさんの支援者がいた。いつの間にか日常になった非日常は、わたしにしなやかに生きる力を、与えてくれた。

「17歳には、見えないね」。色々な人から言われた言葉。「世を儚んでる」「大人っぽい」「まだ未成年だったんだね」「20代かと思った」、入院当初はそう言われ続けていたけれど、退院する頃には「明るくなったね、表情が柔らかくなった」「(制服姿を見て)ああ、高校生だね…ちゃんと、高校生だ」と声をかけられることが増えて、とても嬉しかった。闇の中に確かに光が灯って、私に希望が見えた。2ヶ月半はあっという間で、そして、私にとってかけがえのない日々だった。

入院中に担当医と話をしにやってきた学校の担任と養護教諭。オンライン授業を病室で受ける毎日。夜は仲のいい患者さんたちと話をしながら、勉強をした。空き時間には、入院前には趣味をする気力もなかったなんて考えられないほどに、たくさん絵を描いて、折り紙をして、制作物を作った。それを見るたびに褒めてくれる人たち。わたしは、こういうことが好きだったんだ。何かものをつくることがすき。そうだった。入院したことで、思い出せた自分の楽しいという感覚。忘れないように、大切に大切に自分の中に留めておきたいと思う。

叫び声や怒鳴り声、火災報知器が鳴り響く病棟。そんな場所で、私は人間の本質が見られたような気がした。あまりに純粋な患者さんたちに、驚かされる日々。毎日のおはように、みんなで薬を飲んでおやすみなさいと部屋へ戻っていくルーティン。少し不思議な、修学旅行のような夜。オセロをしたり、将棋をしたり、トランプをしたり、UNOをしたり。遊びを知らなかった私は、いつしか遊びの達人になっていた。遊ぶことは楽しいことなんだと感じられるようになった。麻痺していた五感が、全身に染み出して、嬉しい、楽しい、そういうプラスな気持ちに満たされた生活。そんな充電期間を経て、また学校へ通う日々が始まった。卒業が全てじゃない。でも、卒業をひとつの目標として、今は頑張っていこうと思う。私を見守ってくれているひとはたくさんいるから、安心して安全基地から1歩踏み出して、探索行動を始めよう。愛着基盤の歪んだ幼少期の穴を埋めるように、何度も何度も、振り返り、時には思い出に浸りながら。