好意を受け取れない

「好き」と伝えられるのが怖いし、それを回避してしまう。

ずっとそうだった訳ではなくて、小学校の頃と中学に入ってからそれぞれ別の人だけれど恋人と呼べる人が居たし、自分は人当たりがいいというか出来るだけ周りに適応して生きているので(多分)、片手じゃ数えられないほど告白をされることはあった。そのときも嫌だとは思わなかったし、ただ呆然と「私のどこが」と思っていたくらいだったと思う。確実にこれが原因だろうと思うのは性被害にあったからじゃないだろうか。その人は気持ちの悪い声で「好きだ」と私に言っていた。好かれるようなことは何もしていない、それどころか初めましてだったんだけれど。

「好かれる自分が悪い」と思うことで礼節を保っていた。そう思うことで、不幸になるのは私だけだったしそもそも誰にもこの性被害の事実なんて話していないから、誰も知らずに私はどんどん沼へ落ちていった。

 

中学を卒業する目前に3人から告白された。高校へ入学してから4人から告白された。だけどその言葉を信じられることはなかったし、それどころか気持ち悪いとさえ思った。好かれてしまったら終わりだと思った。好きな人へ対応するような感じを友人から覚えたら距離を置いた。無誠実で、とにかく失礼な奴だと思う。だけど私にはそれしかやれることがなかった。そして、告白をしてくる人はいつも表面しか私を知らない人ばかりだった。そもそも私が話をしてないからいけないけれど、自傷行為も精神科への通院も何も知らない人を信用して、好きになり、付き合うなんて私には到底無理な話だった(過去に付き合っていた人も自傷行為については知らなかったけれど)。

好意を受け取れない話をすると、誰もが「自慢なの?」「告白されるだけいいじゃん」「高望み」だと言う。けれど、私からしたら告白されるというのは苦痛を伴う作業だったし嫌で仕方がなかった。自慢でもなく、何故こんなに好かれてしまうのか。どうにか告白を阻止する手立てはないのかを必死に考えたことがあったほどだ。私にとって好きだということを打ち明けられるのは全てが壊れると言うことだった。告白された人に、前のように接することは出来ない。

「友達のままで」と言われてもその人からの好意を一瞬でも感じてしまった瞬間、気持ち悪いと思ってしまう。気持ち悪いと感じること自体失礼なことで、それで1層嫌悪感が深まる。自分でもどうしたらいいのか分からない。だけど、周りに相談すればまた色々言われてしまう。

 

心の溝を埋められないままある程度の時間が経って、今は初めの頃よりもかなり不信感が強まっていると思う。好きになることも出来なければ好きになってもらうことも恐怖に思うこと、生きにくい他ない。本当に生きにくいし、けれどこんな相談を日頃話を聞いてもらっているカウンセラーや主治医に話せるわけもない。性被害のことは、忘れたいから。もう何も思い出したくないし、聞かれたくない。だけどそんなこと無理だとわかっている。これらの人達はそれを聞き出すのが仕事で、なかなか根掘り葉掘り聞かずにというのは難しいだろう。だからきっと私は話さない。

いつか好意を受け止められる日は来るだろうか。好意も悪いものではないと、または、自分が人に好意を持ち、それを不快に思わないときが。今は想像もつかないし、考えるだけで気が滅入るような話だけれど人は1人では生きられないから、きっといつかはそうなっていくのかもしれないし、そうなってくれないと困る部分もある。結局人間は1人では生きていけないんだなと思う場面が沢山あるものの自分が1人に向かっていっているのは不思議で仕方がない。人間らしさというか、そういうものが欠如してきているようにさえ感じられる。

 

15歳の私の周りの友達たちは、毎日そういう話をしている。好きな人はとか、彼氏が、とか。私は話についていけない部分があるというか、告白をされたとしても断ってしまう自分は周りからしたら不思議に見えて仕方ないらしいのだ。1番初めに彼氏が出来そうと言われた4月、それから数人に告白をされたものの私は全て断ったしそれに後悔もしていない。過去に付き合った人もいるわけで、好きが分からないという感覚が周りにとって1番わからないことらしい。例えば、好きにも種類があって、違う種類の好きは私も知っているし持っている。いうも助けてくれる先生は尊敬の意で好きだし、主治医は信頼の意で好きだし、カウンセラーは長らくお世話になっていて信用している意で好きだ。

だけど、こうも恋愛的な好きになると距離感が出来る。友達に言われた「恋をすると楽しい」は、確かにわかる。中1の頃の私は(片思い、両思いの期間問わず)本当に楽しかった。それは、好きな人が隣の席だったからで、それによって毎日助けられていたからで。今思うとあれが青春なんだろうなぁとかぼんやりと思う。それこそ、性被害にさえあっていなければ今の自分もそういう感覚だったんだろうし人生も少し楽しかったかもしれない。毎日の楽しみがない、周りとは違う自分を感じられるのはとても苦しいものがある。それが、誰にも言えないことなら尚更だ。

必死に隠し、過ごしてきていてもふとしたときにそれはぶり返す。寒い冬の日。クリスマスの次の日。横掛けのバッグ。漫画喫茶。上野。電車の中。猫カフェ。眼鏡。加害者の、身振り手振りやその日のことを思い出させるような何かにふとしたときに全てが頭に流れる。そうして、「お前は普通じゃない」と、自分に言葉で殴られるような、鈍くて苦しい感覚が走るのだ。フラッシュバックは厄介で もし言葉にするなら、心ここに在らず、というのが1番馴染む感じがする。確かにそこにいるのに、いない感覚。もうそこには居ないのに、一瞬で引き戻される感覚。そこから元に戻るまでにはたくさんの時間がかかるし、そう簡単なことではない。その危険が日常のあちらこちらに見え隠れしていて、とにかく生きにくくて仕方がない。それこそ、毎日生きた心地がしない。

忘れた、忘れられたような気がしていてもふとしたときに襲ってくるこの感情は私にまた「お前は普通じゃない」という烙印を押していく。一生消えることはないし、それが治まるまではきっと私は元に戻ることは、普通になることは、恋愛をすることは出来ないんだろうな。

 

人の好意でも、「あ、好かれてるのかもな」と感じられるものって結構あったりする。例えば、急に口数が増えたり、手助けをしてくれたり、触れてきたり。そんなときに私は1歩引いて対応をしてしまう。好きになられてしまったら、終わりだから。そんな自意識過剰な、と思われるかもしれないけれど私が異性と「普通に」過ごしていくためには大切なことだ。そうすることで、保っているんだと思う。好かれない努力は苦しい、善意で聞いていた相談事や特になんとも思わずにした言動から好かれてしまったら、もうどうしようもないから。だからこそ、私は「琥珀のそういうところも全部守りたい」と言われるたびに、もっと強くならなければ、と思うのだ。

素直に言葉を受け取り、そして求められるようになるのはまだ先になりそうだし言えない(癒えない)何かを減らしていくことは神経をすり減らすことみたいなもので、なかなか手が出せない。

これからの私がどうするの話じゃなく、こういう経験をしている人は沢山いるんだろうな。性被害だけじゃなく、性虐待などでもそうなんだろう。そういう人を少しでも減らすことは出来ないんだろうか。1人では難しいんだろうけれど、いつかは手を取り合い言葉にして前を向いて行けるようになりたいと思う。